鳥取木鶏会 講話メモ 平成2541

森と文明

 ニューギニア高地 海抜2-3千米での農業生活。

   数万年に亘り社会が維持されている、欧米人の関与破綻の話。

   世界9ヶ所の一つ。

 江戸時代の日本――上意下達型の森林管理。戦国時代の地方藩により乱伐したのを徳川が復元           した。

 台湾の烏山頭ダム 
     八田与一、

           嘉南平野、一大穀倉地帯、北緯25度で、熱帯と温帯の境界。  
           北回帰線と称し、他の地域は大抵、砂漠である。
     銅像話、 56歳で昭和17年輸送船爆撃に会い死亡。現地人36年間隠匿した。奥さん          は昭和20年ダムに投身。
現地人は奥さんがダムを守っていると信じて          いる。慰霊碑  刻まれた日本人名と台湾人名は交互。

森の消滅した処、文明は消滅しているのは歴史が示す。 

    思い出した、ウズベクスタンで大地震、首都三分の二崩壊、ナヴォイ劇場だけ残った。    ソ連の日本人抑留者25千人の建設。それで大の親日国家。服役していても、日本人    は精神込めて建設する。偉大な民族であります。皆、忘れている。 

中国大陸 
   森林とか大地を荒れたままにすれば歴史の通則に従えは、中国の衰亡は必至と見る。人口   国家・中国は、軍備を益々増やし力を発現するが、近未来は、このまま進まぬ。歴史のし   っぺ返しが到来は必然と見る。


TPP ここまで国際化すれば日本の参入は止むを得ない。だが、日本人のレベル低下へ一直線   となろう。余程の覚悟をした対応策を練って邁進しなくてはならぬ。

覚悟を要する。日本文明の劣化の導火線だ。

アベノミックスのアメリカの評価

   申し分ない。後は成長戦略の裏づけ次第。

韓国

 組閣人事が次々と失敗。韓国の輸出は日本の円高で良かった。円安で極端に弱ってい る。日本から40-50パーセント輸入しなくては輸出できない仕組み。これは中国とて同 様。

アメリカ経済は底打ちした。シェールガスが本格的材料。

中国

世界の価格破壊者、また、地球破壊者として登場し問題化するが懐が深いから先の話。10年先はアメリカを抜きナンバーワンと予測されているが、問題が発生する、すんなりとは行くまい。アメリカの名門大学へ精華大学から500人、日本人ゼロに近い。大知性が存在しているようだ。 

   地球規模の資源爆食発電の80パーセントは石炭に依存、汚染対策意欲なし。

       過剰生産、後は野となれ山となれの国民性-大地荒廃、大気汚染、道徳律皆無-

    指導層の海外避難--子弟の二重国籍、マネー海外送金

      時間はかかるが破綻的

      --その間、軍事力で圧倒してくる。

      鳥取木鶏会 4月例会 徳永圀典

伝記を読め

人物に私淑せよ。現代にいなければ故人でもいい。それには伝記を読め。伝記を読むのはいいが、伝記を書いた人によっては、あまり良くない伝記もあるから、その人の著書を学べ。書いたもの、作った詩・和歌を読まなければいけない。まず原典を読むことを心がけなければいけない。一部を抜粋したようなものではいけない。大部の書を通読しなければいけない。

真の指導者

 真の指導者は必ず謙虚で、私が無く、自己の利害・欲望によって汚されない良心から起つべきものであって、社会の善のために、また人類の幸福と進歩との為に指導し、私心を満たすためにするのではない。賢明な指導者はまた必ず自分ばかりでなく、他のエリートをひとしく指導者たらしめようと努力する。彼は何よりも先ず自分自身の指導者、模範となるように心がける。  (人生の大則) 

