徳永圀典の「日本歴史」J徳川時代
平19年3月

 1日 南蛮文化

日本と西洋の交流が始まり、南蛮貿易や宣教師たちの布教活動が盛んとなると天文学、医学、航海術などの学問・技術が伝えられてきた。西洋の活版印刷技術も伝わりキリシタン関係書物の印刷に使用されたが日本語に合わず定着しなかった。

西洋画の技術を用い南蛮屏風が描かれたり南蛮風衣服を着た人も現れた。パン、カステラ、カルタ、たばこ、時計、オルガンなど現在の日本人の身近な品々が日本に伝えられ、このような西洋から新しく伝わった文化を南蛮文化という。
 2日 徳川家康と秀吉家臣団 徳川家康は、織田信長を支え、その死後は豊臣秀吉と対立したが和睦し秀吉により三河(愛知県東部)から関東に領地を移された。家康は250万石の広大な領地の経営に努め実力を養った。 秀吉の死後、直属の家臣,石田三成、小西行長らの文治(ぶんち)(徳や法で治める政治)派の官僚と福島正則、加藤清正らの武断(武力で威圧する政治)派の大名とが対立する形勢の中で家康は福島らの側を支持しその盟主と仰がれるようになった。
 3日 関が原の戦 石田三成は秀吉の遺児・秀頼を盛り立てて毛利氏などと結び家康と対抗した。戦国大名は二つの勢力に分かれて対立を深めて行く。 慶長5年、1600年、双方の軍勢は東西の両軍に分かれ激突するのは必定であった。それが関が原の戦いであり家康の東軍が勝利した。石田三成や小西行長は捕虜となり処刑された。
 4日 江戸幕府 最強の武将となった家康は慶長8年,1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた。 然し、巨大な大阪城には豊臣秀吉がいて、豊臣方に秘かに心を寄せる大名や武将もいた。
 5日 大阪冬の陣・夏の陣 慶長19年、1614年、家康は機会をと捉えて大阪城を攻めて豊臣氏を滅ぼして、徳川家の支配を確立したのが大阪冬の陣と夏の陣である。関が原の合戦から実に19年後である。 世の認識では、家康の老獪さを指摘するが、老齢の家康が天下分け目の戦いの後の19年間の忍耐を如何に考えるのか、私はやはり秀頼というより淀君の大局観の無さが禍いした結果だと考える。
 6日 幕藩体制 江戸時代の統治は、将軍と大名との主従関係に支えられていた。将軍は大名(一万石以上の武将)の所領を認めて保証する。大名の所領と人民    とその行政組織を合わせて「藩」と呼ぶ。 大名は夫々の藩の統治を任されて将軍に忠節を尽くし、軍役の義務を負う。この主従関係を元に、幕府と藩とで全国の土地と人民を治める体制を「幕藩体制」という。これが江戸時代の統治の基本的仕組みである。
 7日 武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)

幕府は大名たちを、徳川一族である「親藩(しんぱん)関が原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)そののち徳川家に従った()(ざま)に分類、親藩と譜代を関東周辺や全国の要所に置いて外様を監視出きる様にした。

更に幕府は武家諸法度を定めて、無断での城の改築、大名同士の許可無き縁組みを禁止した。武家諸法度の違反を理由に大名の所領没収或いは改易(かいえき)をした。
 8日 参勤交代 三代将軍家光の頃には大名たちが一年ごとに所領と江戸を往復する参勤交代の制度を定め、幕府の大名統制に役立てた。 また大名は江戸城の修復や全国河川の工事を命じられ多大な費用を負担した。
 9日

江戸幕府の仕組み

将軍大老(臨時に置く最高職)老中(幕府の重要問題処理)大目付(大名監視役)町奉行(江戸の行政・司法)勘定奉行郡代代官(財政、直轄領行政、司法)遠国奉行(京都・大阪・長崎奉行) 若年寄(老中補佐)、目付(旗本御家人の監視)、京都所司代(朝廷や西国大名監視)、大阪城代(大阪城の警護)、寺社奉行(寺社の取締り)
10日

江戸幕府の仕組み

解説

将軍直属の家臣には、一万石以下の旗本と、より身分が低い御家人(ごけにん)がいた。将軍の直轄領、天領と旗本の所領などを合わせると約700万石となる。幕府は全国石高(こくだか)の約四分の一を支配した。 幕府の統治は家光の頃には、老中(ろうじゅう)を筆頭に若年寄(わかどしより)目付(めつけ)、各種の奉行などの役職が整備され、譜代大名や旗本がその職について合議しながら行われた。
11日

禁中(きんちゅう)並び(ならび)公家(くげ)諸法度(しょはっと)

