第六講 神功皇后伝説の謎解き その十一
                    百済と日本の通交
平成24年4月

1日 百済と日本の通交

第四世紀の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国が互いに統一へ邁進することなく、抗争と分裂とを続けていました。このような半島の情勢に対して、朝鮮半島の南端の地を大陸との通交の足場としていた倭人(日本人)の勢力は、常にこれら三国の動静に左右され、それに対処しなければならなかったのです。この間の詳しい事情については、不幸にして今日我々は完全な史料を得ることはできない状況にあります。

2日 そこで不確実ながらも、日本側の史料を批判的に処理することによって多少とも役立つように検討を重ね、その中から史実の発見に努めることが唯一の文献的手段となるのですが、その観点から重要になってくるのが「日本書紀」の「神功紀」所引の「百済記」などの渉外関係の逸文になるのです。

逸文中、卓淳国というのは、今日の大邱」付近に存在した国と比定されていますが、弁韓12国の中の一つでした。百済が卓淳国に使者を派遣して、日本国との通交の仲介を要請したのです。それが364年のことだとすると、346年に建国した百済にとっては建国後僅かに18年後のことになり、事実に合います。
そして、卓淳国は、この百済の要求に従って、日本の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と日本との正式交渉の端緒を作ったらしいのです。

3日 百済・新羅の建国より150年早い朝鮮進出

その結果、百済は自国よりも10年遅れて建国したとされている新羅に対抗する為、日本を味方にして、その力を利用して新羅に対抗する有利な状況を作り上げようと企んだのでした。367年には、日本に使者を派遣して朝鮮における新羅の強大化を物語り、新羅が信頼できない所以を力説して、日本の歓心をかい、百済と結んで自国を援助することを要請したものと思われます。

4日 百済や新羅の建国より日本が朝鮮南部に進出していたのはより古い時代から

これに対して日本は、朝貢してきた百済に対し、新羅より以上に厚意を示す結果となり、2年後の369年に出兵して新羅を平定しも新羅によって奪われた弁韓の領土を回復しているのです。ここで明らかなことは、百済や新羅の建国よりも、日本が朝鮮南部に進出していたのはより古い時代からであったことをはっきりと認識しておく必要があります。日本が伽耶地方を足がかりとしてきた歴史は、百済や新羅の建国よりも150年以上も古くからのことでした。

5日 女王卑弥呼と神功皇后

「日本書紀」の編者もこの間の史実とその実年代については、はっきりと知っていたと思われるのに、編者たちが敢えてこれらの渉外関係事項を、干支二運120年繰り上げて、百済や新羅という国が建てられてもいない第三世紀中葉の年代に当てはめるという矛盾を平然とおかしたのは、女王卑弥呼を神功皇后に故意に比定し絶対年代を無視してまでも、「日本書紀」の記述が中国正史としての「三国志」(魏志倭人伝を含む歴史書)の記述とも合致しているということを示そうとしたのにほかならないのです。

6日

八岐大蛇
出雲神話で、簸川の上流という大蛇。頭尾は各々八つに分かれる。スサノオノミコトがこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて(あまの)(むら)(くもの)(つるぎ)を得たと伝える。

正史

正統の歴史。国家が編纂した正式の歴史書。特に紀伝体による中国の歴史書。

第七講 三韓交渉物語の謎解き
7日 神功皇后時代の三韓との渉外関係の伝承  三韓交渉の起点
神功皇后が三韓との交渉をもったという伝承をどう解釈するかということが、古代史における一つの問題点になっています。
8日 原大和国家は滅亡

その点に関連して、私は自説で崇神天皇(初代を崇神天皇とする王朝で三王朝交代説における最初の王朝。第四講参照)と名づけた原大和国家が、その三代目に当る仲哀天皇の時に九州遠征を行って敗れ、原大和国家は九州の()()(こく)によって滅ぼされたと考えています。この仲哀天皇の皇后が神功皇后ですから、このように原大和国家が滅ぼされたとする立場に立てば、いわば三韓交渉の前提である神功皇后の統治権そのものが否定されることになり、三韓交渉は成り立たないことになります。しかし、それでは私が考えるように本当に三韓交渉はただの作り話なのでしょうか。また、そこから史実は何も見えてこないのでしょうか。

