徳永の「古事記」その1 

    「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」

これは、世界的歴史学者トインビーの言葉である。12歳から13歳くらい迄に、民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる」。日本人にとって、戦慄するような叡知の言葉である。日本人はアメリカの遅効麻薬のような占領政策の効き目を痛い程感じなくてはならぬ。

4月1日 これは、世界的歴史学者トインビーの言葉である。

「12歳から13歳くらい迄に、民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる」。日本人にとって、戦慄するような叡知の言葉である。日本人はアメリカの遅効麻薬のような占領政策の効き目を痛い程感じなくてはならぬ。

4月2日 来年は、伊勢神宮遷宮、出雲大社遷宮と重なる。この古代日本人の叡知である遷宮年を契機として日本の神話を学び直し真の「脱敗戦」を成し遂げ 「日本人の精神」復活を果たそうではないか。そこで、日本書紀は対外用の正史であり、本居宣長の言葉であるが、「古事記は古代日本人の心情を現す最上の書」なので本気で古事記に取り組み、改めて自己研鑽に努めたい。
4月3日 世界の常識では、神話や正史の記述は「真実」と看做されるという。聖書とかコーランなどの神話に書かれた事は、史実かどうかはさて置き、総て「真実」と見做されている。神話が事実を語っているかどうかは、どうでもよいことなのである。

欧米社会では、「聖書」に書かれたことは総て「真実」とされて、その上に社会が成立しているのである。真実である事は、事実より尊いのだ。古事記は、日本人にとり「真実」が書かれていると考えてよいのである。近代先進国家では、神話を丁寧に教えることが常識とされている。「真っ当な日本人」である為には最低限、自分の国の神話は知らなくてはならぬのである。

4月4日 東日本大地震の時、天皇、皇后両陛下が被災地をお見舞いされた。膝を詰めて、被災者に向き合われる真摯な両陛下に心を打たれぬ人はいなかったであろう。それは、恰も身内のお見舞いのようであった。 

どうであろう、菅直人などは、被災者から声を荒げられたし、他の政治家なども、所詮は他人の見舞いのようであり心の無いものであった。天皇は、被災者の国民に対して、さも身内のようであった。天皇は国民を「赤子(せきし)」と思われて日々祈っておられるのである。天皇は「百姓」、「国民」と書いても、「(おお)御宝(みたから)」とお読みになっておられる由である。

4月5日 民と一体の天皇

天皇は祭主であり、二千年以上、国民のために、日々祈り続けておられるのである。民と一体の天皇なのである。天皇は日本人の精神的支柱なのである。 古事記が誕生し今年で実に1300年である。登場する神々は実に野生的、高らかに愛し合う魅力的な神々である。まだボンヤリした輪郭の時代に、なぜこのような物語が誕生したのか。

4月6日 日本最古の神話の書
「古事記

太安万侶(おおのやすまろ)により古事記が撰録されたのが和銅5年、西暦712年、元明天皇の時である。今年で1300年となる。近世では本居宣長が古事記の価値を大いに高めた。最古の書、古事記は、神話として、或は歴史書として、また読む度に新たな魅力が発見される。日本書紀は元正天皇、養老4年、西暦720年撰上された。古事記より8年後である。

4月7日

古事記は概略下記の構成である。
(うわ)(まき) 
@高天原の別天神と七代神々、イザナギ、イザナミの「国生みの話」。

A天照大神と須佐之男命
B出雲の国造り国譲り。
C天孫降臨

中つ巻
@神武東征

Aうるわしき国・大和

下つ巻
@国家の確立

A仁徳天皇以後のエピソード 
古事記の「序文」から探求を開始する。

徳永の 「古事記序口語訳」
4月8日 徳永の

「古事記序口語訳」

臣、安万侶、申しあげます。混沌としておりました大元(おおもと)は既に凝り固まりながら、生命の兆しはいまだ(あらわ)れておりませんでした。名もなく、目に見える動きもないままであります。誰がその形を知ることが出来るのでありましょうか。然しながら、遂に天と地と初めて分かれた時、(あめの)御中主(みなかぬしの)(かみ)を初めとする三柱の神が万物創生の先駆としてお姿をお見せになりました。

4月9日 続いて()()が分かれ、伊耶那(いざな)(みの)(みこと)伊耶那(いざな)(ぎの)(みこと)二柱(にはしら)の神が、あらゆる生ける物たちの(おや)となられました。そして伊耶那義命は黄泉(よみ)の国に行かれ再びこの世に戻り来られまして、()(がみ)(つき)(がみ)とを、(おの)が目を洗う時にお生みなされ、また海の水に浮き沈みしながら己が身をすすぐ時に、(あま)つ神や国つ神をお生みなされました。まことに、天地始原の時は(よう)として明らかではございませんが、古くから伝えられて参りました教えにより、国土を孕み、島を生み成した時の有様を知りました。創生根源の時は到底極め難いのでございますが、今は亡き(ひじり)たちの教えにより神を生み、人を立てた時の世のさまを察知することが出来たのであります。

