安岡正篤先 「経世と人間学」 4 

平成21年4月度

 4月1日 歴史に見る 庚戌の年 年頭にあたって本年の干支をこのように考えますと、大変参考になる意義と反省の資料を与えてくれます。これを歴史の実際に徴しても興味深いものがあります。元来干支というものは古代人が、殊に東洋では専ら農耕中心の時代ですから、一年中の農業生産計画をたててそれに基づいて諸般 の行政を進めて行く、その年間の生産計画とこれに関する行政計画、即ち暦の基準になるものでありまして、単なる観念的抽象的な問題ではありません。多年にわたる経験から実際に把握した指針でありますから、歴史的実証的な教訓或は哲学ということにもなりましょう。そこに大変興味深いものがあるわけであります。 
 4月2日 過去の庚戌 そこで本年から、六十年前の庚戌の年はどうであったかを調べますと、丁度明治四十三年にあたりますが、この年に多年懸案の内外の問題を戌削いたしました。政治の面について申しますと、その頃は政友会と非政友会にわかれ、特に野党の方に派閥が乱立して、 政治的に弊害を招いておりました。―その中心人物が犬養毅や島田三郎・河野広中らといった中々の豪の者ばかりでありまして、明治四十三年即ち庚戌の春に断然これらの諸豪が集まって派閥解消をやり、野党の一本化をはかったという年であります。
 4月3日 歴史的改革の年 また造反思想、造反運動が盛んとなり、社会主義・共産主義の思想や革命運動が活発化するに及んで、政府は断 固たる決意をもってこれに臨み、幸徳秋水を始めこれらの思想家・運動家を一網打尽にした年であります。
 4月4日 革新的に勇敢に

なお対外的には多年の懸案であった韓国問題に断を下して、日韓併合に踏み切りました。経済面においても、一番顕著な問題は国債の問題でありまして、この国債の引き受けを十六の銀行が一致団結して実施しております。また歴史的にも後世に残っております改革はこの庚戌の年に行われております。これらは本年の大きな参考となりましょう。

遠くは源頼朝が弟義経を倒して、鎌倉幕府建設の地固めに堂々と都入りした建久元年、また白河楽翁が行いました寛政二年の改革、或は八代将軍吉宗の享保の改革らはこの庚戌の年にあたるため、本年は革新的に着々と勇敢に実施しなければならないということを教えております。
 4月5日 干支に興味 佐藤総理も毎年の干支に大変興味をもつておられるようであります。財界でも野村證券の奥村綱雄さんらは非常に熱心でありまして、年頭には必ず一席社員に講ずることを慣わしとしておられるようであります。 人間というものは、何かきっかけを掴みませんと、漠然と過しやすく、慣習的因習的になってしまって、愚図愚図しておる間にこんなことになったということになり易い。事業家は特にこの点を戒めなければなりません。
 4月6日

何か手がかりがありますと、物事を具体的に進めていく上に便利であり、好都合であります。こういう意味で、年・月・日・時間の干支に注意することは大変参考となるものです。

そしてこの干支は六十回目に回ってくることに深い意味がありまして、我々の年齢で申しますと、六十という年、即ち還暦を迎えますと、どんな健康な人でも、どんな心掛けのよい人でも、肉体的に問題が起こります。 
 4月7日 思い切って処理 これを思い切って処理しないと、不老長寿は望み得ません。月で申しますと六十ヶ月ですから、五年であります。五年が経過するとやはり停滞して腐敗も伴いがちですから、人間はやはり五年に一度位は自分の生 活を反省して革新する必要があります。
また日で言いますと、六十日は即ち二ヶ月でありますから、日常生活や仕事においても、思い切って処理する必要があります。
 
 4月8日 干支の関係

私なども、全国からくる手紙や書類だけでも二ヶ月も処理しないと始末におえなくなる現状であります。日常生活において絶えず更新と処理をしていく上に干支のあることは大変参考となることであります。時間については前にお話し致しましたので

