岡田(たすく)陸軍中将と吉川(きっかわ)経家(つねいえ)鳥取城主               日本海新聞掲載 平成20年3月3日                            

今、鳥取人が注目されている。三名の名前をまず挙げよう。

1.岡田資(たすく)陸軍中将―元・東海軍管区司令官。
2.直木賞受賞の女性作家・桜庭一樹さん。
3.そして、美少女・日本一に輝いたグランプリ蓮佛美沙子さんである。

岡田資中将は私の母校・鳥取第一中学校の出身である。

伝説映画『転校生』のリメーク作品の主演を務める蓮佛美沙子さんも鳥取市出身。
桜庭さんは米子市出身で,先般、直木賞を「私の男」で受賞。

さて、岡田資陸軍中将、

1.不条理な「戦犯裁判を一人で戦い抜いた武士」。
2.B級戦犯として、昭和24年9月17日、堂々として所信を貫き、同じ監房の同僚戦犯者に対し、「君たちは来なさんなよ」と告げて巣鴨の十三階段の露と消えた。
3.岡田中将は、戦犯裁判の判決「絞首刑」に対して、ただ一言「本望」であると傍聴席の妻に言われた。
4.岡田中将の戦犯容疑とは何か。それは、戦争中にアメリカが行った名古屋近郊の「無差別爆撃」に対して、東海地区防衛第十三方面司令官としてアメリカB29爆撃機に砲弾を浴びせ撃墜したB29の搭乗員の処刑命令を発したことである。
5.名古屋近郊のこの時のアメリカ空爆の被害は、 一夜にして
@焼失家屋2万6千戸。
A罹災者10万5000人。
B死者、519名。
の大被害、この無差別爆撃は、当然のこと「国際法違反」である。
6.岡田中将は、不時着して捕虜となった搭乗員を、東海軍は軍律に基づき略式裁判をして死刑に処した。中将は「搭乗員が国際法違反を知っていたかどうかは無関係、私が違法と判断した」とした。
戦後、アメリカ占領軍は、これを戦争犯罪行為として戦犯裁判にかけたのである。
7.戦争を裁判にかけるという、前代未聞の摩訶不思議な報復。
8.民間人への無差別爆撃という「非人道的行為」の国際法違反を岡田中将は、自らを正当化することなく、堂々と主張した。
9.また、処刑は「軍律」に準拠したものであり、その責任は全て司令官たる自分に在り、部下には一切の責任は無いと終始一貫して主張した。これは鳥取城主・吉川経家が豊臣秀吉の慰留を拒絶し、自刃と引き換えに部下の生命を助けたことと同じ精神である。
10.岡田中将の遺稿や書簡には下記の記述があり、現在の日本の政治家・官僚と比して、さてしもと、心の震う思いがする。
「敗戦直後の世相を見ると、言語同断、何も彼も悪い事は、みな敗戦国が負うのか?なぜ、堂々と世界環視の内に、「国家の正義」を説き、「国際情勢」、「民族の要求」、「さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりし事を明らかにしょうとしないのか? (中略)・・・組織ある我等の一団を以て、余の統率下に飽くまで戦い抜かんと決心した次第である」。

11 私は、戦国時代の鳥取城主・吉川(きっかわ)経家(つねいえ)公と岡田中将と強く重なって見える。
吉川径家(つねいえ)公は、天正9年(1581年)3月、豊臣秀吉と戦う山名氏旧臣の因幡国・鳥取城(久松城)の城将として兵糧攻めにあい、城内の人々の命と引き換えに開城、秀吉の助命提案を断って自刃した。

鳥取人の誇りとして、仰ぎ見るお方で、現在でも母校・鳥取西高校のお堀端・弓道場の前に銅像がある。

「昭和の経家公・岡田中将」が映画となった「明日への遺言」である。

堂々と戦争裁判を戦い抜いた我らの先輩・鳥取人がクローズアップされる。3月1日に封切となった。

                平成20年3月3日
                  徳永日本学研究所 代表 徳永圀典
 

映画「明日への遺言」

安倍晋三氏が首相だったとき、米国下院で慰安婦問題に関して日本政府に謝罪を求める決議案が可決、成立した。
福田康夫首相の訪中に先立って、中国では「南京大虐殺記念館」が大幅改修されて再開された。
いずれのケースにおいても、事実は大幅に曲げられ、捏造されており、日本は理性的に反論すべきだった。しかし、政府は、沈黙を守った。