9日 その事を検証していきましょう。

三韓交渉の物語の起点は、九州遠征中の仲哀天皇の死にあります。この仲哀天皇の死を巡っては「記紀」ともに幾つかの理由を挙げています。主たる説明では、天皇が神の意に逆らったので、その神罰を受けなくてはならなかったのだとされています。その神様は何かというと、海の彼方にある新羅という国が熊襲(()()(こく))の後で糸を操っているので、新羅を抑えられれば熊襲も自ら平らぐということでした。これは仲哀天皇の皇后である神功皇后に神がかりをして教えられたものです。然し、天皇が海のかなたを眺めた所、国など何も見えなかったので、それはつまらない神様の戯れ言だと云って聞き入れなかったのです。

10日 三韓交渉の真実

仲哀天皇が神を冒涜した罪で亡くなったので神功皇后は多大いに神意を恐れ神のお告げの如く自ら男装して天皇に代わって新羅への軍を起すというのが神功皇后の三韓交渉です。ちなみに、この三韓交渉は実際は三韓(高句麗・百済・新羅)の全てを抑えようとしたわけではなく新羅だけが目標なのであり正確には新羅交渉というべきものです。私は神意を冒涜したことによって仲哀天皇が亡くなったのは神功皇后の物語の出発点をなすために作られた伝承だと考えます。そして仲哀天皇は九州遠征中、敵の矢に当って戦死されたとうのが本来の形ではなかったかと思うのです。

11日 胎中天皇出生説話

仲哀天皇が九州遠征中の途中で亡くなりますが、神功皇后はそのとき既に懐妊中であったと言われています。そして王子は懐妊された時から、神意によって三韓の地を授けられていたとも説かれています。即ち神功皇后の腹の中にあった時から新羅との交渉をしろと言う神のお告げを受けていた王子であると説かれ、それ故に神功皇后の胎内にあるときからの天皇としての資質を持っていた。そこで胎中天皇という名前が与えられているのです。

12日

この王子を胎中に孕んだ皇后は、神託に背くことが出来ず、天皇の喪を秘して男に身を変えながら軍を指揮して新羅に渡ったというのです。然し、産み月になっていたので出陣中に出産すると困るということで、石を股間に差し挟んで、交渉が終わって帰り着くまで分娩しなかったとされています。これは一種の異常出生説話に該当するものです。偉大な英雄などについては、出生が人間並みの出生では偉くないんだ、だから出方が違うんだということを重ねて説明する例も多く、これは応神天皇に一種の始祖的な意味をもたされたた伝承が付け加えられているのだと考えることもできます。

13日

さて、神功皇后が軍船で渡ろうとすると、風神が風を起こし、海神は大波をあげて、海中の魚が悉く浮上して軍船を押し上げ、波浪が遠く新羅の国都まで押し寄せました。大洪水みたいなものになったわけです。そして船を漕いだりする労力を費やさず自然の力で新羅の都まで押し上げられてしまったという話になるのです。

14日

そこで新羅王がその様子を見て戦慄し「東に神国あり。日本という。またそこに、聖王があり。天皇という。きっとその国の神兵が押し寄せてきたのに違いない」と言って戦うことなく白旗を掲げて降伏したといいます。新羅が恐れをなして簡単に降伏してしまったという話を聞いて高句麗や百済も新羅の降伏と同時に交戦しても駄目だということを知って朝貢を申し出ます。ここに三韓が悉く皇后に服することになったのだという、取って付けたような話が出てくるわけです。そして神功皇后は筑紫の国の宇瀰(うみ)に還り、漸く応神天皇を産み落とされたということになっているのです。これが世にいうところの神功皇后の新羅交渉、三韓交渉の物語の概要です。どこまでこの物語が信用できるのでしょうか。

15日 「三国志」に見られる記述

先ず不思議に思われることは、遠征が極めて短期間の間に行われているということです。「日本書紀」によりますと、仲哀天皇の9年の10月3日に和珥津を出発して、同じ年の1214日には遠征を終えて筑紫に凱旋したことになっています。いかに天の助けがあったからと云って、70余日で三韓が平定できたということは事実としては全く考えがたいことです。

