紫の匂える(いも)

大恋愛で結ばれたはずの大海人皇子と額田王ですが、額田王は十市皇女を生んだのち離婚してしまいました。そして、大海人皇子と離婚したことを知った中大兄皇子は想いを遂げてとうとう額田王と一緒になったのでした。

それから後、中大兄皇子が668年一月三日に即位されて天智天皇になられますと、大海人皇子は皇太弟になりました。その五月五日端午の節句、恒例により薬草狩りが行われました。場所は近江国の蒲生野の標野(一般人の立入禁止の朝廷占有の御料地)。これは宮廷の公の行事ですので皇太弟も参加しました。さらに天智天皇の側近に侍していた額田王も同行しました。

そして、薬草狩りを行っている最中、額田王と大海人皇子は山野の中で出会ったのです。そのときの二人の贈答歌が万葉集に収められています。まず巻第一の二十番歌の

「天皇蒲生野に遊猟(ゆうりょう)したまう時、額田王の作る歌」

「あかねさす 紫野行き (しめ)()行き ()(もり)はみず

 君が袖振る」

さらに二十一番歌の「皇太子(皇太弟大海人皇子)の答えましし御歌。

「紫草の 匂える(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに

 われ恋めやも」

額田王の歌は「紫草の生えている御料地の野原を、あちらに行きこちらに行きまして、まあ、野原の番人が見咎めますよ。それなのにあなたは臆面もなく私に袖など振って」と、側におられる天智天皇に遠慮がちに詠んだ歌ですが、それに対し大海人皇子の方は、「紫草のように美しいあなたが憎いのならば、すでにあなたは人妻であるのだから、何で私が恋などしましょうか。だのに私は人目もかまわずあなたに恋しています」と言うのです。この象等歌にも依然として大海人皇子の強引さが感じられます。

註 長歌

  和歌の一形式。五十七音を三回以上繰り返した偶数句形式のものが、次第に五十七音の繰り返しの最後に七音を加えて結ぶ形式に定型化していき、万葉集の時代に漢詩の影響により短歌形式の歌、反歌を添えた形式として柿本人麻呂らにより完成された。

しかしこの時、天智天皇は五十五歳、大海人皇子は四十七歳、額田王もすでに五十歳、もはや深刻な三角関係が成立するとは考えられません。実際、大海人皇子は天智天皇に侍していた額田王を見てより戻そうとしたわけですが、額田王は大海人皇子の誘いにものらず、その後ずっと天智天皇のもとで天皇が亡くなるまでお仕えし山科の陵に葬るときも最後まで葬儀に奉仕しています。その時の歌「額田王近江天皇を思うて作る歌一首」も万葉集に残っています。

これら万葉集の歌にみられる天智・天武天皇と額田王をめぐる恋愛関係のもつれを通しても両者の相克関係の一面を理解することができるのではないかと思います。ただし、この蒲生野の贈答歌をもって、天智天皇と天武天皇との間に対立が生じ、それが原因で壬申の乱が起こったとする見解さえありますが、それは当を得た解釈ではありません。三者間の深刻な恋愛関係のもつれは、最初に述べたとおり、大化の改新以前の出来事であり壬申の乱と結びつけるのは少し強引すぎます。

 

両天皇の出自からみる裏面史

中大兄皇子(天智天皇)

天智天皇と天武天皇の対照的な性格・言動は私には出自の違いを考えさせる理由の一つとなりました。二人の相克関係には何か出自に由来するような基盤があるのではないかと感じたのです。これまでも出自に関しては随所で述べましたが、ここでそれをまとめながら、もう少し詳しく探索してみましょう。

先ず、天智天皇から、天智天皇は、舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた皇子ですが、父の舒明天皇(田村皇子)は敏達天皇の孫で、押坂彦人(おしさかひこと)(おおえの)皇子(みこ)の子です。その押坂彦人大兄皇子は用明天皇のときに皇太子でしたが、早逝(そうせい)されて皇位継承はしませんでした。この皇子は敏達天皇の皇后広姫の生んだ皇子であり、広姫は(おき)(なが)真手(まて)(おう)(むすめ)ですから息長氏の系統です。

息長氏は近江国坂田郡息長の地(近江町)を本貫とする氏族です。(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)(神功皇后)をはじめ、開化(かいか)天皇や応神天皇に系統づけられる皇別氏族系を伝える氏族譜(古事記)の中にも「息長」を称する皇子・皇女が多くみられ、そのことから息長氏が相当に優勢であったことがうかがわれます。息長氏は後に皇室の財産の管掌者であった刑部(おさかべ)であるとする説もあります。

