出雲の国の不思議 A
平成24年4月

1日 神在月の出雲の11月

反骨精神か、国譲りの威信か、大和政権が旧暦10月を神無月としているのに、出雲国では逆に「神在月」となり全国から神様が集る、というのも面白い。出雲大社では「神在祭」が連綿と行われてきている。

2日 稲佐の浜 旧暦1010日の夜、大社の西にある稲佐の浜では、神秘的な神迎えの神事が行われている。暗闇に、かがり火が神官の白装束を照らし出す。注連縄が張り巡らされて、その中に置かれるのは神々が寄りくる神籬(ひもろぎ)とオオクニヌシの使いである(りゅう)()さまと言われる。
3日 神在月の出雲

なぜ旧暦の10月かという命題がある。日本の神様は、春に山から里へ下りて田の神となり稲作を見守る。収穫がすむと山に戻ってゆかれる。その途中に出雲に行き、翌年のことを話し合うのだという。「神在月」という言葉は、出雲大社の前宮司・千家尊統著の「出雲大社」(学生社、1968年)によると『室町時代の辞書「下学集」にも見えている』、『かなり古くから使われた言葉であり、このように出雲には神が集まるのだと、信じられていたことがわかる。』とされている。「神無月」は、万葉集にも出ている。これは日本肇国以来となるのだ。凄いことである。

4日 神々の会議

集った神々の宿舎は、出雲大社境内の東西19社、翌日から始まる神々の会議は大社西方の上宮(かみのみや)で開かれるという。誠に人間的な日本の神々であろう。この間、神々の会議の邪魔にならぬように、人々は歌舞音曲を避けたり物音を立てずに過すという。御忌(おいみ)(まつり)という。神々が出雲大社を出発されるのは17日。この後には()()神社に遷られるが最終的に出雲を出られるのは26日の由である。

5日 再びオオクニヌシ 「日本書紀」の国譲りはオオナムチ(オオクニヌシの別名)が治めていた現世の諸々は天孫(アマテラスの子孫)が治めオオナムチは幽冥介で神の行うことを治める役割となったと記している。だから、神々がオオクニヌシの下に集り、人間社会の縁や生死などを「神議(かんばかり)」するのだという。これも痛烈な国譲りの対価であろう。やるものだ。大和政権への監督であり(しっ)()返しと言うのは下司な人間の考えることなのであろう。それにしても素晴らしい仕組みである。
6日 平成の大遷宮の出雲大社

平成25年が60年に一度の大遷宮である。こうして神の霊力が新たに甦るのであろう。将に然り。伊勢神宮の20年に一度の遷宮により、建造技術も、伝統も、人材の育成も可能にする素晴らしい日本人の叡知なのである。

7日

伊勢神宮は新社殿の立て替えであるが出雲大社は、立て替えのほか修理で遷宮をする。伊勢神宮は東西に並んだ殿地に交代で遷宮する。出雲大社はそれは決まっておらないという。まだ、古代本殿がどこかに眠ったままあるのかもしれない。

8日 大和政権よりこれは格段に大きい

現代の国宝本殿は、江戸時代中期、桜町天皇の延享元年、1744年の造営という。最後の遷宮のあった昭和28年、1953年までに二回遷宮修造が行われている。今回の本殿修理は、大屋根の葺き替え中心、面積180坪、厚さ1メートルと巨大である。檜皮(ひわだ)60万枚、桧皮も特大で長さ90センチから120センチ。京都御所は75センチ。大和政権よりこれは格段に違う。

9日

いずれにしろ、伊勢神宮と出雲大社の遷宮が来年は行われる。平成の大遷宮、東西の神威高き大神の霊力で日本の再生、甦り、復元を期待する。

10日 古事記に描かれた出雲

考えてみれば、古事記上巻の三分の一は出雲を中心とした山陰地方が舞台となっている。古代、日本の統一政権が出来た大和朝廷が、それ程の分量を出雲に関して記述したとは出雲に強力な王権があったと言うことである。

11日

古事記に描かれているのは、天上界には天照大神が君臨する天上世界・高天原、その地上の世界である葦原(あしはらの)中国(なかつくに)の外に、黄泉(よみの)(くに)スサノオが支配する()堅州(かたす)(くに)など様々な世界がある。出雲には黄泉(よみの)(くに)への出入口として「黄泉(よもつ)比良坂(ひらさか)」が登場する。

12日

イザナギ、イザナミの男神、女神が次々と島を生み国作りしていた時、火の神を生む時の火傷が原因でイザナミは死ぬ。イザナミを忘れられぬイザナギが黄泉(よみの)(くに)へ会いに行く。そこで見たのは蛆の涌く妻の姿であった。逃げ帰るイザナギは大石で黄泉坂を塞いでしまいこの世に戻る。