中今の精神

神道には地獄・極楽の思想はない。それより、現在を感謝しつつ懸命に生きるというのが神道ではあるまいか。それを神道では「中今(なかいま)の精神と言う。過去・現在・未来に捉われないで永遠の過去と未来の中間にある「今」、(まさ)に今の中、中今(なかいま)を最良の時として、この瞬間を精一杯生きることである。生かされている今、神様の恵みを受けている今、それに感謝する心である。

人間学

時々人間学というものに触れたわけでありますが、思い起こし改めて思索して頂きたい幾つかの根本問題がある。

人間とは何ぞや

第一は「人間とは何ぞや」という問題。限りない広汎なことだが、特に大事なことは、人間の大切な要素というものをはっきり把握することである。前にも申しあげたように、人間には本質的要素と付属的要素とある。即ち本性と属性があり、もう一つ大事な習性というものがある。

人間の本質的要素と付属的要素

本質的要素とは、これあるが故に人間は人間であって、これを失えば形は人間であっても人間ではない、という大切なもの。これに対して、あればあるほど良いに違いないがもそれは程度の問題であって必ずしも大小多寡を問わない、少しぐらい乏しくともさして変わりない、というのが属性である。

徳性

人間の本性は何かと言うと、言うまでもなく徳性である。

徳性にはいろいろあるが、例えば明るいということがそうです。人間は日月光明から生まれたのですから、明るいということは最も大事な本質である。従って、清いとか汚れがないとか、或は務めるということも?天地・宇宙は限りないクリエーション(創造)でありますから、我々も常に何者かを生む努力をしなければならない-大切な徳性であります。その外、人が人を愛する、人に尽くす、報いる等々、一々挙げれば限りがありませんが、色々な徳性があります。

人間たるの本性・本質

こういうものがあって、初めて人間であり、明らかにこれは「人間たるの本性・本質」であります。“貴様、それでも人間か”、とはよく口にする言葉ですが、かりに“何故人間でないと云うのか、人間とは何だ”と反駁された時に言下にびしゃっと答えられるようでないといけません、今日の親子の悲劇の一つは、そういう人間の大事な問題について親がはっきりと答えられない処にあるのです。

人間の本質的要素

況や、国会議員・大臣においておやでありまして、野党議員の愚劣極まる質問もさることながら、これに対して大臣がぴしゃっと決めつけるような答弁が出来なくて、折角の議場をわざわざ混乱に陥れるような事がどれだけあるか分りません。誠に困ったことであります。そこへゆくと明治時代は大臣にしても、代議士にしても、はるから立派でした。それだけ、人間が出来ておったということです。こういうことが人間の本質的要素であります。

付属的要素

これに対して知能とか技能というものは人間の属性、即ち付属的要素であります。成る程、我々の知識とか技術、知能とか才能というものは、あればあるほど宜しい、結構なものであります。そして、これあるが故に近代文明というものは津々としてとして発達してきました。然し、こういうものは、通常の人間であればみなある程度持っているのであります。よく出来るとか、出来ないと云うても、それは態度の差であって、人間たる事に於いて別段何の関係もありません。それどころか、却って知能や技能が人間たることを損うことが多いのであります。その証拠にバカは余り犯罪をやりません。罪を犯すのには相当知能や技能が要るからです。殊にこの頃は知能犯・技能犯が多くなつておりますが、知能・技能というものはともすれば人をダメらします。その点、バカは自然のままの人間ですから、大体し善人で、人間味が豊かであります。これは子供も同じ事で、幼い時ほど自然ですから、それだけ正直であります。

知能・技能は徳性で裏付ける

そこで知能・技能というものは、徳性を持って初めて好ましいもの、嘉すべきもの、尊いものになるのでありまして、反対に徳から離れるに従って悪くなり、いつわりになります。これを称して「偽」と言います。偽は人が為すと書きますように、第一に技=わざという意味があり、第二に「いつわり」という意味があります。知能・技能というものは徳性から離れると、往々にして偽になったり、奸になったり、邪になったり致します。その最大の例が近代文明です。近代の科学技術文明というものは、つい最近までは人類の非常な誇りでありました。処がそれが次第次第に自然を汚し、自然の理法を破るという思わざる問題が発生して参りまして、その結果今日では、人類は文明によって発達したが、その文明によって滅亡する、と言われるようになってきておるわけであります。