省略しますが一日二十四時間を子の刻から亥の刻まで二時間ずつ干支で区切ってあります。生理生活というものは最も大事な根本的な仕事の一つでありますから内臓諸器官の活動と時間の干支の関係を認識して活用されますと大変有益であります。
 4月9日 佐藤一斎 さて新年恒例の干支の話を以上で終りまして、本日のテキストにはいります。
先般当社が上梓されました「偉大なる対話」は、幕末名君の一人と云われた上州安中の殿様・板倉綽山(いたくらしゃくざん)と、幕府の大学総長・林述斉(はやしじゅつさい)との往復文書でありますが、この林述斉に仕え、やがてその後継者として大学総長に就任した佐藤一斎が幕府の大学即ち湯島の聖堂管理しておりました時が、
川三百年間のうちで一番教学の栄えた時と申して宜しいと思います。
一斎、名坦。通称、捨蔵。美濃岩村藩の家老の倅であります。岩村藩は幕府親藩の一つ松平家の所領でありまして、述斎はこの松平家の御曹司に生まれ、実に英邁な見識と学才に富んだ人傑であります。一斎はその述斎の学友にあげられ、一緒に勉強して成長し、終生形影相随うような関係になったのであります。
4月10日

昌平黌(しょうへいこう)

年輩から申しましても本当に学友たるにふさわしい間柄でありました。当時幕府の教学は朱子学でありまして、林家がその学職を司っておったのでありますが、たまたま適当な後継者がなかったので、

松平定信がこの松平家の御曹司に目をつけ、幕命で林家を継がせまして、林述斎となったのであります。述斎が役職を辞して隠居するにあたり、一斎が推薦せられて昌平黌(しょうへいこう)を主宰しました。
4月11日 太っ腹の一斎 佐藤一斎と申しますと、大変固苦しい学者、口やかましい人を想像するのでありますが、なかなか太っ腹の、スケールの大きな練達の士であります。多くの人材を包容し、これをよく取りたてた大教育家であります。 世間では(よう)(しゅ)(いん)(おう)、即ちうわべは朱子学で、かげでは陽明学だと悪口を言う者もありますが、そのような学派的対立は全くありませんでした。またそのようそのようなことにこだわる人ではありません。
4月12日 遊離した学者・僧侶 元来派閥等をつくっていがみ合うということは、人間のけちな証拠であって、とかく学者というものは象牙の塔にこもって、世間から遊離した生活が出来るものですから、窮屈な人間が多いようです。 技術者・専門家にもこの傾向があるのは、自分の技術や、専門的知識の中にとじこもって処世ができるものですから、人間として固苦しく、けちになりがちであります。僧侶・神官等にも同様の傾向があります。
4月13日 述斎・一斎門下 こういう悪い癖を去って、自由闊達になるということは、勿論天凛もありますけれども、やはり見識・修養がなければなりません。その点から申しましても,述斎・一斎両先生は実に偉い人であります。従って、一斎先生の門には多くの人材が輩出いたしております。 本日のテキストにあります山田方谷もその一人でありまして、この人は備中松山・板倉藩の家老であります。大変英邁な人で、恐らく大藩に出生していたならば、幕末維新に大功を立てたと思われます。
4月14日

(やま)田方(だほう)(こく)

人間の運命というものは計り得ませんから、或は幕末動乱の犠牲になったかも知れませんが、僅か五万石位の備中山間の小藩の家老であったので、大変な器量人でありながら、

おもてに立たないで終わっています。然し藩公は山田方谷の補佐を得て大いに治績をあげ、幕府の勘定奉行から老中という要職についております。
4月15日 備中(びっちゅう)板倉藩

備中の板倉藩と申しますと、貧乏板倉という評判をとった疲弊した藩でありましたが、これを完全に立て直して、財政経済ばかりでなく、士風まで一新いたしまして、旅人が一歩板倉藩領にはいいるとすぐわかった、という位成績をあげた人であります。

この山田方谷に傾倒した人物に越後長岡の河井継之助があります。この人は作家の芝遼太郎氏が「峠」という小説に書きましたので、よく知られるようになりました。号を蒼龍窟(そうりゅうくつ)といって不軌奔放(ふきほんぽう)の英雄であります。文字通り誰にも屈しなかった人ですが、山田方谷には傾倒しております。
4月16日 佐久間象山

