7月例会 安岡正篤の言葉 徳永選

怨みを買わぬ方法

人の怨みを避ける方法を「菜根譚」は極めて実践的に指摘をしている。 

「小さい過失を咎めない」、 「人の隠し事は(あば)かない」、 

「人の古傷(ふるきず)は忘れてやる」。 

他人に対してこの三つを心がければ、自分の人格を高め人の怨みを買うことを少なくすることができる。安岡正篤先生の言 

人間の真価

真に人間の真価をあらわすものは、その人が、どういう地位にあるとか、どれ程財産を持っているとか、どんな名誉職にあるとか、或は、またかって国会議員をやったとか、大きな会社の重役であったとか、何か大きな事業をなしたとか、というようなものではなくて、ただその人が、どういう人間であるかということであります。偉大な人物とはまことの人であります。

偉人とか、英雄と言われるような異常の人ではなく、ただまことの人であります。自然の権化と申しますか、自然が造った人物のことであって、真実の段階をふんでおります。 

これに関連して思い出すのはケインズの言葉です。一時ケインズの経済学が日本を風靡したことがありますので、恐らく皆さんもこの人をご存知であろうと思います。 

ケインズの絶筆と申しますか遺書に「我が若き日の信念」という本があります。

実に興味深い内容のある書物で、その中に彼は 

「今日は非常に功利的となって、人間内容も極めて打算的な人が多いが、人間の価値は、その人間が、何を為したかより、その人が、いかにあるべきかの方が重大である。 

例えば教会に行って説教を聞き、敬虔な祈りをささげることは誰でもやることであるが、これは信仰というものではない。

それよりも、如何にキリストの教えに従っているかということが大切である。 

金を持ち、地位があり、色々な事業をやったなどという人は、世の中に沢山いるが、これは必ずししもその人の真実を表すものではない。 

何もしなくても、また何ら人の目に立たなくても、立派な人は立派であるのだ。 

これが人間の価値を極めることであって、この信念はいつの時代も変わらぬ真実である」と書いております。 

教育の誤り

これはちょうど、アミエルの言葉と符節を合するものであります。本当の人間の考えることは皆このように一致するものであるという感を深くいたします。 

特に子供の教育にはこれが大切であります。 

教育ママが教育を誤るのもこの点であって、子供は純真でありますから、つい熱心な母親の強制的な言葉に従います。だから子供が机に向かってさえおると、マンガを読んでいても、眠っていても、素直に勉強していると教育ママは思い勝ちですが、こんな勉強、こんな教育は何にもなりません。 

子供の真心によく注意して、強制するのでなく、これを認め励まさねばなりません。

形式主義、功利主義というものは厳に戒めなければなりません。           安岡正篤先生の言    

―身体で範となる師 

昨今の学校の先生を見ますと、人間と学問とが別々の人が多いようです。 

従って、人間が軽く、学問も極めて概念的、抽象的で(じつ)がありません。 

やはり本当の学問というものは西洋でも申しますが、embody(えんぼでぃ) とかincarnate(いんかーねいと) と申しまして、これをしないと本物でないということは古今東西変わらないことです 

ドイツ人はよく Lese(りーぜ)-()meister(まいすてる)(本読み)はいくらでもおるが、 Lebe(りーべ)-()meister(まいすてる)(生命の師)はおらないと申します。 

つまり本読みの師はいくらでもおるが、身体で範となる師というものは極めて少ないということであります。 

               安岡正篤先生の言