習性

それから最後の習性でありますが、これは「習・性となる」とか「人生は習慣の織物なり」と言われるぐらい人間にとって大事なものでありまして、その意味では本質的要素の中に加えることもできます。そもそも習という字は、上の羽は()()、下の白はしろ(、、)ではなくて鳥の胴体の象形であります。即と雛鳥がだんだん成長して、親鳥の真似をして羽を広げて翔で稽古をする、という意味であります。そこで人間はなるべく早いうちに良い習慣を身につけさせる、これは徳性に準じて大切なことであります。

社会混乱の原因

処が、この大切な根本問題を、前にも指摘しましたように明治の日本は忘れて、それこそスターリンや毛沢東ではないが、「追いつけ・追い越せ」の大躍進を実行して、西洋近代文明の吸収に熱中したわけです。そうしてその結果、世界の奇跡とまで言われる程の偉大な成績を挙げたのはよいのですが、やはり速成には手落ち。手抜かりがあるものでありまして、最も大切な人間教育?徳性を涵養し良い習慣を身につけて、それに基づいて知識・技術を授ける、という点に於て大きく抜かってしまったのです。その結果、文字どおり偏向知識人、非人間的技術者が続出して、日本の近代文明、近代文化というものはすっかり歪曲されてしまいました。これが今後の終戦の時に日本に大いに祟ったばかりでなく、今日の社会的混乱もそこに原因があると申して宜しいと思います。

久敬

 人間の事と言うものは何と云っても久しい時をかけ、その間に習熟、修練を積まないと本当のものにならないのであります。大抵のものは「始めあらざるなく終わりうる少なし」と格言にも説いてありますように、なかなか続かないものであります。物体の運動の法則でもそうでありますが、ある方向へ動き出して暫くすると、それがつまり慣れっこ、慣性となって無意識的に始めに与えられた力の方向へそのまま動いてゆくというようになる。

そこで始めのうちは新鮮な気分でやり出しますけれども、暫くすると慣れっこになって段々新鮮な心掛け意図というようなことが麻痺してしまって、形の如く機械的になってしまう。終始一貫始めの如き気合・感激・精神をもって続行することは難しい事であります。生命を失わずに初心、素心というものを持ち続けてゆくという、そういう意味で久しくすると言うことは、これは非常に尊いことであります。それで始めて本当の人間、本当の事業、本当の研究が出来上がるのであります。

世界に類の無い価値ある日本人の精神生活、風俗・習慣、国語を今日のように滅茶苦茶に荒らしてしまっていると言うことは、洵に情けない限りであります。従って列島改造よりも何よりも、我々は先ず日本人の精神生活、特に思想、道徳、教育を改革・改造すべきでありまして、これをやらなければ、日本の将来は長持ちどころか非常に危ないと思う。 

父親たるものは

倅は学校でくだらぬ講義を聴いたり、愚にもつかぬ新聞・雑誌等を読んで、なかなか屁理屈を言うことがうまい。処が親父の方は、実務について経験や常識は発達しているけれども、理論・イデオロギーなどというものから遠ざかっておる為に倅から反駁されると、へどもどして、“お父さんはもう古いよ”などと言われると、つい“そうかなあ”ということになって参ってしまう。そういう処からくる混乱や断絶が意外に多いのです。父たたる者は少なくとも倅の屁理屈などに対しては言下にぴしゃっとやるだけの教養・識見を持っている必要があります。

人間の本質的要素

況や、国会議員・大臣においておやでありまして、野党議員の愚劣極まる質問もさることながら、これに対して大臣がぴしゃっと決めつけるような答弁が出来なくて、折角の議場をわざわざ混乱に陥れるような事がどれだけあるか分りません。誠に困ったことであります。そこへゆくと明治時代は大臣にしても、代議士にしても、はるから立派でした。それだけ、人間が出来ておったということです。こういうことが人間の本質的要素であります。