ありありと知る事が出来ましたのは、鏡を(さかき)の枝に懸け、口に入れた(たま)を吐き出して御子(みこ)をなし、そのご子孫が百代にもわたって相続けて地上を治められておられます。それは、剣を口の中で噛み砕き、恐ろしい蛇を切り散らすなどして(よろず)の神々となられましたのでございます。その(よろず)の神々が高天(たかあま)の原を流れる(やす)の河原で協議なされ(あめ)の下を平和になされました。

出雲の国の小浜(おばま)で色々と議論され渡り合った末、国土の統一が成り国が一つに清められたということでございます。この統一を以て、(ほの)(にに)(ぎの)(みこと)が初めて高千穂の(みね)に降り立たれ、(かむ)(やまと)(神武)天皇は秋津の島を経巡(へめぐ)られたのでございます。熊野川で、熊に変化(へんげ)した悪神が(あらわ)れ出ました時は、高倉で(あめ)(つるぎ)を見つけて危難を逃れられました。野蛮な者どもが行く手を(さえぎ)った時は、天より遣わされた大きな(からす)が吉野の地に神倭天皇を間違いないように導いたのでございます。その吉野の地では、舞いの列をもって、刃向かう賊どもを(はらい)い退け、兵士たちの合図の歌を聞いて敵を討ち伏せられたのであります。

4月10日 また御真木(みまき)((すう)(じん))天皇は、夢の中で神の教えを聞かれ(あま)つ神と国つ神とを敬い(まつ)られました。そのために人々は皆、世にも賢い大君と敬っていたのでございます。大雀(おおさざき)(仁徳)天皇は、民の炊煙(すいえん)の様子を視察され、人々を撫育(ぶいく)されましたので、今も(ひじり)(みかど)(たた)えられておられます。若帯(わかたらし)日子(ひこ)((せい)())天皇は、国境を定め国家を開いて近淡(ちかつおう)()の地で人々を治められました。男浅津間(おあさつま)若子(わくごの)宿(すく)()((いん)(ぎょう))天皇は、臣下たちの(かばね)を正され(うじ)も撰び定められまして遠飛鳥(とおつあすか)の地で人々を治められました。

天皇方々の御歩(おんあゆ)みには、緩やかさや、速さの違いはございましたけれど、内実の華やかさや質朴さも同じではございませんが、いずれの天皇方も、(いにしえ)を顧みながら古来の教えが既に崩れかかっているのを正しく整え、その教えによって今の世を照らし導かれました。古来の教えの道が絶えないようになされて参られたのでございます。飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で、大八州(おおやしま)を支配された大海人(おおあま)(天武)天皇の御世に到り、水底深く姿を隠していた竜が己を知って立ち顕れ、しきりに轟きわたる(いかずち)のような時には時機に応えた動きもなされました。天皇は、夢の中で神の教える歌を聞いて事業を継ぐことを思われ、夜の川で身を清めながら、皇位を受け継ぐことを決意されたのでございます。然しながら、天命の時はいまだ到来しないというので、南にある吉野の山に、蝉が殻を脱ぐが如くに抜け出て潜まれ、人事が整ったと見るや、東の国に虎のごとくに勢いよく歩み出されたのでございます。()
4月11日

太安万侶が元明天皇に献上した古事記序文だが、稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗証に由来する。稗田阿礼のこの遺徳を偲び主祭神として祀る神社が「()()神社」である。奈良県は大和郡山市の稗田環濠集落(稗田阿礼(ひえだのあれ)の末裔が住んでいる。)の中にある。この事実に、偉大なる歴史の国・日本を痛感する。

序文の冒頭は、宇宙が生成されつつある状態を語っている。歴史の原点の点火である。そして飛鳥の天武天皇迄、神話から神武天皇の時代を経て、崇神天皇、成努天皇、仁徳、允恭天皇らの治績を概観し、古事記編纂の意図は天武天皇のあるとしている。壬申の乱の経緯と凱旋を語り英邁な君主・天武の功績を格調高く語る・・。

4月12日

(けん)()()りて六合(ろくがふ)()べ、(てん)(とう)を得て(はっ)(こう)()ねたまひき。」

(けん)()とは「天子である(しるし)、之れを得て六合(四方と上下で天下のこと)を統治し、天皇の位をつぎ、世界八方の隅々まで統合なさった」、国家の成立であり、威風堂々たる格調である。