方谷が佐藤一斎の門にはいりましたのは三十歳のときで、それよりも三十三歳の年まで従学しております。人物学問が立派であったので、師の一斎が塾頭に望んだのでありますが断って田舎の板倉藩に帰って藩士の教育にあたりました。方谷と同時期に一斎の門には佐久間象山がおりましてこの二人が当時一斎門下における双

璧でありましたが、二人が寄ると議論となり、熱論・激論が夜を徹して行われるので、他の塾生が弱って、師の一斎のもとへ訴えて出ましたところ、一斎はしばらく考えた末、山田と佐久間なら放っておけとなだめて、とりあげなかったという逸話がありまして、これは一斎もそるもの、あの二人の議論ならお前達にも参考になるだろうと思われたのでしょう。面白い話であります。
4月17日 言志録 こういう人でありますから、天下の大名や、各藩の志ある武士が一斎の門に続々あつまりました。

そしてこれらの武士を広範囲にわたって教育し、とりたてたものですから、一斎の名声は非常に高く、誰知らぬ者がないというほど有名になりました。

一斎の著した言志録は、年代順に、
(げん)志録(しろく)(げん)志後録(しこうろく)(げん)()晩録(ばんろく)言志耋録(げんしてつろく)と四つありまして、おそらく教養ある人が最も多く読んでいる書物のひとつと申してよいと思います。その言志録の中で、佐藤一斎は「理財」について多くの名言を残しております。これは当時既に各藩の財政が苦しかったので、財政を担当する人々を指導する目的で書かれたものであります。その中から特に啓発される三節を選んで本年頭初のテキストにいたしました。
4月18日

理財

財を(おさ)むるには(まさ)(なん)(そう)()くべきか。余謂(よい)ふ、財は才なり。(まさ)才人(さいじん)駆使(くし)する如く(しか)すべし。事を弁ずるは才に在り。()を取るも(また)才に在り。慎まざるべけんや」。(佐藤一斎・言志後録)。財という字には「たから」という意味の外に、才能の才と同じ意味があります。また裁縫の裁の字、即ちたつ(○○)という意味にもつかいます。

自分は、こう考えておる。財は才だ。だから財貨をうまく運用処理するのは、ちょうど才人を駆使するようにしなければならない。

仕事を処理するのは才能であるけれども、その才能によって災を招くことがある。

つまり財をおさめるのは、才と同じことであって、これをうまくやれば人生に益するけれども、下手につかうと災を招くから注意しなければならない。
4月19日 小人と君子 東洋の人間観の一つに才と徳とをくらべて、小人と君子を判別いたします。元来、徳とは、その人間の備えている能力であります。才は徳をまってはじめて効用を発揮する属性的な要素でありますから、大事なものではあるが、時には有害でもあります。従って、才と徳の両方が相まって完全に発達した人は偉人であります。こういう人は滅多にありません。 兎に角、徳が才に勝っている人を君子、これに反して才が徳に勝っているタイプの人を小人として区別しております。勿論、これは比較の問題ですから、徳も才も共に小さくてけちではあるが、徳の才に勝った小さな君子もあれば、反対に偉大な徳と才の所有者でも、才が徳に勝っておる偉大なる小人もおるわけであります。
4月20日 才と徳と事業

この君子・小人の論というものは、東洋の倫理学・人物学上誠に興味深い大きな問題であります。熊沢蕃山などは、政治・経済・事業には特に才を必要とする、才が無ければこれらの一切が行われない。それだけに、才を用いるには警戒と訓練が必要である。と云って一種の見識をもって人を用いわけております。

従って、政治家とか事業家にはこの才人をどれだけ使いこなせるかによって、その成敗がかかっておるわけであります。金も同様であって、これがなければ事業の経営も生活もできませんが、この金をどう使うかが問題であります。人間ができないと金は使えません。危険が伴ないます。こういうことを佐藤一斎は考えていたようであります。
4月21日 愛惜(あいせき)は不可なり

