48講 天皇親政体制の確立

壬申の乱にみる歴史

古代国家の完成

天武天皇の政治は、天皇主権を完全に実現した天皇親政であり、最も強力な天皇独裁体制という意味で一般に「皇親政治」と呼ばれています。

私は、この天武天皇の「皇親政治」の確立によって古代国家の完全な形態としての「古代天皇制下における中央集権的律令国家」が完成したとみます。そして、大化の改新から壬申の乱を経てこの「皇親政治」にたどりつく過程は、歴史上の必然的な過程であったと考えます。

どうしてそのようなことが言えるのか、また実現された皇親政治とは具体的にどのようなもので、その意味は何か、そうして点を中心に話を進めながらこれまでの講義をまとめ、本講座の締めくくりにしたいと思います。

 

壬申の乱の史学的究明

天智天皇が崩御された翌年、天武天皇の元年、672年は中国の干支年で言えば壬申の年でした。従って、私たちはこの年に起こった大海人皇子と大友皇子を旗頭に争われた大内乱を「壬申の乱」と称しています。

この壬申の乱は、一見しただけでは皇位継承をめぐる争いのようにみえます。

天智天皇が自分の子である大友皇子に皇位を継がせようとし、皇太弟の大海人皇子はそれを快く思わないが、あえて事を構えず、剃髪して吉野に退いた、ところがその間に天智天皇が崩御され、大友皇子が皇位を継いで弘文天皇となられた、そして様子をうかがっていた大海人皇子が翌壬申の年に兵を挙げ、大津京の弘文天皇を攻撃する挙に出た、こうして起こった内乱が壬申の乱である、というわけです。

確かに表面的にはその通りで、その限りでは壬申の乱は皇位継承をめぐる天皇家の内紛であったとはいえます。

しかし、それは単に史料の記述を要約したというに過ぎず、その事実の背景に何があるのかという史学的究明は全くなされていないことになります。史学的究明を行うことは、歴史の流れを捉えることであります。歴史の流れを明らかにすることによって、歴史は今日に役立てられるのです。また史学的究明によって史料の不備や真の歴史的事実を明らかにすることもできるのです。

それでは、これまで壬申の乱をめぐる史学的究明はどこまで進んだのか。

戦前は、壬申の乱の外見的な態様、つまり天皇家の内紛という一事を以て史学的究明にストップがかけられていました。しかし、戦後、古代史を自由に研究できるようになり単に天皇家の内紛として捉えるだけでは乱の実体を十分に把握できないということが明らかになってきました。

これほどの大規模な内乱であれば、その背後には乱を勃発させた政治的・社会的な大きな緊張状態があるはずです。そうであれば、そうした背景をとらえることなしには、乱の実体は把握できないわけです。壬申の乱は政治的・社会的な矛盾・緊張というものが天皇家の内紛というかたちで噴出したもので、噴火を見ているだけでは火山を把握できないように、地下の目に見えないメカニズム、つまり社会的背景を明らかにしなければ乱を把握できないのです。

 

壬申の乱の意義

壬申の乱の実体は何か

壬申の乱の背景として従来いわれてきたことは、進歩革新的な天智天皇と保守反動的な天武天皇の対立という図式です。この考え方によれば、壬申の乱は、進歩的な改新政治に不満を抱く旧勢力層が保守的な天武天皇を立てて、天智天皇の進歩的政治を継承しようとした弘文天皇を立てる新勢力を打倒した、とみます。それゆえ、壬申の乱後の天武天皇の政治は反動改革政治というべきであるとするのです。

しかし、天智天皇は進歩的革新政治は中央集権的律令制度の確立という点にあり、その点は天武天皇も積極的に推進しているのです。天武天皇が旧勢力層たる豪族層を主たる支持基盤とし、新勢力の官僚貴族を支持基盤とする弘文天皇を打倒したという面はあるにせよ、それをもって単純に革新と保守の対立とみることはできないと思います、少なくとも、それは一面の真実かもしれませんが、壬申の乱の中心的な意義、骨格とみるべきではないようです。

保守、革新という捉え方では、和辻哲郎氏や家永三郎氏による、天智天皇を保守、天武天皇を革新とみる逆の見解もあります。和辻氏によれば、天智天皇は確かに初めは革新的であったが治世の後半にいくほど保守化したため、それを革新的な天武天皇が打倒したのが壬申の乱の意義だとされるのです。また家永氏は大津政権は保守的な大豪族によって支持された政権であり、それを革新的な中小豪族に支持された天武天皇が打倒したとされます。

しかし、これね革新か保守反動かという既成の政治理念にこだわりすぎており、一面の真実をもって全体の中心となす無理があるように思います。壬申の乱の背景として豪族の動きに注目するのは必要だとしても、必ずしもその豪族の動きは保守、革新の区分だけでは理解できない面もあるのです。それぞれの側を支持する豪族層の実体は未だ必ずしも明確ではありません。と言うより、その実体は一くくりにして把握するのがもともと困難なものと言うべきかもしれません。従って、何を以て保守、革新とするのか、はたまた大豪族や中小豪族とは何を意味するのか、抽象的概念のままで、それ以上は明確にできないわけです。逆に言えば、壬申の乱の実体はそうした革新・保守とか豪族層の性格に着目するだけでは理解できないものだと考えるべきです。

豪族の動きに着目して革新・保守の構図で壬申の乱を把握することにどこか無理があるとすれば、それ以外の視点から壬申の乱の意義をとらえようとする試みが出てきて当然です。北山茂氏は、そうした視点から階級闘争的発想を取り入れて乱の主要な原因とされています。即ち、公民とそれを支配する皇族・貴族・豪族といった階級構造の間に反権力的抗争が生じて、その抗争の解消運動として支配者間に抗争が起こったとするのです。ありていに言えば、支配する人民の不平不満を抑えきれず、自分の支配的地位までおびやかされた支配層の一部が、それを解消しようとして政治的抗争に訴えた、というように考えるわけです。

しかし、改新政治に反対する人民の不平不満は大きかったとみられるものの、それが支配層を動かすまでに強力な動きになったとまでは考えられません、

そうなるには人民による集団的闘争がひつようなわけなのですが、史料を見るかぎり、放火や逃亡といった個人レベルの反抗にとどまっているのです。従って、の北山氏の説でも、壬申の乱の実体を充分に理解できるにはいたらないのです。