安岡正篤先生「易の根本思想」2
平成20年4月
性命・運命・命数
4月1日 | 易は生の哲学 |
易が生の哲学、生の化学、生動学ともいうべきものであることは既に説いた。 |
万物の生は、次第に、感覚・意識・精神・心霊を生じ、人間に至ってそれが高度に発達した。 |
4月2日 | 造化の理 |
精神・心霊は人間だけのもので、他の生物にはそれが無いと思うのは人間の慢心であり、不覚であり、無学である。 |
勿論、人間の精神・心霊がそのまま他の生物にあるというのではない。そんなことは造化の理に合わない。それなら造化にならないわけである。 |
4月3日 | 太極は万物にある |
そうではなく、人間の精神・心霊をそうあらしめてをる本質的なもの、太極が万物にあるということである。 |
それは学問の未熟の故にまだ無極であるというに過ぎない。科学が段々その無極を太極たらしめる努力をしている。 |
4月4日 | ミトコンドリア |
核に次ぐ重要な細胞器官であるミトコンドリアは植物細胞には無いとされていたが、今日では植物 |
にもちゃんと存在していることが證明された。こういう観点から動物と植物との区別は無くなっている。 |
4月5日 | 心を持つ「生」 |
生はそういう広い意味に於いて心を持っているところから、立心べん、をつけて、性という。 |
性はつまり天・造化―道の成長である。 |
4月6日 | 道とは |
「一陰一陽之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり。 |
知者は之を見て之を知と謂い、百姓は日に用いて知らず」(繋辞上)である。 |
4月7日 | 絶対の作用 |
人間の考えるような、何ものに依ってでもない、何の為でもない、天・造化絶対の作用を「命」という。生は生命であり、性命である。 |
何故何の為に生れたかなどは心の問題で、物思うということも、何故、何の為に物思うかではなく、物思う、即ち、我 在り |
4月8日 | 附名と命名 |
この子はかくなければならぬ、こうさえあればよいのだという絶対的な意味で名をつけるのを命名という。 |
始めての子だから太郎だ、寅年の生れた男だから寅男とつけるなどは、断じて命名ではない。附名にすぎぬ。 |
4月9日 | まこと、みことは「命」 |
何の主義信念もない、ふらふらした人間ではなく、真実で、かけがえのない、即ち誠の絶対的な人物を、日本の国学では、 |
まこと−みこと、と謂って「命」の字を適用している。という命は天の作用であるから天命である。 |
4月10日 | 命運と運命 |
性命は天の作用であるから天命である。 |
不断の活動、偉大なる循環という意味が「運」であるが、「命運」「運命」はそれによって明らかであろう。 |
4月11日 | 数 |
易は数である。命も亦、数である。数は造化の行われる中に存する複雑微妙な因果の関係、plurality of causes and mixture of effects と言うことができる。 | 運命の進展が人間の意外な環境を作ることを「数奇」という。主として悲劇的な場合に使われる。 |
4月12日 | 数奇 |
尾張中村の微賎な出身の少年藤吉郎が天下取りの太閤秀吉になったというようなことは数奇に相違ないのである。 |
叛に敗れ、円頂緇衣の身となって天下を流浪したような、貴族富豪の家に生れ、虚栄と贅沢に育った娘が運転と恋仲になり、うらぶれはてて、バーに媚を売るというような運命を数奇というのである。 |
4月13日 | 運命は宿命ではない |
二十で死んだ、百まで生きたというような年齢は、命数の一つではあるが、それに限るものではない。 |
その命とか数とかを、予めきまりきったもので、動かすことのできないものと決めこんでしまい、自主自由の意思を失う者が実に多い。これを「宿命観」という。 |
4月14日 | 命は絶対 |
これ程、尤もらしくて、根本的な誤りはない。人間の存在や活動、利害得失、栄枯盛衰等がすべて運命である、予定されてをるものであって、どうにもならぬものと考えることは、宇宙・人生を全く機械化し、固定させる機械観であって、それでは造化にもならない。 |
命は絶対ということは、自律・自慊ということで、他力他律の否定である。 運命と称して機械観を持つことは全く矛盾といわねばならぬ。 運命は宿命ではない。 |
4月15日 | 生きねばわからぬ |
むしろ運命は分からぬと言うのが本当である。生はわからぬ。生きねばわからぬ。わかることは生きることである。運命に順って運命がわかる。 |
