西部すすむ「一思考」

西部氏が自殺した。多摩川に投身自殺、極寒だし高齢だから簡単に死ねよう。これは参考になり一考に値する。

人間、死ぬというのは大事業であります。平穏な死は基本的には少ない。死ぬこと、生命を絶つのだから基本的には凄惨なものがあろう。

特に、長命となり介護問題がある、栗谷町ではお婆さんが主人を絞め殺したのは一昨年であった。西高の一年後輩でよく知った方であった。

西部は、頭がいい、この季節の投身自殺は失敗はない。

 

西部は東大、あの70年安保の指導者であった。20年後保守になった。

人間とは間違えるものだの典型的な事例である。本人の範囲なら問題ないが多くの若者、そして社会混乱の罪は不問のままに自殺した。

 

当時、革新という言葉は、社会党の代名詞であった。

土井たか子までで、土井たか子時代にはマスコミも革新という言葉がメディアが消えて久しい。

社会党が革新なんて、ちゃんちゃらおかしいと私は新聞に寄稿した記憶がある。

その端的な事例が、現在の社民党、そして立憲民主党、彼らは、頑迷固陋に、時代遅れの「敗戦憲法」を守ってきて、ついに敗戦憲法が、自国の安全そのものを脅かす事態となっている。敗戦憲法で制約されて日本と国民の安全が守れなくなってきたと指摘できる。

 

こうしてみると、西部氏が転向し保守となり良いだけではすまされない。

人間というものは間違えるものである。

間違えない為にこそ、歴史を学ぶのであります。

荻生徂徠は申しました「学問は歴史に極まる」と。

 

だが、中国と韓国の歴史は、「政治そのもの」であります。歴史改竄の国であります。

日本の歴史は「真実探求」が基本でありましょう。

ここに確りと認識してかからねばならぬのであります。

   平成3025

 

 徳永日本学研究所 代表 徳永圀典