16日

確実性を疑われてはいますが、朝鮮の史書として「三国史記」というものがあり、その「新羅本記」「百済本記」の史料を見ても、神功皇后時代に当る部分に日本が侵入したという記述が少しも出ていないわけです。建国の始祖王の時代にかけて頻繁に倭人が辺境を侵したとか、倭人和を講じてきたとか、倭人が通交を求めてきた、とか言う記述が出ているのに、神功皇后の三韓交渉に該当するような記載は朝鮮側の史料に一切見当たらないのです。これは誠に不思議なことです。

17日

これ程の重大な遠征で、神意に沿って新羅はじめ三韓を平定し、服属させているのに、降伏した後の戦後処理がいかにも粗略です。先の朝鮮側史料を見ても「記紀」に見られるように新羅がその国土を神の国に譲るといった話もなく、ただ飼部となって仕えると言っただけだと言います。いやしくも、一国の王が戦いに負けたからと云って自ら相手の国に入って奉仕するなどと言ったりするものでしょうか。

また新羅王が「東に神の国あり。日本という。また聖王あり。天皇という」と言ったといいますが、「日本」という国号がその当時無かった事は第2講で述べた通りです。また「天皇」という称号も神功皇后や応神天皇の頃にはなかったのです。

従って、こういう言葉が出てくること自体、明らかに「日本」とか「天皇」とかいう言葉が成立した後の知識でもって作られたのであって、これが最初から存在したものではないということが明らかになります。

もっとも、これらの言葉は「日本書紀」の編纂者が文字だけ後世の言葉に翻訳して記したのだと善意に解釈することも出来るかもしれません。然し、それにしても、新羅王が国を滅ぼされんとする時に何の抵抗もせず、そのような殊勝な事を言ったというのも、また新羅王だけが神国日本の風聞を知っていたらしいことも、余りに不自然すぎると言えます。

こうなると、どうしても神功皇后の三韓交渉の物語は、こちらの都合によって勝手につくられた話だと解釈せざるを得ません。神功皇后の新羅交渉の物語は全部作られた、架空の物語だと私は判断するのです。 

18日

狗奴国  
弥生時代の倭の強国。邪馬台国の南にあって男王が支配し、女王をいただく北の邪馬台国と対立していた。 
熊襲
記紀伝説に見える九州南部の地名。またそこに居住した種族。 
高句麗
古代朝鮮の一国。紀元前後、ツングース族の扶余人朱蒙(東明王)の建国。中国東北地方の東南部から朝鮮北部にわたって四世紀広開土王の時に全盛。都は209年より丸都城。427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。 
三国史記
朝鮮最古の史書。50巻。1145年高麗の仁宗の命を奉じて金富軾らが撰。新羅・高句麗・百済の三国の事跡を紀伝体に記した。  

19日-29日

三韓交渉物語の背景




神功皇后は“万世一系”に欠かせぬ存在

三韓交渉物語はなぜつくられたか

では、わが国が一度も新羅の国を征服したことが無いのに、なぜ神功皇后が征服したという物語を作らねばならなかったのか。それを考えておく必要があるでしょう。

実際に日本の国が新羅に対して大規模な遠征軍を派遣して戦端を開いたのはずっと後の斉明天皇時代のことです。当時、朝鮮で優勢であった新羅が唐と連合して百済を攻略し百済は国を滅ぼされて日本に頼ってきたということが、「斉明天皇紀」に出てきます。日本はその要請を容れて斉明716日、天皇自ら征西の軍を率いて海路を筑紫に出発し、娜の大津にいたり、浅倉橘広庭宮を本陣として指揮をとり、新羅遠征軍を派遣します。

元来、その当時において、日本と新羅は常に敵対関係にあり、百済は逆に友好関係にあるというのが定石ですから、当然「斉明紀」でも新羅交渉という話になってくるのです。

処が、征西をされた斉明天皇がそこで崩じられてしまいました。代りに皇太子の中大兄が称制して、天皇の喪を伏せて新羅遠征軍を百済に送ります。人質として送ってきていた百済豊璋を百済に返して、滅亡した百済を救援すべく百済王として擁立したという話も出てきます。(天智天皇紀)