13日

また、高天原を追われたスサノオが降り立ったのは出雲国(ひの)(かわ)のほとり、鳥髪(船通山)であった。オロチを退治しクシイナダヒメを手に入れたスサノオは出雲国を巡り歩いて須賀の地に宮を建てる。その時、スサノオは日本最初の歌を作った。「八雲立つ出雲八重垣 (つま)()みに八重垣作るその八重垣を」。そして、次ぎなる主人公がオオクニヌシで、地上世界、出雲を舞台に立派な国を作り挙げた後、稲佐の浜でアマテラスの孫ニニギにこの国を譲ったのである。

14日 国引き神話

出雲国風土記を読んだことがある。風土記は元明天皇が和銅6年、713年に全国60余の国に郡郷の地名の由来、産物などを記した地誌の作成を命じたものである。出雲国の風土記の冒頭に意宇(おう)郡の有名な国引き神話が記載されている。ヤツカミズオミツヌが「出雲国は(わか)く小さな国だ。綱で縫い足そう」と、朝鮮半島の新羅の三崎に国余りはないかと探し乙女の胸のような幅の広い(すき)を大魚のエラを衝くように土地に突き刺して切り離し、3本を()った綱をかけ、「もそろもそろに国来(くにこ)国来(くにこ)」と引っ張ってきたのが杵築(きづき)の岬(日御碕)とされている。

15日

同様にして、北陸などから()()、松江、美保関を引き寄せた。美保関を引き寄せた綱が()(みが)(はま)(弓ヶ浜)、綱を括りつけた杭が(ひの)(かみ)(たけ)(大山)である。

16日

まあ、大らかに歌いあげたような壮大な神話で微笑ましい。民族のロマンであろう。この話は「古事記」には登場しない。風土記に登場する神々のイメージは古事記と異なる。オオクニヌシは「天の下造らしし大神」と呼ばれ出雲全土に亘り伝承が記されている。

17日

国譲りに関しても異なる。出雲東部の長江山で「葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は譲るが、出雲は譲らない」とオオクニヌシは宣言している。スサノオも、八岐大蛇退治のような勇壮な物語は全く記載がない。土地の神として登場するのみである。

18日 風土記の「出雲四大神」  1.   佐太神社 三殿並立

祭神正殿は

佐太御子大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男之命、

北殿は 天照大神・瓊々杵尊、

南殿は 素盞嗚尊・秘説四座。 
2.   出雲大社 祭神 オオクニヌシ
3.   熊野大社 祭神 熊野大神櫛御気野命

私は、紀伊の熊野大社より先にこの出雲の熊野大社があったと睨んでいるのだが・・・・。 

伊邪那伎(いざなぎの)()()名子(なこ)」とは、国生みを始め生きとし生けるものを生かし、その主宰の神をもお生みになったイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子の意。「加夫呂伎(かぶろぎ)」とは神聖なる祖なる神様。
熊野(くまのの)大神(おおかみ)(くし)御気(みけ)()(みこと)」とは、この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意ですが、この御神名は素戔嗚(すさのおの)(みこと)の別神名である。

ご神名は神格の本質を表すからご祭神の本質は人々が食べて生くべき食物に霊威をみちびき、農耕生産の豊穣を約束して、人々の営む万般の生業の発展を保障し人の世の繁栄と平和、人々の幸福をみちびかれる深厚高大な霊威の発顕具現する意。スサノオノミコトは、出雲の()の河上で()(またの)大蛇(おろち)を退治された神話に見られる如く、人間社会を洪水の災害から救い、稲田の豊穣、人の世を和楽に導かれた。
スサノオノミコトは不思議な霊威をあらわして成りと成り出づるものが豊富であるようにと世の人々を
導かれた。これは、人間社会につきまとう人間であるが為逃れられない不安と苦悩を取除いて、人間の営む社会生活の繁栄と平和をもたらされたということを意味する。
●スサノオノミコトは人間の幸福を約束される愛の神
●スサノオノミコトは人間の願望期待に応えられる救いの神
●スサノオノミコトは身を犠牲にして他を救われる愛の神
●スサノオノミコトは人の世の幸栄のムスビの神

スサノオノミコトに見守られています限り、人の世は立ち栄える。熊野大神の御神縁に結ばれる人々は、その御手振りに神習いまして、御神光があまねき世に輝きわたるように神意奉行を尽くす事。 

4.野城(のぎの)大神(おおかみ) 御祭神、天照大神の第二子(あめの)()(ひの)(みこと)。 天穂日命は国土奉還の使者として高天原より大国主大神のもとにまいり、大きなご功績を挙げられて、大神のご祭主としてお仕えされた神様、出雲国造家の御祖神である。