江戸幕府の統治の拠り所は、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった。そこで朝廷を敬いながら同時に、過去120年間の戦国の世の為に、朝廷と公家の生活が困窮し伝統が断絶していたのを、天皇は日本の源であり救済する必要があると見抜いた家康であった。

公家は地方に縁故をたどり流れ、公家の格式・伝統も荒廃していた。天皇が日本の源であり中心であるとその復活を求める為に財政的支援をした。大嘗祭の復活を支援した。同時に公家の私生活の乱れもあり、禁中公家諸法度を制定し規制を加えた。為に朝廷との関係が緊迫することは止むを得まい。

12日 天下統一者の人間像

織田信長「鳴かぬなら殺してしまうほととぎす」という生き様であった。また、「織田がつき、羽柴がこねし、天下餅 すわりしままに食うは家康」という歌もある。これには私は若干の異論がある。

巨視的に見れば、日本はなんと言う仕合せであったかといえる。織田信長は徹底した破壊者、また革新者である。比叡山焼き討ち、足利将軍家の追放、大量の鉄砲の導入し時代建設の基盤が整えられたのである。
13日

豊臣秀吉

「鳴かぬなら鳴かしてみせようほととぎす」、これも的を得たもので秀吉の人となり誑しを言いえて妙がある。

織田信長の事業を引き継いだ秀吉は、徒に軍事力を用いることがなかった。広い視野と人間的魅力と巧みな政治力とで人々を動かし天下統一を完成した英雄である。
14日

徳川家康
「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」
これも正孔を得た指摘である。私は家康は、途方もない忍耐で「待つ」ことをした人物だと思う。関が原の戦いから、豊臣秀頼、淀君母子が大阪城落城で自害するまでの期間は驚く勿れ、17年である。これは充分家康に豊臣という天下統一者を一方的に破滅させる意図はなかったと見てよいのではないか。

「人の一生は重く荷を負うて遠き道を行くが如し」と。

織田信長、豊臣秀吉のような華麗さはないが、為政者として周到な努力があったからこそ世界でも稀な平和300年が齎された。
15日 ご朱印船と日本町 16世紀末から大名や大商人は貿易のために東南アジア方面に盛んに船を出すようになった。慶長9年、1604年、江戸幕府は日本船の信用を得るために国として認めたことを示す朱印状を船に与えるようにした。
この船は朱印船と呼ばれその
後の数はほぼ30年間に350隻にのぼった。それに伴い日本から台湾、マカオ、東南アジア各地に日本町が誕生し合計7000人から一万人の日本人が住んでいた。中にはシャム(タイ国)の高官になった山田長政のような人もいた。
16日

キリスト教禁止と鎖国

貿易に熱心であった幕府も秀吉と同様に宣教師やキリスト教徒は厳しく弾圧した。特に旧教のスペイン・ポルトガルの南蛮人と呼ぶ宣教師は、表向きは布教であったが、領土的野心があるとされた。17世紀初頭、オランダやイギリス船が来航し平戸で防疫が許された。 オランダ・イギリスはキリスト教布教に関心がなかった、そして幕府にスペイン・ポルトガルは日本征服の野望があると密告した。そこで幕府はスペイン船の来航を禁止し日本船の渡航も次第に制限し寛永12年1635年には日本人の渡航、帰国を全面的に禁止した。
17日 島原の乱と仏教の退廃 九州は島原で1637年、キリシタン達が天草四郎時貞を首領にして大規模な反乱を起した、これが島原の乱である。翌年幕府は漸く鎮圧した。幕府はその後キリスト教の取り締まりを強化し、人々がキリシタンかどうか調べる宗門改めを行った。そして全ての人を寺の檀家とさせ その人が仏教徒であることを寺が証明する制度、寺請(てらうけ)制度を設けた。以後、僧侶が布教せずして生きて行けることとなり仏教の退廃と庶民の信教の自由の制約を受けることとなったのは否定できない。日本仏教の葬式仏教化の始まりである。
18日 鎖国の始まり 島原の乱で幕府は海外からのキリスト教の流入をより徹底して防ぐ必要を感じた。そこで寛永16年,1639年、ポルトガル船の来航を禁止し、オランダ人の商館も長崎に移した。鎖国と呼ばれる制度はこうして完成したのである。

―然し、幕府は国を閉ざす意図はなかった。幕府はキリスト教の流入を防止し、貿易と海外情報の収集を幕府自身が管理することで、諸大名を統制しつつ海外との交流を維持しようとした。それで鎖国と後の時代の人が呼んだのである。