然し、その援助も空しく、天智天皇称制2827日に日本の水軍が唐・羅連合水軍と白村江に会戦して全滅させられてしまった(天智紀)、というのが「斉明紀」に見られる新羅交渉です。

この「斉明紀」の新羅交渉が、神功皇后の三韓交渉と非常に類似したストーリーを持っていることは歴然としています。相手が新羅であること、遠征中に天皇が崩御すること、代わりに皇太子・皇后が新羅に遠征すること、女性である天皇・皇后が戦いの指揮を取っていること、話の基本部分は一致していると言えます。違うのは、新羅遠征に成功するか失敗するかの違いです。

この類似は何ゆえのものか。単なる偶然ではないでしょう。私は、ここにも編纂時期の意識が過去因を求めたのだと考えます。

即ち、「斉明紀」の話は史実として認めることが出来るのですが、この史実が伝説史上の反映し、神功皇后の新羅交渉という形になって現れているわけです。

言い換えれば、斉明天皇がモデルとなって、過去においては神功皇后も同様のことを目論まれて成功したこともあるのだと言うことにして、神功皇后が伝説の上に作り出されたのだと考えます。 

神功皇后は“万世一系”に欠かせぬ存在
こう見てくると、やはり神功皇后の伝説は架空の物語であると断言してよいでしょう。そして、神功皇后の伝説が架空であるならば、その物語の主人公である神功皇后そのものも非実在の人物であるとせざるを得ないわけです。

また神功皇后は応神天皇、いわゆる胎中天皇の生母とされていいますが、その系統を溯って尋ねて行きますと、最初の日本の架空の天皇である神武天皇から開化天皇に至る九代の架空天皇に端を発する系統の皇后であることが分ります。

架空の天皇の系統の架空の皇后、これは何を意味するのでしょうか。

これは恐らく、一番古い時代の架空の天皇たちと崇神天皇の王朝とを結びつけ、それが応神天皇を生むということらよって、古い王朝とこの後に続く新しい仁徳王朝(三王朝交替説において崇神天皇の次にくる王朝。狗奴国の王・応神天皇が崇神天皇の崇神王朝を倒して樹立した王朝と考える)の始祖を結びつけ、さらに応神天皇の五世の孫が、一番後に現れる継体王朝(現天皇まで続いている継体天皇を始祖とする王朝)の始祖、継体天皇であると意味づけられるのではないか。

つまり、神功皇后の存在は、応神天皇を介して三王朝が統一される、いわゆる万世一系の思想のもとに生み出されてくる重要な役割を演じた、系譜上に成立せざるを得なかった皇后であると理解することも出来るのではないか。そういう処に、神功皇后の伝承が成立したと、私は解釈します。 

30日 註 皇室系図

1.神武天皇―2.綏靖天皇―3安寧天皇―4.懿徳天皇―5.孝昭天皇―6.孝安天皇―7.孝霊天皇―8.孝元天皇―9.開化天皇.―――10.崇神天皇――

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  武内宿弥    神功皇后

11垂仁天皇―12.景行天皇――――日本武尊

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         倭姫命   13.成務天皇

14仲哀天皇――15.応神天皇――16.仁徳天皇

17.履中天皇――磐坂市辺押羽皇子―23顕宗天皇

       |忍海飯豊青尊   |24.仁賢天皇―25武烈天皇 

18.反正天皇―19.允恭天皇

――木梨軽皇子

         |20.安康天皇

         |21.雄略天皇―22.清寧天皇

――応神天皇から仁徳天皇の間からの皇子――

26.継体天皇――27. 安閑天皇

      |28 宣化天皇

      |29.欽明天皇―30.敏達天皇-----------押坂彦人大兄皇子――34舒明天皇

              |茅渟王

--31用明天皇?聖徳太子

--33崇峻天皇――33.推古天皇---

―――3537皇極(斉明)天皇――38天智天皇

              | 間人皇女

              |40.天武天皇

36孝徳天皇――有間皇子

39弘文天皇(大友皇子)

 |41持統天皇

 |元明天皇

 |施貴皇子――49光仁天皇