人つくり本義」その八 安岡正篤 講述   「人つくり本義」索引
   人づくり入門  
小学の読み直し 

三樹(さんじゅ) 一年の計は(こく)()うるに()くはなし。十年の計は木を樹うるに如くはなし。終身の計は人を樹うるに如くはなし。菅子・権修
平成23年4月

1日

曾子曰く、君子は(ぶん)を以て友を(かい)し、友を以て仁を(たす)く。(論語・先進篇)

 2日

古来教養ある階層に普及した名言であります。文とは今日で言う教養であります。教養を以て友を集める。利を以て会するものではない。そうして友を以て仁を説く。仁とは限りない我々の進歩向上を言うのであります。「文会輔仁」、わが師友会もこれを以て旨としておるのであります。

 3日

孔子曰く、朋友は切々偲々(せつせつしし)たり。兄弟は怡々(いい)たり。(論語・子路篇) 

 4日

切々偲々(せつせつしし)は努力する形容詞。怡々(いい)は楽しく愉快にすること。簡単でしかも無限の意味を含んだ一文であります。善は人間の生命であるけれども、肉親の間柄で、兄弟は勿論父子の間でも、これを責めるということはよくないと孟子が論じております。肉親は繋がって一体でなければならぬ。離れるということは禍これより大なるはない。だから善と雖もこれを責める事はよくない。和やかに愛情の中にひたっておらねばならない。それが怡々(いい)であります。

 5日

然し、それだけでは人間がだらけてしまう。そこで切磋琢磨してお互いに磨き合う必要がある。それは肉親の間では出来難い。よって師と友に託して教育してもらう。だから師弟とか朋友とかいうものは、お互いに磨き合うことが根本義であります。父子・兄弟と師友とが相俟って円満な進歩向上が得られるのであります。

 6日 孟子曰く、善を責むるは朋友の道なり。
 7日

これは孟子の離婁篇にある語で、その前に父子の間で善を責め合うことはいけないと論じている。師弟の間も同じことで、善を責め合うにはやはり朋友が一番であります。何を言っても構わない。大いに論じ合ってお互いに磨く。怒るような人間は友とするに足りない。

 8日

子貢・友を問ふ。孔子曰く、忠告して而て之を善道する。()かれざれば即ち止む。自ら(はずかし)むること(なか)れ。

 9日

子貢が孔子に本当の友たるの道はなんでしょうかと尋ねた。すると孔子は、忠告してこれを善導する。しかし聞き入れられない時には一旦止めるがよい。無理強いをすると反発するばかりで、却って自分を辱めることになる。相手が人間のことでありますから、いくらこちらが正直に友誼を尽しても、その善意が分からずにとんだ誤解を招いたり、失敗することもある。余り無理をしないことが肝腎であります。

10日

益者(えきしゃ)三友(さんゆう)損者(そんじゃ)三友(さんゆう)(ちょく)を友とし(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは益なり。便辟(べんへき)を友とし、(ぜん)(じゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

11日

益になる三種類の友達がある。徳を損ずる三種類の友達がある。正直な人を友とし、誠のある人を友とし、諒は諒解の諒で、うん、もっともだとうなづける誠。見聞の広い人を友とする。自分の知らない色々の見聞に長じておっても、珍しい話を聞かせてくれる友達は実に楽しいものであります。これが益者三友。

12日

反対に所謂、世慣れた人を友とし、便辟(べんへき)は便利・利益本位、或は避に同じで、厄介なことは避けて相槌をうつ、調子を合わせる意。気軽に調子を合わせてゆく誠意や、実意のないことを便辟(べんへき)というのであります。また善であるけれども、ぐにゃぐにゃして事勿れ主義の人を友とし、調子を合わせて媚びる人を友とする。これは損者三友である。

13日

便佞(べんねい)(ねい)という字は、信と女をくっつけた(ねい)と、仁に女を加えた(ねい)と二通りありますが、従って元来は善い意味を持った文字であります。仁愛に富んだ信のある女の言葉は必ずやさしいものである。行き届いて気持がよい。そこで信から出る行き届いた挨拶・言葉遣いを(ねい)と言う。それが出来ぬというので、つまりろくな挨拶も出来ぬという意味で自分のことを()(ねい)というのであります。

14日

処が段々意味が変わってきて、口先だけの信のないことを(ねい)というようになり、(ねい)(かん)などと使われるのが普通になってしまつたわけであります。

15日

孔子曰く、(あん)平仲(へいちゅう)善く人と交わる。久しうして人之を敬す。 

16日

(あん)平仲(へいちゅう)は管仲・晏子と言って並び称せられる春秋時代の斉の名宰相であります。晏子の行蹟などを拾い集めた晏子春秋という本がありますが、立派な書物で、晏子の人柄がよく偲ばれるのであります。

17日

その晏子を孔子がほめた、「久しうして人之を敬す」と言う。大抵は人と交って久うすると、人これを侮るものであります。「(きゅう)(けい)」という言葉がありますが、年が経つにつれて敬意を払うようになってこそ本物であります。 

18日

恩讎(おんしゅう)分明(ぶんめい)、此の四字は(ゆう)道者(どうしゃ)の言に非ざるなり。好人無しの三字は有徳者(ゆうとくしゃ)の言に非ざるなり。後生之を戒めよ。

19日

恩と讎を余りはつきりと分けるというようなことは、道を体得したものの言葉ではない。好人無し、ろく(○○)な奴はおらぬ、などと言うのは徳の有る人間の言うべき言葉ではない。

20日

終戦当時、進駐軍の顧問として日本に来た所謂進歩的文化人がありますが、「日本にはろく(○○)な奴はおらぬ。立派な人間は牢屋に入っておる人間だけだ」と言って徳田球一や志賀義雄等を解放した。つまり好人物無しであります。もっともその為に公使として再び日本にやって来た時には、心ある日本の識者達から相当反対されて問題になったのでありますが、こういうことを口に出す本人自身己に好人でないことがよく分かるのであります。