近江は新羅系帰化人の本拠地であったとみられます。また、息長氏は天之(あめの)()(ぼこ)と結んでいます。天之日槍は神功皇后や(おき)長宿(ながすく)(ねの)(みこと)(但馬国造の祖)の外祖父に当たり、その渡来伝説からして新羅から移住して帰化したことは明白です。

このような息長氏の流れを引くことから見て、私は天智天皇は新羅色が濃厚であると考えます。

 

註 天之(あめの)()(ぼこ)

  記紀の伝説上の人物。新羅王子で、妻のアカルヒメを追って日本に渡来、越前・近江・丹波などをめぐった後に但馬に留まり出石神社の祭神として祭られる。

 

古事記による皇別氏族の系譜

天之(あめの)()(ぼこ)

       多遅摩母呂須玖 多遅摩斐泥-

多遅摩(たじまの)前津(さきつ)()

      ―多遅摩比那波岐―多遅摩清日子

                当摩之咩斐

  -菅竈由良度美

   多遅摩比多訶  葛城之高額比売命

           息長日子王―

       息長宿弥王

       虚空津比売命

       息長帯比売命(神功皇后)

―開化天皇―日子坐王―山代之大筒木真若王―

―迦邇米雷王―息長日子王

      葛城之高額比売命―息長帯比売命(神功皇后)

 

大海人皇子(天武天皇)

日本書紀では、天武天皇も舒明天皇と皇極天皇の間に生まれ、天智天皇の同母弟だとしていますが、その点は大いに疑問があります。実際、両天皇は実は兄弟ではなかったという説もあり、また兄・弟が逆であるという説もあります。それに対して私は両天皇は同母兄弟ではなく異母兄弟ではないかと考えます。

天武天皇は、生まれながらにして「(いか)よかなる姿」(厳めしく立派な容姿)とされ、「雄抜神武」と評されています。幼名は大海人皇子「おお()あまのみこ」と言いますが、一般にこの名の由来は養育にあたった乳母が大海氏の娘であったからだと言われています。

確かに大海人皇子の湯沐(ゆの)(皇子の私領)は美濃の安八磨郡にあり、それを基盤として壬申の乱が企てられ先ず美濃。尾張の国司の軍が主力として皇子方に味方をしています。

これらのことから、天皇を養育していたという大海氏が尾張の大海氏であり、実はその大海氏より奉られた采女(うねめ)の腹に生まれたのが大海人皇子であったと私は考えます。そこから天智・天武両天皇は異母兄弟であるという結論が導かれ、それによって多くの腑に落ちない点が解けるように思うのです。天智天皇の同母弟だとしたのは、天武天皇が即位された後、そのように皇統譜を改めることで天皇の系譜をより権威あるもののとしたのでしょう。

また天武天皇の側近には蘇我安麻呂のような有力な人物がついているのですが、そのような点からして天皇は百済系帰化氏族と関係をもつていたようです。

 

 

百済系・新羅系氏族間の抗争

さて、天智天皇がその血統の中に新羅系の血が入っていた可能性が濃厚で、新羅系の帰化集団と非常に密接な関係にあったとすれば中臣鎌足との関係にも新たな視点が加わることになります。

即ち、中臣氏も近江を本貫とし、朝鮮から伝播してきた羽衣伝説を始祖伝説に持つ豪族であることから、新羅系帰化人の子孫であるとみられるのでした。そうであれば、新羅系の鎌足が、新羅と関係の深い天智天皇を擁立してその下でクーデターを起こし大化の改新を行ったということになります。

 

天智統・天武統の系譜

天智統

中大兄皇子(38天智)-大友皇子(39弘文)- 鸕野讃(ろののさら)()皇女(41持統)-安閇皇女(43元明)-白壁皇子(49光仁)-山部皇子(50桓武)

 

天武統

大海人皇子(40天武)-珂瑠皇子(42文武)-氷高皇女(44元正)-首皇子(45聖武)-阿倍皇子(46孝謙)-大炊皇子(47淳仁)-阿倍皇子(48称徳)

 

