安岡正篤先生の言葉 平成314月例会 徳永圀典選

 

自己疎外 

 日本の社会・人倫の道は分けのわからぬことになっている。始末がつかぬ。こういう時、ひとたび失われた自己、人間そのものに立ち返れば、はっきりすることが多い。日常の生活にしても、いろいろの刺激に駆り立てられていると疲れる。それから、色々の矛盾やら悩みが限りなく生ずる。それを少し落ち着いて内省すると、実に他愛ないことが多い。

 第一、多忙ということです。現代は実に忙しい。「忙」という字がよく意味を表している。亡という字は音であるが単なる音だけでなく、同時に意味を含んでおる。亡くなる、亡ぶということで、人間は忙しいと、その忙しいことに自己を取られてしまい、即ち自分を亡くしてしまって、どうしても抜かりが多くなる、粗忽が多くなる。間違いをしでかす。まことに適切な字の出来です。            運命を開く

 

沈黙と言葉と詩

 我々が最も愛する詩は常に沈黙と言語との微妙な契合でなくてはならない。怒りも笑いも嘆きも悦びも、なべての感じはその極まるとき疑然として黙す。例えば人の情けに感じてもくどくしく礼を述べる間はまだ真に迫っていない。真実に骨身に徹して有難かった時には、我らはただ息づまるばかり迫った沈黙のうちに、熱い涙の一滴をふるえる手の甲に落とすのみである。若しそのときに噛みしめた唇から微かな一言が漏れたならば、その言葉こそ世に最も誠なる言葉と言わねばならない。感激の沈黙は絶対である。その絶対なる沈黙に点ずる霊語、これは詩はその極致とする。

               東洋の心