政治家の赤心(せきしん)とは 山内昌之 東大教授 

民主党に限らず「赤心(せきしん)の人」とも呼べる政治家に出てきて欲しい。

またしても出た鳩山前首相の言葉の軽さには呆れるほかないが、国民も「宇宙人」などと呼んで面白がったツケがいま回ってきているのだろう。

一事が万事、言葉に重みがなく立居振舞の軽い芸能人などが政治家になる御時勢だ。 

我々日本人の劣化も進んだのだろうか。派手な政局の演技は得意でも、財政や外交など地味な政策に関心のない議員が多すぎるのではないか。

能力や適性というよりも、歴史観や国家観といった政治家のバックボーンがしっかりしていないのが気になる。 

赤心(せきしん)()して人の腹中(ふくちゅう)に置く」という言葉がある。

自分の真心を人の腹の中にあずけるとは、人を厚く信じて隔てを少しもおかずに接することである。

後漢を開いた光武帝劉秀に降伏した者たちがこぞって彼の徳を褒め称えた言葉なのだ。「後漢書」(光武帝紀上)では、続けて、「(いずく)んぞ死を(いた)さざるを得ん()」とある。どうして劉秀に命を捧げないでおれようか、というのである。 

現代語で言えば、赤心は誠意ということだろうが、子供手当てのようにバラマキで「善意」を示すやや俗ッぽい振舞いとは全く違う。敢えて言えば、幕末に西郷隆盛と江戸開城を談判した幕臣・山岡鉄舟の無私の姿勢に近いであろうか。 

山岡は剣術しか知らず、政治の駆け引きなどをしたこともない。真っ直ぐな気性の山岡は、主君の徳川慶喜を何とかして死から救い、江戸八百八町の住民を路頭にまどわさないことだけを考えていた。気持ちが一途なのである。

真心に打たれた西郷隆盛は慶喜の助命も認めた。国会対策でも言葉に誠意がこもっていなければ野党も協力のしようがない。

「西郷南州遺訓」に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は為し得られぬなり」という警句がある。

これは、どうやら山岡鉄舟を指した言葉らしい。捨て身で無欲な人物でないと、悲喜こもごも苦悩を共にしながら国家の大事を図れないというのだ。 

西郷は山岡を侍従に抜擢して、女官らの囲まれた明治天皇の柔弱な生活環境を一新した。政治改革にも大胆な発想と覚悟がいる。管首相はまだ何一つ捨て身になっていない。

首相が周囲の意表をついて職を賭せば難業も存外に達成できるはずなのに。

ただし一代につき大きな仕事一つである。消費税値上げを目指すならそれもよし。TPP(環太平洋戦略的経済連繋協定)の締結ならそれもよし。

いわば、徒手空拳から身を起し遍路の旅に出たこともある管首相ではないか、赤心の境地に立てば難問も一つだけは解ける。懸案を一つ解決して廟堂を去っても市民運動から出て異数の出世を遂げた人間ならば以て瞑すべしであろう。

良質な有権者はきっと分かってくれる。かえって民主党の反転攻勢につながるかもしれないのに、首相は何を逡巡しているのだろうか。