しかも、クーデターで倒されたのは蘇我氏もその蘇我氏は元来、第五世紀に日本に渡来した百済系の帰化民族だと私は考えています。そうすると、鎌足は天智天皇を擁立して百済系氏族の蘇我氏を打倒したわけです。

そもそも、朝鮮半島から非常に多数の帰化集団が日本の地域ごとに定住しており、高句麗系、新羅系、百済系というべき基盤が出来ていました。その基盤の上に帰化系氏族は中央政権と結びつき、中央で大きな勢力を持ったのです。彼らはさまざまに抗争を繰り返していますが、とりわけ百済系と新羅系の対立は根強いものがあり、中臣氏と蘇我氏との対立もその一つの現れであったと考えられます。

要するに故国朝鮮においても戦っていた百済系と新羅の二系統の帰化民族は日本に来てからもなおその抗争関係を持続させていたわけです。

私は、天智天皇はそうした対立関係の中から生まれた天皇という側面があると考えるのです。そうであれば、百済系対新羅系という抗争関係は、日本の権力構造の最上層部にまで浸透しているわけで、当時の政治を考える上の重要な要因として大いにクローズアップしなければならないてじょう。

 

大津京遷都と壬申の乱の裏面

白村江敗戦の後、日本国内は大きく動揺し、いまにも唐・新羅連合軍が攻めてくるのではないかと、人びとは恐れました。そして、政治も停滞をきたしていた当時、鎌足は人心一新を策して皇太子中大兄を動かして強引に近江の大津京に遷都を断行しました。しかし、なぜ突如として近江に遷都するのか、人民はもちろん、その当時の官僚貴族達にはその理由が分からなかったようです。そのころの天皇の側近と近かった宮廷御用歌人柿本人麻呂でさえ、その歌の中で、大津遷都のことを「いかさまに、おもおしめせか」とその真意をとらえかねており、なぜ“近江”に移ったのか誰も理解できなかったのです。

しかし、近江遷都を断行した皇太子中大兄や鎌足が新羅系の思考をしていたと考えれば、おのずと遷都の真意もみえてくるように思います。即ち、この策略の中心人物である鎌足の本貫地は近江なのです。そうであれば、大和は人心が離反して不穏だからと、いざというときの逃げ場を確保するために自分の本貫地である近江に目をつけたというのは当然です。と言うのも、琵琶湖の水運は、攻められても船で逃げる方法があるのです。そして中臣氏と同族である伊香臣の本拠地・近江伊香の里からは直ぐに日本海へ出られます。日本海には新羅系の日本海水軍が控えています。鎌足はそれを掌握しているわけですから、都を近江に移しておけば逃げ道は十分あるとみたのでしょう。そうした思惑もあって、強引に皇太子中大兄を擁して大津の都へ移ってしまったのではないかと考えられるのです。

そして、そのように鎌足・中大兄政権にとっては地盤のしっかりした近江に遷都できたこともあって、大津京遷都の翌年、668年、皇太子中大兄は即位して天智天皇と称されるようになったのです。

しかし、天智天皇にすれば即位して力を合わせて遷都後の政権をふたたび強化していことうとした矢先、鎌足が死んでしまいました。鎌足が亡くなった後、今度は天智天皇も崩御され、新羅系の勢力にとっては不運が続きます。

そして天智天皇が崩御になった後、壬申の乱を経て天武天皇の時代が訪れます。天智天皇が新羅系氏族と関係が深かったのに対して、天武天皇はむしろ百済系り氏族と関係の深い皇子です。即ち、壬申の乱において、新羅系の勢力が優勢な大津政権に対し、百済系の勢力が天武天皇を擁して長年の鬱憤をはらした、と言う見方もできるわけです。こう見れば、天智天皇と天武天皇が最初から非常に対立的であったという伝承の背景にも系統的な新羅系と百済系の抗争がみてとれます。

天智天皇は生前、自分の後継者として大友皇子を考えています。しかし、大友皇子は天智天皇の皇子ですが、身分の低い采女の皇子ですが、身分の低い采女の腹から出た皇子であり、本来、皇位継承には程遠い身分の皇子でした。しかし、あえてこの大友皇子を天智天皇の後継者にしようとしたのです。壬申の乱の発端は、大海人皇子を排してあえてこの大友皇子を天皇にしたことにあります。

天智天皇がそうした意向を持っていたことは様々な理由が考えられますが、根本的な理由の一つとして朝鮮氏族同士の因縁深い抗争が背景にあったとみることも必要んもしれません。