その運命は不断の化である。大化である。その数・その理を知って生き化してゆくのが易であり、易学である。 |
4月16日 | 海老の脱殻 |
若いうちから悪固まりせず、五十にして四十九の非を知り(論語)、六十にして六十化(淮南子)するのである。 |
海老は死ぬまでよく殻を脱いで常に溌剌としてをるから永遠の若さの象徴として珍重される。「聖人の易を作るや、将に似て性命の理に順はんとする」(説卦伝)のである。 |
4月17日 | いかなる微物も |
凡そ天地の間に存在するいかなる微物も、その中に含まっている素質能力がどんなものであるかと言うことは容易にわからない。 |
否、限りなく微妙である。物質は原子から成り立ち、原子に核があり、核爆が発人類を亡ぼす力があるなどと、過去の人間の誰が考え得たであろうか。 |
4月18日 | 不断の化 |
木や竹からパルプを作り紙を作ることができる。牛の乳から着物を作り器材が作れるのである。 |
草の根・木の皮が高価な新薬になり、蚕の糞や、水藻の粉が最も新しい科学的興味の対象となる。 |
4月19日 | 不断の化は随所に |
ミミズは偉大な土地改良家であり、エジプト文明はナイルのミミズに負う所が大きいと言われ、 |
日本の山野に蔓生する葛がアメリカ南部諸州の旱魃による農地の破滅を救ったのである。 |
4月20日 | 「命を知る」 |
良医は牛の溲(牛の小便)、馬の勃(馬のくそ)、敗鼓の皮も薬籠中の物とするが(韓退之)、まして人間に於いておやである。 |
苟も万物の霊長と言われる人間であってみれば、その人にいかなる素質能力が伏在潜蔵しているか、それこそ偉大な課題であろう。 |
4月21日 | 「命を立つ」 |
その性能を開発して、人生・社会・天地の為に必要な仕事(務)をするのが人間の義務であり、使命である。これを「命を知る」、「命を立つ」という。 |
易経にも、夫れ易は何する者ぞ。夫れ易は物を開き、務を成し、天下の道を冒む。斯の如きのみなる者なり(繋辞上)と言っている。 |
4月22日 | 理於義 |
元来、道徳とは偉大な造化のことであると前に説いておいたが、易は運命論から言えば、正に説卦伝に説いている通り、「道徳に和順して、義に理あらしめ、理を窮め、性を尽くして以て命に至る」ものである。 |
理於義の原文を日本の諸書は簡単に「義を理め」と読み去ってをるが、それではとんと面白くない。原文は、わざわざ理於義と、於を入れて理の字を用いているのである。義は実践であるから、実践には哲学がなければならぬ.それを表したものであることを知って、始めて妙味がある。 |
4月23日 | 袁了凡 |
明の袁了凡が少年の頃、占翁に運命を占われたが、爾来、受験・及第・仕官・妻子等すべて的中せぬはなく、すっかり感じ入ってしまった彼は、全く宿命観を抱いて、幸にもその為に世間の有象無象を相手に功名富貴を争うような愚を解脱してしまった。 |
彼が江寧の棲霞寺に雲谷禅師を訪うた時、若くして俗気の無い彼の風格に感心した雲谷が、容を改めて彼の修業を問うと、彼は従来の経緯を打ち明けて、その心境を語った。 |
4月24日 | 単なる凡夫 |
すると雲谷は大いに笑って、自分は足下を余程できた人物と思っていたのだが、何だ。 |
それでは要するに凡夫に過ぎぬではないかと言うので、彼は愕然としてその理由を問うた。 |
4月25日 | 命は我より作す |
雲谷は、諄々と儒仏の教えを引いて運命の真理を説き、「命は我より作す」のである。 |
これより「義理再生の身」即ち精神的にも実践的にも生まれ直した自分になって努力せよと教え、始めて感悟た彼は、それより不思議に占翁の予言が外れだした。 |
4月26日 | 造化は運命 |
そこで彼は、それより自ら了凡と号するようになった。これは実に興味深い話である。造化は運命である。それは自律自慊の絶対作用である。 |
物を相手の利害得失や、欲から生ずる喜怒哀楽 |
4月27日 | 静にして閑 |
水流・急なるに任せて、境は常に静かである。 |
花落つること頻りと雖も、意は自ら閑である。 |
4月28日 | 富貴・貧賤を楽しむ |
富貴となれば、富貴を享受してその意義使命を果たし、 |
貧賤になっては、貧賤を享受してこれを十分に生かし、 |
4月29日 | 独立独行 |
いかなる境地に立っても疑惑せず、 |
しっかり自分を把握して(自得)、頂天立地・独立独行してゆく。 |
4月30日 | 天を楽しむ |
それはおのずから楽しみを抱く。 |
易に曰く、天を楽しみ命を知る、故に憂えず(繋辞上)と。 |