柿本人麻呂・()(きの)皇子(みこ)

平成20年4月

4月1日 宇陀の万葉公園 万葉集を何度ひもといても、人麻呂の歌は心に染み入るものが多い。中でも、あの暁の空を歌った「(ひんがし)の野にかぎろひ・・」の場所を、少年時代から一度は訪ねて見たくて漸う現地を訪れたのが73才の時であった。 親友と吉野山の桜を堪能した帰途、万葉公園に立ち寄った。人麻呂の歌碑もあり、静かで素朴な佇まいに、かぎろひへの思いをはせることが出来たものだ。
ひんがしの野にかぎろひのたつ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ
4月2日 宇陀の
かぎろひ」

宇陀は奈良県大宇陀町の山また山の高原のような地形の中にある。東京天文台の辻技師により天文学暦学上の算定がしてある。現地の地形を測定した上での測定によると

太陽と月との位置関係を帰納した結果、この歌は、持統天皇六年陰暦11月17日(太陽暦12月31日)西暦695年、午前五時五十五分前後のこととされている。驚くべきことである。
4月3日
安騎(あき)野で

この歌は、長歌の反歌の一つである。

長歌「(かる)皇子(みこ)安騎(あき)()に宿りましし時、柿本()(そん)人麻呂の作る歌」
 
やすみしし わが大王(おほきみ) (たか)照らす 日の皇子 (かむ)ながら (かみ)さびせすと (ふと)()かす (みやこ)を置きて (こもり)()の (はつ)()の山は 真木(まき)立つ 荒山道を (いは)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗すすき 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせず いにしへ思ひて   巻1-45
4月4日 反歌1-2 「安騎の野に 宿る旅人うちなびき ()()らめやも いにしへ思ふに」
     巻1-46
()(くさ)刈る 荒野(あれの)にはあれど 黄葉(もみちば)の すぎにし君が 形見とぞ()し」  巻1-47
4月5日 反歌3-4 ひんがしの野にかぎろひのたつ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ       巻1-48 日並(ひなみし)の 皇子(みこ)(みこと)の (うま)()めて 御猟(みかり)立たしし 時は来向ふ」
       巻1-49
4月6日 草壁皇子 軽皇子の父は草壁皇子でよく宇陀に狩猟に来ていた。草壁皇子は天武天皇の皇太子だが28才で薨去された。 長歌や反歌は父・草壁の思い出の地・安騎野に追悼の旅に出られ時に随行した人麻呂の作なのである。それが持統天皇六年の陰暦11月のことであった。
4月7日 追悼行路 一行の追悼行路は、歌によれば、飛鳥浄御原宮を出て、初瀬の山の、真木立つ荒山道を越え、「石が根、禁樹おしなべて」苦心惨憺して、その日の 夕方には、雪の降る阿騎の大野に着いて、旗すすきや小竹を靡かせて亡き父の在りし日の昔を偲び、仮の旅寝をしたのである。
4月8日

