佐藤一斎「言志晩録」その七 岫雲斎補注 

       平成25年4月1日-3月30日

1日 160.
長官と平役人の心得
長官たる者は、「小心(しょうしん)翼々(よくよく)」を忘るること(なか)れ。吏胥(りしょ)たる者は、「天網恢恢(てんもうかいかい)」を(ゆるがせ)にすること勿れ。

岫雲斎
トップは「細心による慎み」を忘れてはならない。下役は「天の網は広々と張ってあり、その目は荒いが決してもらすことはない」ということを片時も忘れてはならぬ。

2日 161.
官事は心が第一で帳簿は第二
凡そ官事を処するには、宜しく先ず心を以て簿書と為し、而して簿書又之れを照すべし、専ら簿書に任せて以て心と為すこと勿れ。 

岫雲斎
役所の仕事は心で帳簿や書類を作ることで帳簿や書類を以て自分の心を照らすがよい。専ら帳簿や書類にまかせてこれを精神としてはならない。

3日 162.
公私は事にあり、また情にあり

公私は、事に在り、又情に在り。(こと)(おおやけ)にして情(わたくし)なる者之れ有り。事私にして情公なる者之れ有り。(まつりごと)を為す者、宜しく人情(にんじょう)事理(じり)軽重(けいちょう)の処を権衡(けんこう)して、以て其の(ちゅう)を民に用うべし。 

岫雲斎
公と私は、事柄にも人情にもある。事柄は公であるが私情を伴うものもある。事柄は私であるが、公情で処理しなければならぬものもある。為政者は、よくこの人情と事理とを天秤(てんびん)にかけて、その軽重を判断し多くの人々が納得する中程の所を民に施すべきである。

4日 163.
役人の無駄話
()(じん)相集りて言談すれば、多くは是れ()(しん)栄辱(えいじょく)()()の損益なり。吾れ甚だ厭う。然るに、平日聴くに慣れ、覚えず(たまたま)(みずか)ら冒しぬ。戒む()し。 

岫雲斎
役人たちが集ると話題は昇進とか左遷、或は金銭の損得ばかりである。こんなことは余は大嫌いである。これも平生、聞き慣れてくると知らぬ間に自分もそうなってしまう。注意しなくてはならぬ。

5日 164.         
職外の事に功あれば、仲違いを起こす
人の事を()すは、各々本職有り。()し事、職外に(わた)らば、仮令(たとい)功有りとも、亦多く(きん)を取る。(たと)えば、夏日(かじつ)の冷にして冬日(とうじつ)(だん)なるがごとし。宜しきに似て宜しきに非ず。 

岫雲斎
人には夫々本職というものがある。それに全力を尽くすべきで本職以外で成功しても同僚と仲違いを起こすもととなる。それはちょうど夏に冷たい日、冬の暖かい日のあるようなもので、一見良さそうだが実は本質的にはそうではないのだ。

6日 165
人、各々好尚あり

人には各々好尚(こうしょう)有り。我が好尚を以て、彼れの好尚と争うは、(つい)に真の是非を見ず。大抵、事の是非に(あずか)らざるは、彼れの好尚に任ずとも、亦何の妨げか有らん。乃ち(ぎょうぎょう)々として己れに()りて、以て銖錙(しゅし)角争(かくそう)するは、?(ただ)局量(きょくりょう)(しょう)なるを見るのみ。 

岫雲斎
人間には夫々の好みがある。自分の好みで人の好みにケチをつけて争うのでは本当の善悪は分らない。大抵の事柄で、真の善悪に関係ないことでは相手の趣向に任せて何の弊害があろうか。即ち、口やかましく自分を拠り所として僅かな事で争うのは、その人物の度量の小さいことを示すことになるだけだ。

7日 166
放蕩の子弟も見棄てたものではない

放蕩(ほうとう)の子弟も、亦棄つ可きに非ず。学問(しゅう)()慫慂(しょうよう)するは、即ち悔悟(かいご)の法なり。
一旦悔悟すれば、旧悪は追う可からず。(いわん)や其の無頼(ぶらい)を為すも、亦才に出ずるをや。才は則ち為す所有り。
易に云う「(くら)くして(のぼ)る。()まざるの貞に利あり」と。
此れを謂うなり。
 