歴史にかかわるすべての問題について、どんなに理不尽な非難であっても、日本政府はひと言も弁明してこなかった。どの事例でも、非難が収まるのを待つだけの対応に終始した。敗戦による精神の虚脱は絶望的なまでに深く、今も日本を蝕み続けるのである。


そして今、ようやく、私たちは、映画「明日への遺言」の登場を得た。同作品は大岡昇平の『ながい旅』を原作とする。日本の映画界の大御所、原正人氏は、13年前に同作品の脚本に出会った。今回、「自分の最後の作品」という想いで陣頭指揮を執り、若き後輩の小泉堯史(こいずみ・たかし)監督らを従えて製作した。


作品の主人公は東海軍管区司令だった岡田資(たすく)中将だ。彼は戦後、横浜裁判でB級戦犯として裁かれた。名古屋空襲で無差別爆撃を行なった米軍の搭乗員を処刑した罪で、死刑判決を受けた。


映画は、岡田中将が法廷でいかに闘い抜いたかを、記録に残されている実際の尋問をたどりながら描いていく。

岡田中将は部下に責任が及ばないように、すべての責任を一身に引き受けながらも、米軍の行なった無差別爆撃の非を国際法に基づいて説き続ける。


あらためて指摘するまでもなく、日本は米国との戦いに敗れたがゆえに犯罪国家として裁かれた。戦争は多くの要因とその時々の複雑な状況下で起きる。

必死の外交努力も功を奏さず、やむなく開戦に至るのは、本当に多くの事柄が錯綜する結果である。 

一方の当事者が100%の責任を負う性質のものでないのは明らかだ。にもかかわらず、戦勝国は、勝ったがゆえに正義は彼らの側にありとして日本を裁いた。

昭和20514日、名古屋の市街地が無差別爆撃を受けた。名古屋城も焼けた。

このとき米軍機が墜落、日本側に捕らえられた11人の兵を岡田中将は軍律会議にかけて処刑した。

69日の名古屋空襲では、工場のあった地域を含む広い範囲が、これまた無差別に空爆され、死者2,068人が出た。

「正論」20084月号で対談した戦史作家の牧野弘道氏は、「五体満足な遺体はほとんどなく、目をおおうばかりの惨状だった」ことを指摘している。


岡田中将は民間人を襲った名古屋空襲のすさまじい実態を、つぶさに視察した。一連の空襲でさらに多くの米兵が捕らえられた。

日本軍は軍律の適用によって、全員を処刑した。この点について岡田中将は罪に問われたのだ。


岡田中将は法廷で主張した。無差別爆撃の下で、軍法会議を開いている余裕はなかった。軍律会議にかけ、その後は軍律を適用したのは、状況を考えれば適切であったと。

そして無差別爆撃こそ、国際法に反するものであり、罰せられるべき罪であったと。


詳しくはぜひ、映画を観てほしいのだが、岡田中将はじつに理にかなった立派な主張を展開した。 

敗戦し、国全体が不安の泥沼に沈み、全権を握った占領軍の顔色をうかがうような空気のなかで、このように立派に、日本国の立場を主張した人物がいたことに、私は限りない感動を覚える。


尋問調書の記録は、敗戦国日本に真の武士が存在したことを、誇らしくも確かに、私たちに伝えてくれる。 

敗戦下でも、誇りと気概を失わず、他者に責任転嫁しないその精神に触れた米国人の主任弁護人、フェザーストーンも、じつにすばらしい弁論を展開した。 

歴史から目を背け祖国日本への信頼を失いがちな現代の日本人に、ぜひ、観て、考えてほしい映画である。