財は天下公共の物なり。其れ自ら(わたくし)するを()べけんや。(もっと)(まさ)に之を敬重(けいちょう)すべし。濫費(らんぴ)する(なか)れ。嗇用(しょくよう)する勿れ。之を愛重(あいちょう)するは可なり。之を愛惜(あいせき)するは不可なり」。

(佐藤一斎・言志後録)

金は天下のまわりものという俗な諺がありますが、このことわざの通り、財は天下公共のものであります。大抵の人は皆財は私有物と考えておるようですが、これは誤りである。特に現代は国内ばかりでなく、国際関係が発達したため、財というものは国際経済の流通物となり、公共性・流通性に富み、これを退蔵することを許されなくなりました。つまり使うために金はあると云う観念であります。然し、これが大変難しい。財を尊重して大事にしなければなりません。と言って濫費するのはよくないが、私心私欲で使いおしみをしてはいけない。金は大事にするのは宜しいが、天下公共のものを退蔵することはいけません。
4月22日 信用と金 「財を(めぐ)らすに道あり。人を欺かざるに在り。人を欺かざるは自ら欺かざるに在り。信を人に取れば則ち財足らざるなし」。
 (
佐藤一斎・言志後録)
財を運用するのに方法がある。あの人は真面目な人で、他人を騙さないから信用できる。というふうに世間から信用されると財はいくらでも流通しますから金が不足だということはありません。金が足らないということは信が足りないからです。だから理財の道は先ず信用からであります。
4月23日 理財論その一 「理財の密なる、今日より密なるは無し。(しこう)して邦家(ほうか)の窮せる、今日より窮せるしなし?(けん)()の税、山海(さんかい)の入り、関市(せきいち)舟車(ふねくるま)畜産の利は毫絲(ごうし)も必ず増す。吏士(りし)(ほう)(こう)()の俸、 祭祀(さいし)賓客(ひんきゃく)輿()()の費は、錙銖(ししゅ)も必ず減ず。理財の密なる()の如し。且つ之を行ふこと数十年、而も法家の窮は益々救うべからず。府庫洞然として積債山の如し。(あに)に其の()未だ足らざるか。其の術未だ(たくみ)ならざるか。
4月24日 理財論その二 抑々(そもそも)所謂(いわゆる)密なるが(なお)()なるや。皆非なり。()れ善く天下の事を制する者は、事の外に立って、事の内に屈せず。しかるに今の財を(おさ)むる者は、(ことごと)く財の内に屈す。(けだ)し、(しょう)(へい)(すで)に久しく、(よん)(きょう)(おそれ)無し。(れつ)(こう)諸臣(しょしん)、坐して其の(あん)()け、而して財用(ざいよう)一途(いっと)、独り目下の(かん)()る。 (これ)を以て上下の心、(いつ)(これ)(あつ)まる。日夜(にちや)営々(えいえい)、其の患を救はんことを(はか)って、而して其の他を知ること()し。
人心日に(じゃ)にして、而して(ただ)(あた)はざるなり。
風俗日に薄くして、而して(あつ)うする(あた)はざるなり。
官吏日に汚れ、民物日に(つか)れて、而して検する能はざるなり。
4月25日 理財論その三 文教(ぶんきょう)日に(すた)れ、武備(ぶび)日に(ゆる)みて、而して之を興し之を張る(あた)はざるなり。挙げて(これ)れを問ふ者有れば、(すなわ)ち曰く、財用足らず、(なん) 暇あってか(これ)に及ばんと。
嗚呼(ああ)、此の数者(すうしゃ)は経国の大法にして、而も()いて修めず、綱紀(こうき)(これ)に於てか乱れ、政令是に於てか(すた)る。
4月26日 理財論その四