岫雲斎
放蕩の子弟も決して見棄ててはならない。これに学問や修養を勧めるのは悔いて悟らしめる方法である。一旦悔い悟れば、元の悪事を追求してはいけない。まして、その子が無法なことをしたのも、才能があれば尚更である。その才能は必ず良いことを為すに違いない。易経にもある「(あん)(じゅう)な小人は理非をわきまえない、悪い方に昇ろう昇ろうとするが、その昇る心こそが取り得だから、その方向を転換して善い方向へ善用すれば、(めい)(めい)となり立派なものになる」とあるのがこれである。

8日 167
学問を勧める方法
勧学の方は一ならず、各々其の人に()りて之を施す。()めて之れを勧むこと有り。激して之れを勧むること有り。
()めず激せずして、其の自ら勧むを待つ者有り。
猶お医人の病に応じて(くすり)を施すに、補瀉(ほしゃ)一ならず。必ず先ず其の病を察して然するがごとし。
  

岫雲斎
学問を勧める方法は一つではない。相手により違わなくてはならぬ。褒めて勧めること、励まして勧めることあり。褒めもせず励ましもせず自分で気づくのを待つこともある。これは、医者が病に応じて調剤するように、ある人には栄養剤、他には下剤を与えるようなもので決して一様ではない、病の状態を察して処置するようなものだ。

9日

168
質問する時の注意

事を人に問うには、虚壊(きょかい)なるを要し、豪も(さしはさ)む所有る可からず。
人に替りて事を処するには、周匝(しゅうそう)なるを要し、()や欠くる所有る可からず。
 

岫雲斎
物事を人に問う時は、心にわだかまりが無く虚心坦懐でなくてはならぬ。また少しでも自分に自負するものがあってはならぬ。人の替りに物事を処理するには充分の用意が必要、少しでも落ち度があってはならぬ。

10日 169.
己に恥じざれば人は服せん
我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。
視聴既に心に愧じざらば、則ち人も亦必ず服せん。
 

岫雲斎
自分の言う言葉は自分で聴いて見るがよい。自分の立ち居振る舞いは自分の眼で見るがよい。自分てで見、自分で聴いて心に愧じることがなければ、人もまた心服するであろう。

11日 170.
己の口で己の行を誹るな
口を以て己れの(おこない)(そし)ること勿れ。
耳を以て人の言を聞くこと勿れ。
 

岫雲斎
自分の口で自分の行いを悪く言うものではない。心で非を改めるのがよい。同様に自分の耳で他人の言う言葉を聞いてはいけない、うわべを聞くのでなくその真意を心で判断しなくてはならぬ。

12日 171.
知ると得るは別物ではない
(おもんばか)らずして知る」とは、本体の発するなり。
「慮って(のち)()」とは、工夫の成るなり。
知る者は即ち得る者、二套(にとう)有るに非ず。
 

岫雲斎
格別に考えもしないで分るとは、良知のもたらすものであり、心の本体から発するものである。よく考えてから後に得られるのは工夫の産物である。この、知ると得るとは見掛け上は別に見えるが決して二つあるのではなく、その本は一つ即ち心の働きなのである。

13日 172.
慎独の工夫

慎独の工夫は、当に身の稠人広坐(ちゅうじんこうざ)(うち)に在るが如きと一般なるべく、応酬の工夫は当に間居(かんきょ)独処(どくしょ)の時の如きと一般なるべし。 

岫雲斎
独りを慎む工夫は、自分が人混みの広い座敷の中に居るのと同じ気持ちでおればよい。人との応対の工夫は、独り閑居している時と同じ気持ちであればよい。

14日 173.
仁者は己れに克ち、君子はよく人を治む
仁者は己れを以て己れに()ち、君子は人を以て人を治む。 

岫雲斎
真の道徳家は、自己の理性で自己の感情を克服する。立派な政治家は、人間の性情を観察して人間を治めて行くものだ。

15日 174.
敬を持する者は火の如し
敬を持する者は火の如し。人をして畏れて之れを親しむ可からしむ。
敬せざる者は水の如し。
人をして()れて之に(おぼ)る可からしむ。
 