付属的要素

これに対して知能とか技能というものは人間の属性、即ち付属的要素であります。成る程、我々の知識とか技術、知能とか才能というものは、あればあるほど宜しい、結構なものであります。そして、これあるが故に近代文明というものは津々としてとして発達してきました。然し、こういうものは、通常の人間であればみなある程度持っているのであります。よく出来るとか、出来ないと云うても、それは態度の差であって、人間たる事に於いて別段何の関係もありません。それどころか、却って知能や技能が人間たることを損うことが多いのであります。その証拠にバカは余り犯罪をやりません。罪を犯すのには相当知能や技能が要るからです。殊にこの頃は知能犯・技能犯が多くなつておりますが、知能・技能というものはともすれば人をダメらします。その点、バカは自然のままの人間ですから、大体し善人で、人間味が豊かであります。これは子供も同じ事で、幼い時ほど自然ですから、それだけ正直であります。

政治は人物

 学問文化が栄えて、文明は人は衰退の影を長くし、世界の人類は滅亡の脅威にさらされている。政治はいかにすれば人を救うことが出来るであろうか。法律や機構や政策だけではどうなるものでもない。結局は人物である。衆生病む故に我病むというような、人類の悩みを己に抱いて、世の救いを祈る熱烈深刻な魂を持った政治家が輩出して、そういう人々が各国の政権の座に就いて、互いに誠を尽くして協議するようにならねば世界は治まらないであろう。

士大夫(したゆう)三日(みっか)(しょ)を読まざれば即ち()()胸中に交はらず。便(すなわ)ち覚ゆ、面目(めんもく)・憎むべく語言・味なきを」。

書は聖賢の書。理義は義理も同じで、理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則であります。大丈夫たるものは三日、聖賢の書を読まないと、本当の人間学的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環しないから、面相が下品になって嫌になる、物を言っても言語が卑しくなったような気がする?と言うのであります。本当の学問と言うものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。従って、それを怠れば自ら面相・言語も卑しくなつてくる。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味も亦そういう所にあるわけであります。 

 性命・宿命・義命・立命 

 生きとし生きるもの、みな意識を持っておる。そして、その意識の発達したものが「心」、さらに突っ込めば「魂」と言うことになる。つまり「生命」は性命、心、魂を持ったもの。好むと好まざるとに拘らず、理由の何たるを問わず、そういうものを超越した天地創造の中の決まりきった、疑うことを許されない一つの存在である。そして、それは自分に始まったことではなく、天地自然と共に在るということで「宿命」と言うことになります。性命は運命であると共に宿命である。しかもその宿命は、高等生物になればなるほど、心が発達して必然的に「いかにあるべきや」という「義」の問題が生じてくる。これを「義命」と言う。人間の生命は宿命であると同時に意識精神が発達して「義命」というものを宿す。そこで人間は宿命と同時に義命によって、よく天地の創造・造化に参して、その命を造り、義命を立てていく。これがいわゆる「立命」というものであります。つまり、自分はどんな運命、見方を変えれば宿命によって「かくの如く存在しておるのか」、それを常に新しく創造進化の道に従って、いかに実践していくかと言うのが「義命」であり、それをいかに創造していくかと言うのが「立命」。運命の中に宿命があり、義命があり、立命がある。運命というものは、宿命であると同時に義命であるから、立命することが出来ます。 
                                  (酔古堂剣掃(すいこどうけんすい))

酔古堂剣掃』(すいこどうけんすい)は、中国朝末の教養人・陸紹は湘客)が長年愛読した儒仏道の古典の中から会心の名言嘉句を抜粋し、収録した読書録である。特徴としては、『菜根譚』と同様に自然の描写と観察が豊富で優れている。  

原本は十二巻で成り立っており、一巻毎に片言隻句の内容が分類されてある。