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押し黙る一人の歩み昼たけて

     八瀬大橋を渡りけるかも 木下利玄 

後醍醐天皇が北条軍を避けて比叡山に逃げられた時、八瀬の里の人々が尽した。

ここは、私は比叡山の登り口としてのみ記憶がある。 

だが、昭和天皇崩御の時、大喪の礼に天皇の(ひつぎ)、即ち葱華輦(そうかれん)を八瀬の輿丁(こしてい)225人が(うやうや)しく奉舁(ほうか)したのを強く記憶している。

調べてみたら、こうある。矢張り八瀬は天皇と深い繋がりがあったのだ。

()(せの)童子(どうじ)山城国愛宕郡八瀬郷に住み、室町時代から天皇輿丁(こしてい)として奉仕した人々のこと。延暦寺の雑役に従事した童子村で伝教大師最澄が使役したの子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。現在、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められており、平成22年資料741点が重要文化財に指定された。また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。

岫雲斎圀典