財用の途、亦将に何に由ってか通ぜんとす。然り而して錙銖(ししゅ)毫絲(ごうし)の末を(かく)(けい)増減す。(あに)財の内に屈する者に非ずや。
何ぞ其の理の愈々密にして、而して其の(きゅう)の愈々救ふべからさざるを怪しまんや。一个(いっこ)の士、粛然(しゅくぜん)赤貧(せきひん)(しつ)懸磬(けんけい)の如し。甑中(そうちゅう)(じん)を生ず。而も(だつ)(ぜん)高視(こうし)、別に立つ所あり。而して富貴(ふうき)も従って至る。財の外に立つ者なり。匹夫(ひっぷ)匹婦(ひっぷ)

(ねが)ふ所、敷金に過ぎず。而も終歳(しゅうさい)齷齪(あくさく)之を求めて得ず、飢餓困(きがこん)(とん)(そつ)に以て死すに至る。財の内に屈する者なり。甑中(そうちゅう)(じん)を生ず。而も(だつ)(ぜん)高視(こうし)、別に立つ所あり。而して富貴(ふうき)も従って至る。財の外に立つ者なり。匹夫(ひっぷ)匹婦(ひっぷ)(ねが)ふ所、敷金に過ぎず。而も終歳(しゅうさい)齷齪(あくさく)、之を求めて得ず、飢餓困(きがこん)(とん)(そつ)に以て死すに至る。財の内に屈する者なり。
4月27日 理財論その五

今堂々たる侯国、富・邦土を有す。而も其の為す所は、一个(いっこ)の士の及ばず、匹夫匹婦と其の愚陋(ぐろう)を同じうす。亦大に哀しむべからずや。三代の()は論無きの

み、菅商富強(かんしょうふきょう)の術に至っては、聖人の徒の言ふを恥ずる所、然れども菅子(かんし)の斎に於ける、礼儀を包んで、廉恥(れんち)を重んず。 

4月28日 理財論その五 (しょう)(くん)(しん)に於ける、約信(やくしん)を固くして(けい)(しょう)を厳にす。此れ皆別に立つ所有り。而して未だ必ずしも財利に区々たらざるなり。 唯だ後世(こう)()()瑣屑煩可(さくずはんか)、唯だ財をこれ努め、而も上下(とも)に困しみ、衰亡之に従ふ。
4月29日 理財論その六 此れ亦古今得失(ここんとくしつ)(あと)昭々(しょうしょう)たる者なり。今明主賢相(めいしゅけんそう)誠に能く此に省み、一日超然として財利の外に卓立(たくりつ)し、出入(えい)(しゅく)、之を一二の有司(ゆうじ)に委ね、特に其の大数を会するに過ぎず。(すなわ)ち義理を明かにして以て人心を正し、浮華(ふか)をを()って風俗を(あつ)うし、貧賂(ひんろ)を禁じて以て官吏を清くし、撫字(ぶじ)を努めて以て民物を()らし、古道を(たっと)んで以て文教を興し、士気を奮って武備を張れば、綱紀(こうき)(ここ)に於てか整ひ、政令是(せいれいここ)に於てか明かに、 経国大法(けいこくだいほう)(おさ)まらざるなし。而して財用の(みち)亦従って通ぜん。英明特達(えいめいとくたつ)の人に非ざるよりは、其れ(たれ)か能く之を誠にせん。貧賂(ひんろ)を禁じて以て官吏を清くし、撫字(ぶじ)を努めて以て民物を()らし、古道を(たっと)んで以て文教を興し、士気を奮って武備を張れば、綱紀(こうき)(ここ)に於てか整ひ、政令是(せいれいここ)に於てか明かに、経国大法(けいこくだいほう)(おさ)まらざるなし。而して財用の(みち)亦従って通ぜん。英明特達(えいめいとくたつ)の人に非ざるよりは、其れ(たれ)か能く之を誠にせん。
4月30日 名論 これは山田方谷が三十歳頃に書いた名論であります。この理財論は単なる議論ではなく、板倉藩が非常に貧乏で、もうどうにも手がつけられないほど疲労しておったのを徹底的に改革し、特に財政を豊かにして生産をあげ、 風俗を正しましたので旅人が一たび板倉藩にはいるとすぐわかったという位治績をあげました。
従って、この理財論は単なる政治家や経済学者の論と違って、その人の実力が証した名論であり、権威のある議論であります。