はらわたが煮えくり返っている!!

民主党指導者の本質が露呈した 

有史以来と言える大震災が発生した。将に、「国難」である。

かかる時に、左翼の、市民派の、労組上がりの政権とは実に日本の悲劇である。 

責任ある仕事をしたことがない連中ばかりの「青二才内閣」だから日本人は実に不幸だ。  

菅クン

うろたえて、東電社長を怒鳴る。自分は、ウロウロするのみである。あの「(うつ)ろな表情はなんだ!」 

かかる時こそ、国のトップも、組織のトップも、

「デンとして構えて、国民に安心感を齎す顔」を示さなくてはならぬ。 

菅クンには人間的器量が無い。人物が出来ておらぬ。

人の上に立つ人物ではない。国民に安心感が与えられないのだ。 

国家を背負って立つという自覚が見られない。

それは菅クンに「命懸けの覚悟の無い証左」である。 

菅クンにはその「覚悟」が無いからウロウロしている。将に、「無能にし有為の人物」に過ぎない。 

野党や市民派で権力側を攻撃するのみで生きてきた人間の限界を物の見事に証明している。 

東京電力の社長

 かかる時に顔を見せない。菅クンと同様、「大事に物の役に立たぬ男」なのである。

 副社長が被災者の見舞いに行きたが、「立ったままのお辞儀」である。真摯なものを少しも感じない。 

 畏れ多くも、天皇・皇后両陛下さえ、「廊下に膝まづかれて被災者を慰められる」のである。 

 米国大使さえ、膝まづいて、被災者を抱きしめて慰め、米国はいつも友達だと真摯な表情で誠意を示された。 

菅クンも東電経営者も、「心底から、日本や東電の責任者」として真摯でない。 

この二人の教養、素養の原点に「人間性」が決定的に欠如しているのである。大東亜戦争に負けたのは机上の空論の参謀本部の故であった。 

「知識」と「学歴」のみで名を成した人物の限界であろう。

この当事者の菅と東電社長の二人には「人間的見識」が無い。

トップとして、宰相としての「胆識」は(ごう)も見られない。

これは日本の不幸である。

小沢一郎君がいみじくも述べた様に、「民主党には政権担当能力」が無いと申したことが的中した。 

ここで、菅クンに最低の教養があるならば、「切腹」である。

鳥取城主「吉川(きっかわ)経家(つねいえ)」は秀吉に「兵糧攻め」にされ、自らの切腹と引き換えに家来を助けた名君である 

菅クン、オマエも男なら、

「日本国の大国難」を乗り越える為に、「身を捨てる」ことしかないのだ。「捨身(しゃしん)光明(こうみょう)」なのである。 

キミはお遍路をしたが、あれはパーフォーマンスと喝破していたが、矢張りこの有様である。 

将に、市民派の「無能にして有為」の最低の人物であり、「人間的な実に欠ける」のだ。 

キミは、権力の醍醐味に酔っている場合ではない。

既に、詭弁を弄して権力にしがみ付いている様子が覗える。

出処進退の潔いのが日本人である。

キミは権力の座にしがみ付いている権力亡者だ。 

ここは、民主党では乗り越えられないと、政権を国民へ返上した上で、「挙国内閣」を自民党中心に組成するお願いをするしかこの大危機は乗り越えられまい。 

ボンチ岡田君は、これを取り仕切れる「人物・器量」に非ず。 

災害担当大臣の、あの水平社・松本治一郎の孫も「全く、役立たずのボンボン」である。

顔が見えない、阪神大震災担当の自民党・小里議員とは雲泥の差がある。

人間的器量と練磨の差が歴然としているのだ。

これでは、大国難を収束できまい。 

多少、ましかと思った海江田万里君も、消火活動隊員に「クビだと恫喝」した。痴れた男であった。修羅場で人物が現れる。所詮は評論家に過ぎないことが明白となつた。 

緊急時に、部下を、怒るようなトップは落第である。

トップは先ず、「自らのこととして」難局に対峙するのが、「本物のトップ」である。叱るのは後でいいのだ。 

やはり、組織トップばかり攻撃して生活してきた菅とか仙谷、枝野などの左翼、市民派上りの指導者は、

宰相として「完全不適格」であり「無責任極まりない」ことが証明された。 

国難の時に実に嘆かわしい政府である。

はらわたが煮えくり返っている。 

      平成2341 

    徳永日本学研究所 代表 徳永圀典