鳥取木鶏研究会 平成20年3月3日例会  安岡正篤「易学」

おさらい  陰陽相対()原理 

易と言えば陰陽ということが、何人もの常識となっているが、陰陽が易の原理になりだしたのは、実は戦国中期以後のことで、易経の成立につれて五行思想と共に、そうなったものと言わねばならない。

それまでは専ら、剛・柔が用いられた。剛は「生の活動・分化・固定から受ける感覚」であり、柔は「生の全一・順静・包容についての感覚」である。易は、この剛柔の原理から次第に陰陽の原理を主とするように変化していったものである。

気とは

易は、天地が万物を創造し、変化する力を気とした。気の古字は气で、雲の起こる象である。今日使われるエネルギーの素朴な考と云ってよい。

気に、陰・陽二気がある。これは相対であると同時に、相待でもある。陰が陽にも変ずれば、陽が陰にも変じ、陰陽相応じて新たな創造変化の推進()が行われる。何よりも近代自然科学が尤もよくこの理法を証明し始めている。 

本文 

欲望と内省

欲望がなければ活動がないわけですから、欲望は盛んでなければなりませんが、盛んであればあるほど内省というものが強く要求されます。

―内省のない欲望は邪欲であります。そして内省という陰の働きは、省の字があらわしておりますように、(かえり)みるという意味と、(はぶ)くという意味があります。 

半分落としにしない省

内省すれば必ずよけいなものを省き、陽の整理を行い陰の結ぶ力を充実いたします。人間の存在や活動は省の一字に帰するとも言われる所以であります。論語に「吾、日に三たびーたびたびという意味―吾身を省みる。とあります。 

孔子も、この省ということを論語の冒頭にかかげて戒めております。これは人間でいえば生理、自然でいえば創造の原理原則であります。この省の字は、「かえりみ」、「はぶく」と読み、解釈しなければなりません。「かえりみる」だけでは半分落としております。また「はぶく」というだけでも半分落としております。 

省こそ要

人間が団体生活、群衆生活をするようになって、高度に発達したのが国家でありますが、人民というのは多くの欲望を持っておりますので、これを放任しておくと収拾がつかなくなります。

そこで、どうしてもこれを省みて、下らぬことを省く必要があります。これに当たるのが役人であり指導者であります。会社で申しますと経営者であります。そこで国を代表する政府官庁に省という字をつけたわけであります。 

省の反対は冗

中国の歴史に明確にそれが記録されております。わが国は大化の改新当時から中国の文明を学んで、政府官庁に省の字をつけて、大蔵省、外務省、文部省としたのであります。だから役人がよく省み省いていけば、国民生活は非常に健全となりましょう。

これに反してよけいな官庁を沢山作って、多くの役人をかかえ、くだらぬ雑務を煩雑にしますと、省の反対の(じょう)であります。役所というところは省の字の通り、常に省みて省かなければなりません。これは役人の真理、哲学、道徳の第一条と申してよろしい。 

宋名臣言行録
この間亡くなられた参議院議員の迫水久常氏がまだ大蔵省におられた時に、私に話をしてくれと云われるので大蔵省に行って、特にこの省の字を色々と歴史の実例をあげて話したことがあります。

勿論戦前のことであっても迫水氏は当時大蔵省の新人の代表でありました。明治天皇が御愛読になった書物に「宋名臣言行録」という本があります。いまでも明治記念館に大切に保存してありますが、天皇のお手垢がついております。

 

政治の秘訣

これは宋代の名宰相の列伝と言ってもよい本で、朱子の作らせたものであります。陛下は非常に御愛読になって、ともすればこの「宋名臣言行録」の中からよくお話が出るので、伊藤博文などは時々陛下の御前に出なければなりませんから、陛下の御前に出るときは、よく前の日にこの「宋名臣言行録」を読んで勉強したということであります。

その中に李と云って宰相の典型ともいうべき人物があります。明治天皇は大変この李に共鳴感動さされたようであります。この大宰相李の言葉に「政治の秘訣は、浮薄新進、事を好むの徒を用いないことだ」というのがありまとて、陛下はこの言葉に特に共鳴されたようであります。 