21日

横渠(おうきょ)先生曰く、今の朋友は、其の(ぜん)(じゅう)を択び、以て相与(あいくみ)し、肩を()(たもと)を執って以て気合うと為す。一言合はざれば怒気(どき)相加(あいしの)ぐ。朋友の際は相下りて()まざらんことを欲す。故に朋友の間に於て、其の敬を主とする者は、日々に(あい)親与(したしくくみ)し、効を得る最も速やかなり。

22日

終戦の詔勅にある「万世の為に太平を開く」とはこの人の語であります。王安石と意見が合わず、峡西省の横渠(おうきょ)と言う所に帰って学問に専心し生涯を送った。名は戴と言い、字を子厚と言う。若い時から華厳等を学びだんだんと儒学に入っていった人であります。

子弟にはかく教うべし
23日

馬援(ばえん)の兄の子・厳と敦と並びに譏議(きぎ)(この)みて、而て軽侠(けいきょう)の客に通ず。援交趾(えんこうし)に在り。書を(かえ)して之を(いまし)めて曰く、吾れ汝が曹・人の過失を聞くこと父母の名を聞くが如く、耳聞くを得べきも、口言うを得べからざるが如きを欲す。好んで人の長短を議論し、(みだ)りに正法(しょうぼう)を是非するは、此れ吾が大に(にく)む所なり。寧ろ死すとも子孫に此の(おこない)有るを聞くことを願はざるなり。(りゅう)(はく)(こう)敦厚(とんこう)(しゅう)(しん)にして、口に(たく)(げん)無く、(けん)(やく)節倹(せっけん)(れん)(こう)にして()有り。 

24日

吾れ之を愛し、之を重んず。汝が曹(これ)(なら)はんことを願ふ。()()(りょう)豪侠(ごうきょう)にして義を好み、人の憂を憂へ、人の楽みを楽み、清濁(せいだく)失ふ所無く、父の()に客を致せば、数郡(ことごと)く至る。吾れ之を愛し之を重んず。汝が曹の(なら)はんことを願はざるなり。(はっ)(こう)(なら)ひて得ずとも、猶ほ(きん)(ちょく)の士と為らん。所謂(こく)を刻んで成らずとも、尚(ぼく)に類する者なり。季良に効ひて得ずんば、(おちい)りて天下の軽薄子(けいはくし)と為らん。所謂虎を画いて成らず、反って(いぬ)に類する者なり。

25日

馬援の兄の子の厳と敦の二人は、共になんでもそしることが好きで、その上天下国家を以て任とするような軽々しい男だてと交わっておった。丁度、馬援が今のベトナム地方に当る総督をしておった時分に、多分、甥達から来た手紙には、土時の宰相をそしったようなことが書いてあったのでありましょう。その甥たちへの手紙の返事らこれを誡めて言うには、私はお前達が人の過を聞くこと父や母のことをとやかく言われるように、耳に入るが、口に出すには忍びないようであって欲しい。

26日

お前たちのような修業中の未だ物事のよく分からぬ青二才は好んで人の長所や短所を議論したり、みだりに国家の正しい法を批判するのは、私のもっとも悪むところである。死んでも子孫にこのような行いのあることは聞きたくない。竜伯高(名は述、字は孔明)という人は重厚で慎み深くて言語みな法にかないも謙約・節倹で・清廉公明で威厳があった。自分はこれを愛し重んずるものである。お前たちも見習って欲しい。

27日

また()()(りょう)という人は軍系統の人であるが、豪侠で義を好み、人の憂えるところを憂えてやり、人の楽しむところを一緒になって楽み、清は清、濁は濁でちゃんと飲み込んで父の葬儀には数郡の人々が悉く参列した。それだけ人望があったわけであります。自分は之を愛し、重んじておる。然しお前達のこれを見習うことは願わないのである。竜伯高を真似て、よし達することが出来なくとも、謹勅の人間になることが出来るであろう。

28日

所謂おおとりを刻んで成就することが出来なくとも、竜伯高のアヒルになることは出来る。()()(りょう)を見習って達することが出来なければ、陥って天下の軽薄子(けいはくし)となるであろう。丁度、虎を画いて、また犬になってしまうようなものであると。世の中には、ご本人は一人前の国士のつもりでおるが、実際は画かれた犬の如き人間が多い。 

29日

諸葛(しょかつ)()(こう)、子を戒むる書に曰く、君子の行は(せい)(もっ)て身を修め、(けん)(もっ)て徳を養ふ。(たん)(はく)に非ざれば以て志を明らかにすること無し。(ねい)(せい)に非ざれば以て遠きに到ること無し。()れ学は(すべから)く静なるべきなり。才は須く学ぶべきなり。学に非ざれば以て才を広むることなし。静に非ざれば以て学を成すこと無し。?慢(とうまん)なれば則ち精を(みが)くこと能はず。険躁(けんそう)なれば即ち性を(おさ)むること能はず。年・時と(とも)に馳せ、意・(とし)と与に去り、遂に枯落(こらく)を成し窮廬(きゅうきょ)に悲歎するも()()た何ぞ及ばん。

30日

?(とうまん)は高慢ちきの意。流石に親の子、孔明の子の(せん)決して父を(はずかし)めなかった。()と戦って戦死しております。蜀の楠木正成であります。またその子の尚は、魏が蜀を攻撃した時に殉職しております。諸葛(しょかつ)三代の誠忠は丁度、支那における楠木氏の一族と言うべきものであります。あの支那嫌いの平田篤胤でさえ、孔明を孔子以後の第一人者とほめております。