19日 鎖国と対外関心 長崎の出島では、オランダ船が中国産の生糸、綿織物、漢籍(中国の書物)、ヨーロッパの時計、書物をもたらし、日本からは当初は銀や銅、後には伊万里焼などが輸出された。 幕府はオランダ商館長に「オランダ風説書」を提出させ海外情報を得た。長崎には中国船も来航して交易し、国際情勢について記した「唐船風説書」を幕府に提出した。
20日 明の朝貢を拒否した幕府 幕府は明と国交を結ぼうとしたが、明は幕府に朝貢を求めた。幕府はその意思は無く明との国交は実現しなかった。やがて満州人(漢民族ではなく女真族であり元来、中国が自己の領土と言うのは歴史的に大間違い、台湾とて同様である。)の王朝である 清が登場すると幕府は過去の元寇を思い出し、清に抵抗する明の武将達を支援することを検討した。日本が支援する前に明の武将達の抵抗は失敗、日本は清と国交のないまま長崎での貿易関係だけ続けた。
21日

朝鮮半島

家康の時、対馬の宗氏を通じて秀吉の出兵で断絶していた朝鮮との国交を回復した。両国は対等の関係を維持し朝鮮半島からは将軍の代が変わる度に通信使 と呼ばれる使節が江戸を訪れ各地で歓迎された。また朝鮮の釜山には宗氏の倭館が設置されて、約400-500人の日本人が住んで、貿易や情報収集に携わった。
22日 琉球 17世紀の初頭には薩摩藩は兵を送り琉球の王朝である(しょう)()を屈服させた。琉球は薩摩藩を通して幕府に臣下として従うこととなった。 その一方で、琉球は新しく中国に成立した清にも朝貢したが、幕府は情報収集や琉球を仲介とする清との貿易に着目してこれを黙認した。
23日 蝦夷地(えぞち)

北海道のことである、松前藩は蝦夷地の南部を支配しておりアイヌ人たちと交易し海産物や毛皮などを入手していた。アイヌ人たちは漁労に従事しつつ千島列島や樺太と交易していた。さらに中国大陸の黒竜江地方とも

交易していたので日本には彼等を通して蝦夷錦と呼ばれる中国産の織物も流入した。アイヌ人たちは松前藩の交易方針に反発してシャクシャインを指導者として戦いに立ち上がったが松前藩に鎮圧された。
24日

身分制度

武士

秀吉は刀狩を行い平和な社会を目指した。江戸幕府もそれを受け継ぎ、「武士と百姓と町人」という身分の制度を定めた。 武士は統治を担う身分として名字・帯刀などの名誉を持つと同時に治安を維持する義務を持ち、城の警備や行政事務に従事した。
25日 身分制度

百姓・町人
統治費用を分担し、武士を経済的に養うのが、生産・流通・加工などにかかわる百姓と町人の人々であった。 このような身分の間で相互に依存する関係が、戦乱の無い江戸期の安定した社会を支えていたのである。僧侶や神職、様々な芸能に携わる人々がいた。
26日 差別身分 こうした身分とは別に、えた・ひにんと呼ばれる身分が置かれた。これらの身分の人々は、農業や死んだ牛馬の処理、皮革製品や細工物の製造に従事し特定の地域に住むことが決められ るなど厳しい差別を受けた。このような差別により、百姓や町人に自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせて不満をそらせることになったと言われる。
27日 村と百姓 幕藩体制の経済は主として農村からの年貢に依存した。農業を営む百姓には、自分の土地を持ち幕府や藩に米で年貢を納める「本百姓」と、土地を持たない「水呑(みずのみ)(無高)百姓」があった。 村では有力者が名主(なぬし)(庄屋)、組頭・百姓代などと呼ばれる村役人となり、年貢の徴収や入会地の使用、用水、山野の管理など村全体にかかわる仕事をし村の自治を担当していた。
28日 惣の伝統

自治は中世以来の「惣」の伝統を受け継ぎ、寄合により行われた。村人は五人組に組織され、年貢や犯罪防止の連帯責任を負った。

村には様々な相互扶助の慣行があり、没落した農家を協力して再興することも行われた。 

29日 百姓への規制 また寄合で決めた掟を守らない者には村八分の制裁が加えられることもあった。 幕府は安定した年貢を確保するため、田畑の売買を原則禁止するなど、百姓の生活を色々と規制しようとした。
30日

百姓という言葉は、元々古代律令制度の公民の伝統を引き継いだもので農民は年貢を納めることを当然の公的義務と心得ていた。

だが、不当に重い年貢を課せられた場合などには、一揆を起してその非を訴えた。幕府や大名は一揆に厳しく対処したが、訴えに応じることもしばしばあった。
31日 生産と流通 兵農分離の結果、武士はすべて城下町に集められた。武士の生活維持のため村の生産物を流通させ加工する必要があった。 その為に、職人や商人も城下に集まり町人となった。町人は冥加金や運上金と呼ぶ営業税を納め有力者が町役人となり自治に当たった。