陰陽相対理論がわかると 

伊藤博文はそのことを述懐して、若い人達に向かって「俺達も考えてみると、若い時はこれだったのだ、君達はもっと修養して、おっとりして優れた人間にならなければならない」と後進を戒められたそうであります。この話を大蔵省の若い人達にしたのでありますが、話が終わって控え室におりますと、迫水氏がはいってこられて「先生、今日のお話は大変こたえました。あの浮薄新進好事の徒というのは私のような人間ですね」と云って頭をかいておられました。 

その後、迫水氏は思い出話に「安岡先生は、俺達が年若く革新的な考え方で行動しておった時に、こういう話をして戒めて下さった。」とよく述懐されたそうです。こういう問題は、陰陽相対()性理論がわかりますと、容易に理解することが出来ましょう。 

枝葉の剪定

嘗て植木屋の話をしたことがありますが、植木屋はこの陰陽の理法を最も端的に修めて始終実行しております。枝葉を茂らしておくと日がささなくなり、風も通らなくなくなり、そうなると虫がつき枝葉が蒸れて生長がとまります。

そこで植木屋は始終鋏をもってチョキチョキと枝葉を刈っております。花の栽培もそうで、美しいからといってむやみに花を咲かせますと必ず次の年は駄目であります。花もやはりうまく整理しなければなりません。 

.果断・果決

最も大事なのは実であります。実を多くならせますと、一番木が弱ります。そこで幾ら惜しくても、金になるものでも思い切って実をまびかなくてはなりません。これを果断とか果決と言います。よい実を結ぼう、よい結果を得ようと思えば思うほど賢明、勇敢に果断、果決をやらなければなりません。 

これは省の字の省くという理法に一致するわけであります。然し、これは実生活には非常に難しいことでありまして、うかうかしておると花も実も駄目になるばかりでなく、木そのものが弱り枯れたりいたします。これは生長、繁栄の原則を実に的確に表明したよく理解のできる有益な教訓であります。 

健康な人間

だから人間として欲望も才能も、そして気力も気魄もあって、然もよく反省して自己を粛清し、てきぱきと事を処理していけるというのが本当の健康な人間であります。これを易経の冒頭に「(かん)()(こん)()」という「天地の卦」を置いて、この理法を教えております。

―そこでこの易学というものをただ書物の文字だけの研究にとどめないで、我々の日常生活、事業、或いは進んで国家民衆の政治生活に応用適用して学んでいきますと、実に易の教えるとところは興味津々であり、非常に適切あるいは時によると痛切で、これくらい面白い学問はありません。 

味わいある易学

易は学べば学ぶほど、そして年を取れば取るほどに味が出で参ります。その上この易学は、あるゆる学問の本質なり根本になるもので、通俗的にも無限の興味があり、学術的にも計り知れない興味を持つものであります。

―然し、易の薀蓄になりますと、それこそ大変な問題でありますが、易を学ぶ手ほどきは十回くらいの講座でできると思います。あとは皆さんが興味を持たれましたら、更に独学、独習も可能であります。ただ世間にある通俗の書物は、学問という立場から見ますと、よくないものが多いようです。先以って正しい原理原則をはっきり理解して頂きますと、あとは皆さん自身で易の深い途に遊んでゆくこともできましょう。 (昭和52812日講) 

             3月 安岡正篤先生の言葉

(せい)(めい)造詣(ぞうけい)

学問、修業の始めは、まだ垢抜けない、これを野人(やじん)()という字で表す。
それが暫くすると、こなれてくる。これを(じゅう)という。

一年にして野、二年にして従。そうなりますと次第にゆき詰まらなくなる。進歩する。これを(つう)という。

三年にして通。そして四年にして(ぶつ)、つまり日本語でいうと、(もの)になる。
学問的にいうと物は、法という文字に通ずるのでありまして、野、従、通と順を経て進みますと初めて、きちんと形ができる。

つまり法則が立って一通り人間ができる。そうすると五年にして(らい)。これは新たなインスピレーションー霊感が出てくるということであります。

そうすると、それまでに見られなかった神秘な作用がでるようになる。これを鬼入(きにゅう)と言います。鬼は悪い意味ではなく、神秘的という意味です。

つまり六年にして鬼入、そうすると七年にして天性(てんせい)、つまり人間のくさみ、癖というようなものが抜けて自然の姿が出てくる。

そこで八年にして、死を知らず、生を知らず、つまり死生を超脱する。

そうなると最後に、九年にして大妙(だいみょう)なり。妙は真に通ずということであります。
                         徳永圀典記