岫雲斎
常に敬の心で態度を示す人は火のようなものだ。人間はこのような人を畏れるけれども、親しむ可き人間として尊敬する。敬の態度を示さぬ人物は、水のようなものだ。水のように馴れ親しみやすいが、人間をして溺れさせてしまう、人間としての威厳がなくバカにされてしまうのだ。

16日 175.
心は現在なるを要す
心は現在なるを要す。事未だ来らざるに、(むか)う可からず。
(すで)()けるに、追う可からず。(わずか)に追い(わずか)(むか)うとも、便(すなわ)ち是れ放心なり。
 

岫雲斎
心は常に現在に集中しておかなくてはならぬ。事柄がまだ実現しておらぬのに、それを迎える事は出来ないし過ぎ去った事は追いつけない。少しでも過去を追っかけたり、まだ到来しない未来を追い求めるという事は自己の本心を失ってことになる。現在に集中し最善を尽くす可しである。

17日 176.
視聴・言動を慎め

視聴を慎みて以て心の門戸を固うし、言動を謹みて以て心の出入を厳にす。 

岫雲斎
視ること、聴くことを謹んで、心の門を固くして悪い方向へ進まないようにする。また発言、行動を謹んで心が濫りに出入りししないように厳重に取り締まって身の禍の種を蒔かないようにする事が肝要なり。

18日 177.
人はわが心を礼拝すべし
人は当に自ら吾が心を礼拝し、自ら安否を問うべし。吾が心は即ち天の心、吾が身は即ち親の身なるを以てなり。
(これ)を天に(つか)うと謂い、是れを終身の孝と謂う。
 

岫雲斎
人間は常に自らの心を礼拝して自分の心が健全かどうか確認するべきである。わが心は天よりの付与物であり我が体は親の体であるからだ。このように常に心の安否を問うてゆくのを天に仕える道と申し、生涯を通じての孝行と申すのじゃ。

19日

178
人欲を去る工夫

人欲を去れとは、学人皆之れを口にすれども、而るに工夫(はなは)だ難し。余(かつ)て謂う、「当に先ず大欲を去るべし」と。人の大欲は飲食男女に()くは()し。故に専ら此の二者を戒む。余中年以後、此の欲漸く薄く、今は則ち(たん)(ぜん)として、精神、壮者と太だ異なること無し。幸なりと謂う可し。 

岫雲斎
欲を去れと学者は皆言うが、これが実行の工夫は心もとない。自分は過去に「真っ先に大欲を除け」と申した。大欲とは飲食と色欲の二つに勝るものはない。だからこの二つを戒めることが重要。我輩は、中年以後、これらの欲が漸く薄らぎ現在は淡白なもので、精神は壮年の者と殆ど変わらない。幸いなことである。

20日 179
学人の心得

凡そ学は、宜しく認めて挽回転化の法と()すべし。今日好賢(こうけん)の心は即ち是れ他日の好色、今日好徳(こうとく)の心は即ち他日の好貨(こうか)なり。 

岫雲斎
凡そ学問は移り変わるものである事を認めなくてはなるまい。今日、賢を好む心は前日の好色であったり、今日の徳を好む心は前日の拝金主義であったりするものだ。

21日

180.
大欲は抑え易く、小欲は抑え難し

欲に大小有り。大欲の発するは、我れ自ら知る。
己れに克つこと或は易し。小欲は、則ち自ら其の欲たるを覚えず。
己れに克つこと(かえ)って難し。
 

岫雲斎
欲には大小がある。大欲の起きた場合は自分でそれが分るからその欲に勝つことは或は容易である。だが、小欲は自分自身がそれに気づかぬのでこれに打ち克つのが却って難しい。

22日 181
()(えつ)過愆(かけん)
()(えつ)過愆(かけん)とは、字は同じゅうして訓は異なり。
余見る、世人の過越なる者は必ず過愆なるを。
是れ其の同字たる所以なり。
故に人事は寧ろ及ばざるとも過ぐること勿れ。
 

岫雲斎圀典
()(えつ)はやり過ぎ、過愆(かけん)はやり(あやま)りである。この二つの同じ過で一方は「あやまち」で、一方は「あやまり」で訓が違う。自分の考える処では、世の中の人は、やり過ぎの者は必ずやり(あやま)りをしていると思うから同じ字を用いたのであろう。人事は、及ばない所があっても過ぎてはいけないのだ。

