北山 

我々登山人には京都北山は格別の語感がある。奥深く、鄙びて清潔な山々なのである。 

だが、北山の語源は矢張り丸太である。  

京都市街の西北約20kmに位置する北山地方、特に現在の京都市北区中川を中心とする地域は、丸太林業地帯として栄えた。 中川地域は隣接する小野庄(北区小野郷)や梅ヶ畑

右京区高雄)とともに京都御所に産物を献上する「供御人」としての地位を授かって古来より磨丸太類の生産、販売の地。 室町時代、中川地域の磨丸太は千利休により完成された「茶の湯」文化を支える茶室や数奇屋の建築用材。

その代表があの桂離宮や修学院離宮。江戸時代から明治時代にかけて、中川地域の磨丸太は京都市内はもちろん関西一円に販売された。 終戦後、吉田五十八や篠原一男ら著名な建築家による近代数奇屋建築が華々しく登場、中川地域の磨丸太の需要は絶頂。 近代数奇屋建築ブームに乗って、京都府の京北町、八木町、日吉町にまで磨丸太育林が波及。

このような背景の中で中川を中心に高雄、鷹ヶ峰、小野郷を含めた地域からの丸太は「地山丸太」、京北町等からの丸太は「丹波物」と呼ばれた。 中川を中心とした北山地方が「ほんまもん(本物)」の丸太である。            岫雲斎圀典