13日

ここに天皇()りたまひしく、(ちん)聞きたまへらく、諸家(しょけ)もた(てい)()及び本辞(ほんじ)、既に正実に(たが)ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当たりて、其の(あやまち)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家(ほうか)の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。(かれ)これ、定紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、(いつわ)りを削り(まこと)を定めて、(のちの)()(つた)へむと(おも)ふ」

うーんと、唸りたいような格調の高貴さ、()らしめんとする(ちょう)(こく)の思いを肌で感じる(みことのり)である。口語訳では格調が落ちるが掲載してみることとする。

「私が聞く処によると、『諸氏族が持っている帝紀(天皇即位から崩御までの記録)と本辞(氏族の伝承・系譜等)などが既に事実と異なり虚偽が加えられた』と言える。この時に当り、過失を改めなければ事実は喪失してしまうであろう。正しい帝紀と本辞は国家の骨格であり、王権の基盤をなすものである。為に帝紀を記録し、旧辞を詳しく調べ、過失を削除し事実を明快にさせて後世に伝えようと思う」

そして、天武天皇は、稗田阿礼を選任したのである。時代を経て、大和三山を一望できる藤原京から平城京へ都が遷った、最初の天皇が元明女天皇である。父は天武天皇、母は皇后の持統天皇(草壁皇子の后、皇子の夭逝により天皇となる)である。この天皇が太安万侶に古事記撰録と献上を命じた。

14日 古事記の冒頭

「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神。」

天地(あめつち)初めて(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、(あめの)御中主(みなかぬしの)(かみ)。」

神々の現れる前、この世界は天と地の見分けもつかない混沌とした世界。天と地の境が認められて初めて天と地が出現する。この瞬間を古事記では、「天と地が(ひら)ける」と表現。その時、天には中心の神「(あめの)御中主(みなかぬしの)(かみ)」が誕生。次ぎに(たか)御産(みむ)()(ひの)(かみ)、さらに神産(かみむ)()(ひの)(かみ)も誕生。三柱の神は独神でやがて姿を隠してしまわれる。

15日

混沌とした世界を古事記は次ぎのように(たと)えた

「次に国(わか)く浮きし(あぶら)の如くして海月(くらげ)なす漂へる時、(あし)(かび)の如く()(あが)る物によりて成れる神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢの)(かみ)

次に天之(あめの)(とこ)(たちの)(かみ)。この二柱の神もまた、(ひとりどく)(がみ)と成りまして、身を隠したまひき」。素晴らしい表現である、美しい。天地の始まりの時に誕生した五柱の神々は、特別な存在の神として「(こと)天神(あまつかみ)」と呼ばれる。その後、二柱の独神、次に男の神、女の神が対になり十柱の神々が誕生する。ここまでの神々を、「(こと)天神(あまつかみ)五柱」と神代(かみよ)(ななだい)」と呼ぶ。 

16日 ムスヒ この言葉は、実に日本的で興味深い。私も親類の翁が経営していた企業グループとか親戚を集めて「ムスビ会」を組成していた。少年の頃から父に連れられて参加しており印象が深い。グループ結束の意図を感じていたが語源は、どうやら神様の「産」に関係があるなと感じていた。皆と結び、結束する、そして産みだす、ムスなのであろう。
17日-30日

神様の名にある、産、巣、ムスヒ、何を意味するのか。ムスヒの漢文は古事記には「()()()」である。日本書紀には「産霊」とある。「霊」は「ヒ」と言われる、だから古事記の「()()()」の日は霊の音に当てたのであろうか。ムスは「産霊」、産みだすの意であろう。苔ムスと言う、それは増殖、産みだすである。産みだす霊、生成する霊、万物を産みだす、万物を生成する霊をムスヒと言うのであろう。

ヒ=霊、古事記によると「霊は凡て物の霊異(くしび)なるを()云う」としている。霊妙不可思議な神秘的な産み出す現象を力と感じたのであろう。

神様の名前である、(たか)御産(みむ)()(ひの)(かみ)、タカミムスヒの神は「気高く、万物を生成する霊」で高木神の別名もある。神産(かみむ)()(ひの)(かみ)、カミムスヒの神は「神々しい万物生成の霊」であろう。「ムスヒ」とは日本を産み出した源泉そのものなのである。

口承世界

古事記を読んで行くには日本書紀との比較が大切とも言われる。双方とも国家事業として制作されたものであり政治的性格も現れている。また背後には口承世界が存在している。

両書には、多様な神話の存在が窺われるとされる。一例としてイザナミノミコトで検証してみる。

古事記では、イザナミはイザナギと共に国を生み、神生みを行う。火の神を生んだ事により病となり遂に黄泉(よみの)(くに)(本文では神避)へと去り、夫のイザナギが追いかけて黄泉国を訪ねる。処が日本書紀には一切そのような展開はない。このイザナミが去るか去らぬかという事はその後の神話展開に影響がある。