例祭十月十九日に、出雲国造の御孫千家宮が親しく参拝、御祖神の御神威を奉載される。神社の創建は、遠く神代にさかのぼり七三三年に撰上された「出雲国風土記」には「野城社」とあり、九六七年に制定された「延喜式」の神明帳には「野城(のぎの)神社(かみやしろ)」と記載される古社。

出雲の国人達は四大大神、つまり出雲大神熊野大神佐太大神とならんで能義大神とその御神名を称え、尊崇する。朝廷の尊崇も殊に篤く、「六国史」には数度にわたって神階を授けられた記事あり。

 又、社殿も古雅広壮であったと伝えられてるが、永禄六年(1569)天災で焼失、慶長十八年(1613)堀尾氏の御造営以来十一回の御遷宮を経て今日に及ぶ大社造りの古社である。  能義神社立札より 

19日 スサノオ

このよう調べてくると、スサノオが神々の、或は日本の国土開発の源泉の神様と見えてくる。事実、スサノオノ神子であるニギハヤヒは、オオモノヌシの別名があるが、大和は日本最古の神社・三輪神社の祭神となっている。オオモノヌシ、即ちニギハヤヒはスサノオの御子であるが、このような神名がある、驚きである。(あま)(てる)(くに)照彦(てるひこ)天火明櫛玉饒速(あめのほあかりくしたまにぎはや)(ひの)(みこと) 凄い。ニギハヤヒにも別名が多いが、中でも日本(やまと)大国(おおくに)(たま)がある。この方が真のアマテラスと言われる所以である。

だが、その父親のスサノオがまた驚きなのである。

スサノオの神名は神祖(かむろぎ)熊野(くまの)大神(おおかみ)(くし)御気(みけ)()(みこと) 神の祖なのである。

スサノオはその他、八大竜王、天王もある。天の王なのである。 

余談となったが、何れにしろ、アマテラス系とスサノオ系は、互いの子孫が結婚して、オオクニヌシも現れるがニニギノミコトを経由して神武天皇となり両系列が一体化して天皇家が始まったと見てよいのではなかろうか。

20日 古事記から古代を追想

天武天皇=大海人皇子の壬申の乱は672年である。天武天皇は兄の天智天皇=中大兄皇子の皇子・大友皇子と争って勝ち天皇に即位する。

当時、日本は百済を応援の為に朝鮮半島に出兵して敗北(白村江の戦、663)し戦後処理が急務であり日本は将に内憂外患であった。

天武天皇は、天皇の権威を回復し、東アジアでの日本の地位確立は必須であった。為に、歴史書が必要になったと思われる。

21日-30日

天皇が日本を統治する由来を説いた古事記

最初に@イザナギ・イザナミ物語→A高天原の物語→B出雲の物語→C日向高千穂の物語→そして、DE天皇の事跡
@上巻「イザナギ・イザナミ物語」
  天と地が現れる。男神イザナギ、女神イザナミの  「国生み」と「神生み」。死したイザナミを黄泉  国へ訪ねるイザナギの話。妻の死体を見て逃げ帰  ったイザナギが川で穢れを祓った際に誕生したの  がアマテラスとスサノオである。
A上巻「高天原物語」
    高天原を治めるアマテラスのもとへ、亡母のいる  根の堅州国へ行きたいとスサノオは暇乞いに訪れ  る。ここで乱暴狼藉を働いたスサノオを恐れたア  マテラスの「(あめ)石屋(いわや  )(ごも)り」。スサノオは下界=出  雲へ追放される。
B上巻「出雲物語」 
    スサノオの八岐大蛇退治。その子孫であるオオク  ニヌシの物語。
C上巻「日向高千穂物語」
    アマテラスの孫ニニギノミコトが日向の高千穂の   峰に降り下る。ニニギノミコトはコノハナサク   ヤヒメと結婚、生まれた兄弟を主人公に「海幸   山幸」物語を展開。ニニギノミコトの曾孫にあ   たるカムヤマトイワレヒコ=神武天皇となる。
D中巻
   神武天皇の東征から始まる。高千穂を出て東へ進軍  して神武天皇は大和の橿原に到着し天下を治めた  。この後、第二代?靖天皇から第十五代応神天皇  までの系譜とエピソードを収める。第十二代景行  天皇の皇子ヤマトタケルの征西東征の物語は著名  。  
E下巻
    第十六代仁徳天皇から第三十三代推古天皇までの  事蹟。民の竈に煙が上っていないのを見て徴税を  中止したり女性好きであったり天皇を人間らしく  描写。
古事記1300年祭は、来年の伊勢神宮遷宮、出雲大社遷宮は、アイデンティティを失いつつある現今日本を再確認する上で絶好の機会であろう。  完