1日 |
山陰側の動向 |
山陰側にも砂鉄の産地や精錬跡がありますが、それほど強大な製鉄業が継続的に存在したという考古学的な遺跡も研究も今までの処、少なく民俗学的な視点からも大蛇退治の神楽など出雲より山陽側の山村の方に分布しており、またその他、様々な知見事実を総合して考えると私は山陽側の方に製鉄文化の中心があったという結論に達せざるを得ないのです。
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2日 |
鉄の文化 |
吉備に一つの部族的な、地域政権的な勢力が存在したとすると、その権力を支えた一つの要因は「鉄の文化」であった、というのが私の一応の結論です。つまり、「鉄の文化」を追求していくならば、それは同時に吉備勢力の政治的・経済的な基盤を明らかにすることにもなるというのが私の見解です。恐らく今後、「鉄の文化」と吉備文化の関係について研究が進むならば、古代史における吉備の重要性は益々明確に認識されることでしょう。
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3日 |
一勢力を形勢する条件を備えていた吉備国 |
他文化、他勢力と一線を画すべき吉備文化、吉備勢力の存在は「鉄の文化」の追及から推測できるというだけではありません。古代の吉備地方が、日本列島内の重要な海上権を掌握できる位置にあったことも注目しておかなくてはなりません。瀬戸内航路の一つの基地となりえる自然地誌的性格をもっておりそのことは吉備を大きくする一つの原因となったであろうことは十分に考えられるのです。
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4日 |
十分な条件 |
「鉄の文化」と「瀬戸内航路の要衝の地」、この二つを重要な足がかりとし吉備国が古代なおいて一地域勢力を形成することは可能なことだったと言えます。言い換えれば、北九州あるいは大和という、古代の文化・政治・社会の中心となりえた地域に伍して、それらと対等に、吉備国は地方勢力を形成し、一首長国を出現させるに足る十分な条件を備えていたわけです。
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5日 |
文化の中心を形づくっていた吉備国 |
実際、吉備に一勢力があったことを裏付ける一つの証拠として、北九州の銅剣・銅鐸文化と大和の銅鐸文化とがこの地域で接触しているという事実があります。両文化が流れ込んでくる吉備地方は、それら二つの文化を複合する可能性を自然条件として持っているわけで゛すが、それが、考古学上も銅剣・銅鐸文化と銅鐸文化の“接触地帯”という形で認められるわけです。そして、両文化の一方ではなく、複合した文化をもつということは、一方に属さない主体的勢力の存在を示唆すると見ることもできます。以上のように、様々な角度から細かに検討していくならば、吉備国が文化的にも、社会的にも、また政治的にも、一つの地域的な文化の中心を形づくっていたであろうことは十分に立証できると思います。
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第17講 海上基地国・吉備の盛衰 |
吉備国と吉備氏族
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6日 |
古代からの重要な寄港地・児島 |
本講義では、「古事記」「日本書紀」という日本最古の文献を手がかりに吉備国の謎を解いていきましょう。先ずはじめに、神話部分である「神代記」の冒頭部分です。その中の伊邪那岐、伊邪那美(古事記の記述、日本書紀では伊奘諾、伊奘冉)という二柱の神の「国生み神話」に吉備の名がみえます。大八洲を生みなした両神が帰り道で生みなしたという六つの島がありますが、その筆頭に出てくるのが「吉備の児島(現児島半島)なのです。 |
7日 |
六島の意味は |
ここで考えなければならないのは、なぜ日本列島の数千に及ぶ大小の属島の中で、特にこの六島が挙げられているのか、ということです。その理由を探って行くと、それらの島々は次ぎの表に見るように、いずれも古代の航海と深い地点であることに気づきます。
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8日 |
六つの比定地と国生み神話 |
名称
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比定地
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吉備児島
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岡山県児島半島
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小豆島
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淡路島の西にある小豆島。
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大島
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山口県柳井の東にある大島
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女島
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大分県国東半島の東北の姫島
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知訶島
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長崎県五島列島
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両児島
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長崎県男女群島
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9日 |
国生み神話に出でいるわけ |
寄港地であるとか避難港であるとか、或は、後に遣唐使の船が出でいくときの航路上の要衝に当たる地点であるとか、みな古代航路上に存在する島ばかりです。それらの島が大和政権の勢力圏を確定する意味を持つ。基本的で重要な部分の「国生み神話」に出でいるわけです。
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10日 |