古事記では黄泉国から逃げてきたイザナギが日向の地で(みそぎ)をした時、天照大神・月読(つきよみの)(みこと)須佐之男(すさのおの)(みこと)の三貴子を誕生させた。三人の父はイザナギであり母は存在しないことになる。

日本書紀では、イザナギ・イザナミの夫婦が揃って、日神・月神・スサノオを誕生させているばかりかヒルコも一緒に生まれた。この相違はかなり大きい。

古事記によると、去ったイザナミを出雲国と伯伎(ほうきの)(くに)(鳥取県)との堺の比婆山に葬った。また黄泉国の出口であるヨモツヒラサカは今の出雲国のイフヤ坂である。

イザナミの去った場所は出雲と関係が深い。スサノオは「()の国である根の堅州(かたす)(くに)へ行きたい」と云って泣いた。この「()」がイザナミを指すのかどうか。また堅州(かたす)(くに)が黄泉国なのか。堅州(かたす)(くに)の出口もヨモツヒラサカだから、出雲と関連づけられているのは間違いない。

「日本書紀」では、スサノオは「根の国」に追放されるが、「根の国」に関連する描写は無いし出雲と関連づけられない。

最大の相違点

古事記と日本書紀の最大の相違は、出雲に関する神話の有無である。古事記では、イザナミが出雲に関わる黄泉の国へ行く。その後スサノオが高天原から追放されて出雲に下り、そして根の堅州国に行く。スサノオの六世孫オオナムヂノミコトは出雲を舞台としやがて根の堅州国訪問などを経て大国主神へと成長を遂げる。この長大な神話が日本書紀には無い。

出雲神話の有無の問題は、イザナミが去るか、否かの問題である。出雲側に関わるイザナミを、後に皇祖神となる天照大神の母としては位置付けないというのが古事記の態度である。

かつ神聖なる存在の誕生を、男女の結合により生まれる存在と差別化して、特殊な形で誕生させようというのが古事記の取った叙述法である。

日本書紀では、日神がイザナギ・イザナミ二神から生まれた事は特に問題としていない。イザナミを出雲世界と結びつけもしていない。その相違点は様々に両書の神話展開に関与している。

ヒルコ誕生に就いて

古事記では、イザナギとイザナミが、(あめ)御柱(みはしら)巡りをして出会った際に、女性のイザナミの方から声を掛けた為に最初の子生みに失敗し船に乗せて流し、次ぎに生まれた淡島も子の数に入れなかった。

日本書紀では、イザナギとイザナミが天下の主者を生もうとして生んだ四柱の神の中、三番目に生まれた日神として登場している。

一番目に生まれた日神は、余りに素晴らしい神なので、天下=地上の主とするには勿体ないということで、天上界に送ってしまう。

次に生まれた月神も、やはり日神と同様に素晴らしい神なので天上界に送る。三番目のヒルコは三歳となっても立つ事が出来なかったので船に乗せて流してしまう。

最後に生まれたスサノオは、余りに無軌道なので根の国へ追放した。こうして天下の主者は不在のままであるという展開となる。

古事記の場合、イザナギに対して、妹イザナミと書かれている所がある。それで、この二神を兄妹神とし兄妹婚と取る見方もある。それでヒルコの誕生を近親婚による障害婚とみる見方がある。

日本書紀では、日神・月神・スサノオと並んで生まれている点が問題とされている。日神にはオホヒルメという名前もある。だから、ヒルコはヒルメと対をなす名称であり、日の子=太陽神を示すのではないかという説がある。皇祖神としての天照大神の存在が大きいため、本来は太陽神的立場にあったヒルコの存在が不要とされてしまう存在へ移行したのではないか。

日本書紀の場合、イザナギ・イザナミ二神の初めの子生みにヒルコが誕生するわけではないので、近親婚による障碍の誕生とは取っていないのである。日本書紀では、基本的にイザナミを妹とは言っておらない。ならば、本来は太陽神であったという可能性を日本書紀を編集した人達は考えていたのかとも思われる。

古事記では、ヒルコは葦船に乗せられて流されている。これは失敗した悪しき子を乗せる船とか、二番目に生まれた淡島は、淡い島で矢張り失敗した子を示すという見解もある。口承世界の名残りなのであろう。

古事記を読むには、日本書紀との比較が面白いということになる。比較を通して神話の世界を想定するのである。