万葉歌碑

奈良県宇陀郡大宇陀町の西の式内阿紀神社の前を流れる本郷川の橋際に標石があり「宇陀郡神戸村大字迫間字吾城野神戸鎮座」とある。 私の訪ねた万葉公園は、その南側の長山の丘で佐々木信綱博士揮毫による「東の野に・・・」の歌碑が立っている。この辺が安騎野であろう。
4月9日 讃岐の()()島に、石の中に(みまか)れる人を() 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ (かむ)からか ここだ(とうと)き」天地(あめつち) 日月(にちげつ)とともに ()りゆかむ 神の御面(みおも)と つぎて来る 中の水門(みなと)ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば」時つ風 雲いに吹くに 沖見れば 跡位浪(といなみ)立ち 辺見れば 白浪さわく」(いさ)()取り 海を(かしこ)み 行く船の  (かじ)引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし ()(みね)の島の 荒磯面(ありそも)に いほりて見れば」浪の()の しげき浜辺を しきたへの 枕になして (あら)(とこ)に (ころ)()す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを」(たま)(ぼこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ ()しき妻らは      巻2-220
4月10日 反歌二首 「妻もあらば ()みてたげまし ()()の山 野の()のうはぎ 過ぎにけらずや」    巻2-221 「沖つ波 来よる荒磯(ありそ)を しきたへの 枕とまきて ()せる君かも」
       巻2-222
4月11日 古代の()() これらの歌の詠まれた小島、今は坂出市の臨海工業地区として埋め立てられ、人麻呂の昔日と相貌を異にしている。のどかな、人麻呂の詩の島、歌の島は最早や消滅している。千古に残したい日本の原風景はこうして各地で消え去ってしまっている。 沙弥島は備讃海峡の塩飽(しわく)の島々が集約している所、大自然の神秘に圧倒され、讃岐富士など円錐形の四国の山々が散在して見られ荘厳な風景に満ち満ちた景がある。人麻呂のこの長歌に国生み神話から説き起こす船の出る中の水門(那珂郡の湊、丸亀市中津)は風土景観から自然の叙情である。
4月12日 家知らば 行きても告げむ 古代人はこの瀬戸の海では身を賭した航海であったろう。潮と波の恐さ遭難して漂流死体となった 荒涼たる浜辺の様子も見られたのではないか。明日はわが身と鄭重なる弔いの心も沸いてくる。
4月13日 待ちか恋ふらむ 「浪の音の しげき浜辺」の死体、その家族に思いをかけ、「家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを」の言葉には切実感がある。 長歌の末にある「待ちか恋ふらむ ()しき妻ら」はその死者の家庭愛に思いをはせる人麻呂の哀悼の意であろうか。
4月14日 絶句する歌! (あふ)()(うみ) 夕鳥千鳥 ()が鳴けば (こころ)もしのに (いにしへ)思ほゆ」 巻3-266 (こころ)もしのに (いにしへ)思ほゆ」、ここらあたりの表現には感動してしまう、この情けの深い感慨、私には表現できないが、琵琶湖畔の千鳥の鳴き声に誘われるようなものがあったのかもしれない。
4月15日 近江の(こう)()を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌  (たま)(だすき) (うね)()の山の 橿原(かしはら)の ()(じり)御代(みよ)ゆ ()れましし 神のことごと (つが)の木の いやつぎつぎに (あめ)の下 知らしめししを (そら)にみつ (やまと)を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天離(あまざか)る (ひな)にはあれど (いは)走る (あふ)()の国の  ささなみの 大津の宮に (あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめらぎ)の 神の(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿(おおとの)は 此処(ここ)と言へども 春草の 茂く(しげく)()ひたる 霞立(かすみた)ち 春日の()れる (もも)磯城(しき)の 大宮処(おおみやどころ) 見れば悲しも 
     巻1-29
4月16日 雄渾、雄大 人麻呂は、遠い処、遥かの時から説き起こす習癖があるようだ。そして現実も遠い彼方にまで及ぶのである。故に、歌が、雄渾、雄大にして格調高きものとなる。近江大津で「(あま)の下 知らしめしけむ 天皇(すめらぎ)」、 天智天皇を出すのに神武天皇以来の大和治政から、地理的、風土的には移動景観として奈良山を越えて近江の大津の地へと着地して、そこで天智天皇を持ち出す。   
4月17日 見れば悲しも 「大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿(おおとの)は 此処(ここ)と言へども」、近江大津の御所の跡を求める人麻呂、求めても何もない、ただ「春草の 茂く(しげく)()ひたる」 また「霞立(かすみた)ち 春日の()れる」のみである。国(やぶ)れて山河の風景となり「見れば悲しも」と深い嘆きが打ち出される。  
4月18日 反歌 「ささなみの 志賀の辛崎(からさき) (さき)くあれど 大宮人(おおみやびと)の 船待ちかねつ」 巻1-30 琵琶湖畔の唐崎を訪ねたことがある。芭蕉が「辛崎の 松は花より (おぼろ)にて」と詠んでいる。近江富士の遠景、夕日の映えるさざ波、水の音、岬の枯葉などが絵になる地である。大宮人の船がそこにあるのかと幻影が浮んできたのであろう。春草、春霞の中の唐崎が瞼に浮んでは消えてゆく。 
4月19日 志賀の大わだ 「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」   巻1-31

「ささなみ」は昔の地名らしい。唐崎から南、大津にわたり大きく湾曲した地が大曲(おおまがり)