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そうであれば、吉備の児島が挙げられているのは、瀬戸内航路において、児島半島が古代から九州と難波の中間地点として、航海民にとって非常に重要な寄港地であり、大和政権もその地を重視していたと考えてさしつかえないでしょう。
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11日 |
注 国生み神話 |
「記紀」の国土創造神話。イザナギ・イザナミの夫婦神が天浮橋から矛を下ろし海水をかきまわしてつくったオノゴロ島に降り、そこで次々に大八州の島々と神々を出産した。 |
12日 |
瀬戸内航路の要衝・吉備 |
次に、神武天皇の東征伝説の中に「吉備の高島宮」が出てきます。場所は現岡山市・宮の浦の地であろうと比定されます。「古事記」によればこの宮に神武天皇が八年間も滞留されています。 |
13日 |
古代の瀬戸内航路 |
神武天皇の東征物語が史実かどうかという問題はともかく日向から難波へ航行して東征する神武天皇の経路は、”古代の瀬戸内航路“に沿って書かれたとみられます。阿岐の多け(理宮と吉備の高島宮が特に取り上げられ、夫々の地点で天皇が滞留し軍容を整えてから難波に行かれたと記されているのですが、その伝説の構成要素となった”古代の瀬戸内航路“がはっきりと私たちに認識できることは貴重です。古代航路に文献的な根拠を与えてくれるものと言わなければなりません。 |
14日 |
吉備氏族 |
吉備国は、国生み神話でも神武東征伝説でも航海と関連して出ているわけで、瀬戸内航路の要衝の地と認められます。そして、この吉備国を支配していた吉備氏族は古くから海上権を掌握していた為に大きな勢力を持っていた、と私は考えます。 |
15日 |
海の歴史から日本の歴史見直し |
海国日本などと言いながら、従来の日本史では余りにも陸上に目が向けられ、海上のことは殆ど触れられずにきていますが、それは大きな欠点であったと思います。私は常々、海の歴史から日本の歴史を見直すことが必要だと主張しています。四面環海の民族ですから、海をどう生活の上で活用していたかということが、実は日本の歴史の基本を決定していると言っても過言ではありません。それを無視して歴史を考えると、大きな誤りを犯すことになると考えます。 |
16日 |
瀬戸内海 |
古代に遡れば遡る程、航海が日本民族の歴史的な活動の基本要素になっていることが分ります。吉備国とか吉備氏族を考える場合にも、瀬戸内海というもの、また海上の交通というものを基盤において史実を考え、解決していくことが一番大切なことだと思います。 |
17日 |
「記紀」に見る吉備氏族
天皇の支配国としての吉備 |
吉備国が文献の上で、一つの社会的・政治的・文化的な勢力を持った地域として姿を現した時、その勢力の中心には吉備氏族がいました。つまり、一地方の豪族として“吉備臣一族”なる存在が史上に現れているのですが、この吉備氏族がどういう形で「古事記」「日本書紀」に出ているかを見ていきましょう。 |
18日 |
考霊天皇から出た
吉備氏 |
まず注目されるのは、考霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命との間に生まれたのが比古伊佐勢理毘古命(別名、大吉備津日子命)で、この命が吉備上道臣の祖とされていることです。これは吉備の豪族吉備氏が考霊天皇から出た皇別氏族であることを示しています。また、同じ、考霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命の妹の蝿伊呂杼という妃との間に生まれたのが若日子建吉備津日子命で、この命は吉備下道臣の祖と記されています。そうすると、これも系譜上の出自は皇別氏族です。 |
19日 |
針間は播磨 |
この二人の命は力を合わせ、考霊天皇の時に、「吉備国を服従させた」といいます。つまり、考霊天皇の皇子という資格を持つ吉備氏の二人の始祖神が、針間(播磨)の国から吉備国へ向かって「言向けた(平定し、併合した)」と述べているのです。 |
20日 |
吉備国 |
これは明らかに天皇家の征服によって吉備の基盤が開け、征服者である皇子たちがそれぞれ吉備国に土着して吉備上道臣・吉備下道臣となり、吉備国は初めから天皇の支配下の国として統治されていたのだ、という説明をしていると言えます。 |
21日 |
注
氏 |
血縁的原理に基づき同族集団。古代における支配階級の単位。族長的地位に立つ家族が、氏の首長として、直系・傍系の血族または非血縁のものをも含む氏人を統括している。 |
22日 |
倭建命と吉備国 |
崇神天皇の時代になると吉備津彦の話があります。いわゆる四道将軍の一人として吉備津彦が西のかたたの道(山陽道)の遠征を行ったことが「日本書紀」の「崇神紀」十年九月の条に出ていいます。この話は、吉備津彦が天皇家の先鋒となって、吉備から西の国々を武力で征服したということを述べています。 |
23日 |
倭建命は吉備氏族を母親 |
そして景行天皇の時代、吉備氏族は倭建命と関係して記述されています。「古事記」によれば、景行天皇と若建吉備日子の女の針間之伊那毘能大郎女との間に生まれたのが倭建命です。倭建命は吉備氏族を母親としているわけで蝦夷征伐の際は、吉備臣の祖、御?友耳建日子が命に従って東征し、軍師の役目を果しています。 |
24日 |
吉備津彦は倭建命 |
「日本書紀」では倭建命は「日本武尊」で、御すき友耳建日子は「吉備津彦」です。同一人物であることは疑いありませんが、吉備津彦は大いに活躍し、東国遠征後、日本武尊と分かれて越後国を平定したという話や、日本武尊が能褒野で崩じた時、そのことをいち早く都に通報したというように、その活躍がクローズアップされています。 |
25日 |
日本武尊の妃と瀬戸内地方 |
また日本武尊の妃に、吉備津彦の女である吉備穴戸武媛(古事記では、妹、大吉備建比売)という方があり、この妃は讃岐綾君の祖である武卵王と伊予別君の祖である十城別王を生んだと書かれています。 |
26日 |
吉備と伊予・讃岐 |
讃岐綾君、あるいは伊予別君という人たちが、吉備津彦の女と日本武尊の間に生まれた系統の氏族であるということは、吉備と伊予・讃岐の関係をさぐる手がかりになります。 |
27日 |
注
四道将軍 |
「日本書紀」の伝承上の四将軍。崇神天皇の時、オオヒコノミコトを北陸へ、タケヌナカワワケノミコトを東海へ、キビツヒコノミコトを西海(山陽)へ、タンバミチヌシノミコトを丹波(山陰)へ派遣し、地方を平定したという。 |
28日 |
注 越後 |
旧国名。いまの新潟県の大部分。 |
29日 |
能褒野
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三重県亀山市の町。日本武尊を埋葬した地と称し、能褒野三重県亀山市の町。日本武尊を埋葬した地と称し、能褒野神社がある。神社がある。 |
30日 |
伊予と讃岐 |
伊予 旧国名。いまの愛媛県。 讃岐 旧国名。いまの香川県。 |