23日 182.
聞と達

管弦、堂に在りて、声四方に聞ゆ。(ぶん)なり。巌石、谷に倒れ、(ひびき)、大地に徹す。達なり。 

岫雲斎
楽器が堂内で鳴り四方に聞こえる。これは聞である。岩石が谷に倒れその響きが大地を震撼させる。これは達である。(達人の達と聞の違いを比喩した。人物でも聞と達は似ているが雲泥の差あり)

24日

183
君子は実響ありとも虚声ある勿れ

名誉は、人の争いて求める所にして、又人の群りて(やぶ)る所なり。君子は只だ是れ一実のみ。寧ろ実響有りとも、虚声有ること勿れ。 

岫雲斎
名誉は世間の人が争い求めるものだ、又、人は集まって誹るものである。君子は一つの実の尊び、名は問題としない。実際の功績による名誉はあっても実の欠けた名誉だけはあってはならぬ。

25日 184
順境あり、逆境あり
人の一生には、順境有り。逆境有り。
消長(しょうちょう)の数、怪む可き者無し。余又自ら検するに、順中の逆有り、逆中の順有り。宜しく其の逆に処して、敢て()(しん)を生せず、其の順に居りて、敢て()(しん)(おこ)さざるべし。
()だ一の敬の字、以て逆順を貫けば可なり。
 

岫雲斎
人間の一生には順境もあれば逆境もある。これは大自然の栄枯盛衰の理法であり少しも怪しむに足りない。自分で検討したが、順境、逆境と申しても、順境の中の逆境、逆境の中の順境がある。だから逆境には、怠けてやけくそを起さぬ事、順境にあっては怠け心を起さないことだ。敬の一字、則ち慎みを以て終始一貫することである。

26日 185.
愛と敬
天下の人皆同胞たり。我れ当に兄弟(けいてい)の相を()くべし。天下の人皆賓客(ひんきゃく)たり。我れ当に主人の相を()くべし。兄弟(けいてい)の相は愛なり。主人の相は敬なり。 

岫雲斎
人間はみな同胞であるのだから、当然兄弟のように考えて付き合わねばならぬ。また人間はみなこの世に来た客でもあるのだから自分は主人として付き合わねばならぬ。兄弟の関係は愛である。主人のそれは敬である。

27日 186.
物・我一体の理を認むべし
物・我の一体たるは、須らく感応の上に就いて之を認むべし。
(せん)(しん)有り。
厚薄有
。自ら()う可からず。
察せざる可からず。
 

岫雲斎
物と我との一体である事は、物が我が心に感じ、我が心が物に感ずる上から十分に認めることができる。その感応の度合には浅深がある。厚薄もある。これは欺くことはできない。観察を十分していかなくてはならぬ。

28日 187.
平生使用の物件を大切に

書室の中、机硯書冊(きけんしょさつ)より以外、凡そ平生便用する所の物件、知覚無しと雖も、而も皆感応有り。
宜しく之を撫愛(ぶあい)して、或は毀損(きそん)するこ()かるべし。是れ亦慎徳の一なり。
 

岫雲斎
書斎の中にある机、硯、書物などは申すに及ばず、凡そ平生用いている物品には知覚は無いけれども、皆夫々感応がある。だからそれらの品々は大切に取り扱って傷つけたり壊してはいけない。これも亦、徳を慎むことなのである。

29日 188.
愛敬の心
愛敬(あいけい)の心は、即ちち天地生々の心なり。草木を樹芸し(きん)(ちゅう)を飼養するも、亦唯だ此の心の(すい)なり。 

岫雲斎
愛し敬する心は天地が万物を育て成長せしめる心と同じである。草木を植えたり鳥や虫を飼育するのもこの愛と敬の心を推進せしめたものである。

30日 189.
物は人為的、事は(てん)()
物、其の好む所に集るは人なり。事、期せざる所に赴くは天なり。 

岫雲斎
物がその好む所に集るのは意識的に行われた結果であり人為である。事が予期せぬ所に行くのは人間にはどうしようもない所のもので天為と申すべきである。