さあ-動乱期だ!!

――頼りになるのは人物のみーー

 

さあ、動乱の季節到来です。

動乱期こそ

頼れるのは人、

その人を見抜く、人を見る目、長けていなくては生き残れません。

 

人物鑑定の決め手は、四つあるといわれます。

人相、応対辞令、出処進退、修己治人です。

 

シナの歴史は

動乱と革命の連続です。50年、100年の大乱などは決して珍しくはない。

 

清朝初期の有名な、康煕乾隆朝でも、せいぜい70年の小康状態でした。

 

シナ人は、内乱や革命に対しては極めて耐性のある、強いしたたかなものがあります。

 

どの民族でも人間は、地位、財産、名誉を求めるものだ。

それの入手に努力する。人間の本性でもあります。

 

だがシナ人が他の民族と一味異なるのは

それが如何に空しいものであるかも歴史の体験で保有していることでありましょう。

なぜならば、ひとたび革命が起きれば、真っ先にやられるのが、

地位の高い人間、財産があり名誉のある連中だ。

 

これらは、最後の土壇場では全く当てにならない。

これがシナ人特有の虚無感であろう。

 

地位、財産、名誉が、当てにならぬものなら、一体、何を信じたらよいのか。

 

それは、やはり「人間」だとシナ人も思っているわけです。

 

つまらぬ人間や、危険な人間を信じたら、自分の運命までおかしくなり危険にさらされる。

 

そこで、

人間を見る明、或いは人物鑑定法が、乱世を生き抜く知恵としてシナでは特に発達してきている。

 

その方法論としては

人相、応対辞令、出処進退、修己治人と云われてきています。

 

そこで、第一の人相

顔面の皮膚には、体中の過敏ポイントが集中しているといわれます。

洞察力があれば、

健康状態から、精神の在り方まで見抜ける。

逆説的に言えば

精神を磨いてきて、ある心境に到達しておると、

精神の輝きが自ずから顔面に現れる。

そうなると醜男でなくなる。

リンカーンが云いましたね、

 Man over fourty is respomsible for his face

 

人間も40歳過ぎたらその面に責任もて!

これは肯綮を突いていますね、こうけい、余り使わないが物事の急所、肝心かなめのことです。

 

人相の何を見るか

第一は

それは 福相か凶相です。

 

地位、財産、名誉のない一介の書生でも福相と見たら近づいて先物を買う。

しかし、いかに地位財産名誉があっても、否、それがあれば有る程、危険も大きい、だから凶相と判断したら、敬して遠ざけてしまう。凶運も巻き込まれないためです。

 

彼らのいう最高の福相は、「曲眉」――きょくび、そして豊頬―ほうきょう、大耳―だいじ、鞭体―べんたい、鞭のような、しなやかな体、の四つを備えている人間と云われております。

 

第二は

応対辞令、私がよく申す応対辞令ですね。

辞令交付の辞令、本来の意味は

「言葉の使い方」です。

人を見る場合の重要な指標、メルクマークとなります。

 

人間は、相対しただけけで、

「この人間は、出来ているかな」ととか

「軽薄で物を知らぬな」とか

大体はわかる。

まして、物を云う段になると

「出来た人物の言葉にはコクがある」

「コクがあってもボディーランゲージが上からの目線とか、態度が尊大とか謙虚さが無いと受け入れられない」、この背景に,日ごろの無言の付き合いとか人徳が醸し出されてくる。

実に微妙なものなのであります。

「付け焼刃ではどうにもなりませんね」

 

第三番目は出処進退、

この出処進退の「退」を厳しく見ます。

これには人間臭い作業が必要であります

一つは

「退いて後継者を選ぶ」、企業では自分がいなくても仕事が回って行くようにする事ですが、

これは「己を無にする作業」となりますね。

今一つは、

「仕事に対する執着を断ち切る作業」となります。

仕事を離れますと自分の生活の中にいかほど仕事のウエートを占めていたか良くわかります。

胸中を去来するのは仕事の思い出ばかり、それが高じてくると、自分が世の中から取り残されるように寂寞たるものは実力トップほど直面します。

更に

「進む時は人にまかせ、退く時は自ら決せよ」指導者の原則、だからトップの日頃の心の出来栄えが露出されてきます。

 

最後は「修己治人」しゅうこちじん、

人の上に立つには魅力が無ければなりませんね。

魅力的でなければ人はついてこない。

人がついてこなければ事業などやれない。

 

では「魅力」とは何か。

これ曰く言い難しですね。

然し魅力とは厳然たる事実だし、魅力がないというのも厳然たる事実。

 

西郷隆盛の魅力を想起した。

豊前の国、中津藩ながら薩摩の西郷隆盛に殉じた西南の役の隊長に増田宗太郎がある。

 

西郷隆盛のことに就いて、

曰く

「かの人は誠に妙である。一日、かの人に接すれば一日の愛生ず、三日、かの人に接すれば三日の愛生ず。

しかれども予は接するの日を重ね、今や去るべくもあらず、この上は、善悪を越えて、かの人と生死を共にするほかはない」と云った。

こういう魅力をいかにしてつけるのか、それを説いたのが「修己治人の学問」つまり「帝王学」でありますが、こんな人は滅多におらぬ。まやかしのごまかしばかり、小手先ばかりの時代となってしまった。

 

原理原則を教えてくれる「師匠」が必要なのですが、なかなかであります。

 

帝王学というと、いかにも特権階級の学問のようでありますがね、

実は、「魅力の学問」即ち「人間学であります。

 

帝王学には三本柱があります。

一、原理原則を教えてもらう師を持つこと。

二、直言してくれる側近を持つこと。

三、幕賓―ばくひんーを持つこと。

 

一の原理原則とは

 昔は通用したが、今は通用しない、これは原理原則でも何でもありません。

何時も、如何なる時代にも、如何なる場所に於いても通用するのが原理原則たる所以であります。

それを教えて貰う師を持つ。

 

二は、

「一国、争臣なければ殆し、あやうし」とあるように、

主君に直言する争臣がいないと、知らず知らずの中に「権力の毒」が回り人間が傲慢になってくる戒めですね。

 

四、幕賓は、個人的アドバイザーです。

 野にあって時々会って直言してくれる人物です。

 これが中々いないものですね。

 パーソナルアドバイザーがとても必要ですね、

良識があり常識もあり普遍性ある人物ですかね。そういう斜め上の人物です。少し遠慮もあるが互いに尊敬し合い忌憚なく大所高所から直言してくれる方ですな。

社外重役の位置づけですかな。

       令和321

 

  徳永日本学研究所 代表 徳永圀典