志賀の大わだは、広々として淀んでいる。
近江大津は大宮として繁栄し、壬申の動乱の本拠である。その荒れた都の思い出を回想していたのではないか、人麻呂は。

()(きの)皇子(みこ)

4月20日 壬申の乱後、天武・持統天皇系により皇統は続いた。奈良朝最後の(こう)(にん)天皇により久し振りに天智天皇の皇統となった。 光仁天皇は、天智天皇と伊羅都売との間に生まれた志貴皇子の皇子、白壁王である。
4月21日 志貴皇子の(よろこび)の御歌 石激(いはばし)る 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」 巻8-1418 実に行き届いた歌ではなかろうか。悠々として、伸び伸びとした春の喜びが満ち溢れている。春の足跡が聞こえてくるような素敵な歌である。
4月22日 控え目な皇子 「むささびは ()(ぬれ)求むと あしひきの 山の猟夫(さつを)に あひにけるかも         巻3-267 むささびの巣を私は高山の樹林帯で見つけて孫に与えたことがある。樹皮の内の皮を繊細な絹のように集めたもので驚いた。控え目な志貴皇子らしい。
4月23日 明日香宮より藤原宮に(うつ)()りましし後、志貴皇子の御作歌 采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 (みやこ)(とお)み いたづらに吹く」           巻1-51 廃都の明日香、気飾った女官采女の袖の古都回想であろうか。
4月24日 寒き夕 葦辺(あしべ)ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き(ゆうべ)は 大和し思ほゆ」 巻1-64 難波宮に文武天皇行幸時の歌、酷寒の寒さをしのばせる。
4月25日 春日宮天皇の志貴皇子、高円(たかまど)山麓に居。 「大原の この(いち)(しば)の 何時(いつ)しかと 吾が()(いも)に 今夜(こよひ)逢へるかも」 
    巻4-513
神名(かむな)()の (いわ)()(もり)の ほととぎす ()(なし)(おか)に 何時(いつ)来鳴(きな)かむ」
    巻8-1466
4月26日 皇子葬送の野辺送りの歌

笠朝臣金村歌集出より、挽歌の中の秀作
(れい)()元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の(みまか)りましし時、作れる歌一首

(あずさ)(ゆみ) 手に取り持ちて ますらをの 得物(さつ)矢手(やた)ばさみ 立ち向ふ 高円(たかままど)山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を 

いかにと問へば 玉ぼこの 道来る人の 泣く涙 こさめに降り 白たへの 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな言ふ 聞けば ()のみし 泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇(すめろぎ)の 神の御子(みこ)の いでましの ()()の光そ ここだ照りたる」 巻2-230
4月27日 野辺送りの松明(たいまつ) これは、皇子と縁の深い、高円山麓の狩猟の思い出で高円山の裾を巡り延々と続く野辺送りの松明の火を、正体不明の疑問の火として、問答の形にして展開しているのだという。問う人は「あの火は何か」、問われる人は、涙を出して泣き泣き、 白妙の衣も涙で濡らし「何だって無茶なことを聞かれるのか、あなたの言葉を聞くと泣けて、泣けて仕方がない。話せば心も張り裂けるほどだ。あれはね、天皇さまにお子様の野辺の送りの松明の光ですよ、それが、ほれ、あのように燃えているのですよ」
4月28日 反歌

高円(たかまど)の 野辺(のべ)の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに」   巻2-231

白毫寺は萩の寺と言われ秋には紅白の萩が美しい。 

4月29日 反歌 「三笠山 野辺行く道は こきだくも 繁り荒れたるか 久にあらなくに」 巻2-232

白毫寺には万葉歌碑がある。碑の真東に高円山が山頂までの山容を見せ、その東の彼方には志貴皇子の田原西陵がある。田原の里の此瀬には太安万侶の墓と墓碑銘が出土された。 

4月30日

飛鳥浄御原宮跡

現地で色々の説はあるようだが、凡その見当だけではないか。名前がいいなあと思う、「清らかな風が吹いてくるような」命名である。 皇子たちへ思いを馳せて、この飛鳥の地の古代の様相を偲びながら歌を読み直すのも春らしい。