お水取りに日本の仏像を思う

お水取りだ、春が近い。東大寺二月堂の本尊は十一面観世音菩薩、20代に大和古寺風物誌という亀井勝一郎の書に惹かれ奈良を中心に多くの古刹巡りをした。和辻哲郎の書・風土に傾注し人間、所詮は風土の産物、風土とは人間であり人間とは風土であるとの人間観に魅入った青年時代。斑鳩の里、法隆寺の土塀に沿って夢殿、庭続きの中宮寺如意輪観音像でしばし思惟と瞑想。一面の畑地、秋の柿の木の絶妙な風景を見て法輪寺と法起寺の塔を眼前にする。春は陽炎のぼる野辺に坐しひばりの空高きさえずりに飛鳥人へ思いを致し天平(てんぴょう)(しょう)(ほう)時代に憧れた。仏像とは全てこのようなものと思い込んでいたが、30代以後、海外経験とか書物により東南アジア、中国、韓国の仏像と日本の仏像には巨大な相違があるのに気づく。日本の仏像表情には魂がある、精神性極めて高くあらゆる点で圧倒する日本の仏像に祖先へ強烈な畏敬を抱いて今日に至る。彫刻師・康慶、運慶、快慶らの現実的写実性、力強く豪快な躍動的造形美は武家の思念と合致したのであろう。圧倒され打ちのめされる思いの東大寺法華堂不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)、天平の傑作四天王立像、興福寺の阿修羅像北円堂の無著(むちやく)像、生き生きした表情に崇高な精神を現前させている。鎌倉の傑作、日本の肖像彫刻を代表する仏像の数々、お水取りに祖先の偉業を思い出した。   完  
                              徳永圀典