徳永圀典の「日本歴史」26平成204

平成20年4月

4月1日 我らが祖国 まさに崩壊せんとす

「南九州の制空権 すでに敵の手中にあり 我らが祖国 まさに崩壊せんとす 生をこの国に享けしもの なんぞ 生命を惜しまん 愚劣なりし日本よ 優柔不断なる日本よ 汝 いかに愚劣なりとも 我ら この国の人たる以上 その防衛に 奮起せざるをえず」

苦しい戦闘の連続であった。飛行機も艦船も、燃料も爆弾もすべてのものが欠乏している中での苦戦苦闘であった。大戦末期、一部の学徒兵には既に祖国の行く末が見えていた。詩集「第八〇一航空隊 美保海軍基地」にそう記した京都帝大の俊才 海軍飛行予備学生出身の林伊夫少尉 昭和二十年七月 敵戦闘機群の襲撃を受け交戦、戦死。享年二十三。 

4月2日 俺たちの苦しみが役立つなら 俺たちの苦しみと死とが
俺たちの父や母や弟妹たち
愛する人たちの幸福のために
たとえわずかでも役立つものならば
日記にそう書いた、特攻武陽隊 陸軍少尉 長谷川信(明治学院)二十三歳。
4月3日

務めは何ぞ 死ぬことなり 

今日の務めは何ぞ
戦うこととなり

明日の務めは何ぞ 勝つことなり
凡ての務めは何ぞ 死ぬことなり

と覚悟を述べていた神風特攻第二十七生隊の岡部平一少尉(台北帝大)も二十四歳で戦死。 

4月4日 アジア諸国の目覚めを誘発 長い間、欧米の植民地であったアジアの人々は、日本軍が連合国軍を打ち破ったことにより大いに勇気づけられた。日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され日本軍と協力してインドに向けて進撃を開始した。インドネシアやビル マでも日本の援助で軍隊組織が創設された。
日本の指導者の中には、戦争遂行の為に占領した地域を日本軍政下に置きたいという意見も強かった。然し、これらの地域の日本に寄せる期待に応えるため、日本は昭和18年、1943年、ビルマ、フィリピンを独立させたり自由インド仮政府を承認した。
4月5日 大東亜会議の「理念」は正しい 日本は、これらのアジア各地域に戦争の協力を求めた。同時に結束を示すため、194311月、この地域の代表を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。 会議での共同宣言は、
@各国の自主独立。
A各国提携による経済発展。
B人種差別撤廃をうたった。これは日本の戦争理念を明快にするものであるが連合国の大西洋憲章に対抗したものであった。
4月6日 現地人の反抗 然し、大東亜共栄圏の下では、日本語教育や神社参拝が強要されたので、現地の人々の反発が強まった。これは至極当然であろう。また戦局の悪化により日本軍が現地人を 過酷な労働に従事させられることが屡であった。フィリピンやマレーシアのように、連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動も盛んな地域も出てきた。日本軍はこれらに対して厳しく対処したため死傷者も多数にのぼった。
4月7日 功罪交々

戦後、日本はこれらの国々に対して賠償を行った。そして大東亜共栄圏の構想も、日本の戦争やアジアの占領を正当化するものであったと批判を受けた。

日本が敗戦した後、インドネシアにオランダ軍が再び植民地化しようとして復帰してきた。これに対して戦時中に日本軍により訓練されたインドネシア軍隊が中心となって独立戦争を開始し1949年、昭和24年に独立を果した。
4月8日 インド インドでは、日本軍と協力したインド軍の兵士をイギリスが裁判にかけた事に対して民衆の激しい抗議運動が起きた。このように、独立への気運が更に高まり、1947年、インドは遂にイギリスが独立した。

その他、ビルマは戦後、植民地支配を再開したイギリスから改めて1948年に独立を勝ち取った。これらの地域では、戦前より独立の動きがあったが、日本軍の南方進出でアジア諸国の独立を早めたのである。 

4月9日

戦争中の国民生活

第一次世界大戦後は、戦争は前線の軍隊だけのものではなく、国民生活、教育、文化など凡てを賭けて行うのだという総力戦の時代に移行した。

日本も日中戦争勃発と共に総力戦に備え、国の人員、物資、経済、産業、交通など全てを政府が統制且つ運用する総動員体制を作る必要が出てきた。

4月10日 国民総動員 戦争により物資不足で国民生活でも純綿、純毛製品や皮革、ゴム製品等々が姿を消してしまつた。政府は、国民精神総動員運動で、消費節約も貯蓄奨励を呼びかけた。 戦局が悪化すると。国内体制は更に強化された。労働力不足の補充の為に、徴用が行われ、また中学3年生以上の生徒・学生は勤労動員、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くこととなった。
4月11日 学徒出陣 大学生や高等専門学校生徒は徴兵の猶予が取り消され、祖国から出征して行った、これが学徒動員である。 このような徴兵や徴用は内地国民だけでなく、日本人でもあった、朝鮮半島や台湾でも同様に行われ、朝鮮や台湾の多くの人々にも様々な犠牲や苦しみを強いることとなったのである。
4月12日 戦時下の使役 総動員体制は日本人は勿論、台湾・朝鮮の人々を苦しめた。多数の朝鮮人や、占領下の中国人が、日本の鉱山などに連れてこられて、厳しい条件で働かされた。戦争とは実に人間を不幸にする。 朝鮮や台湾では、日本人に同化させる皇民化政策が行われ日本名を名乗ることも進められた。それらは、その進展過程で複雑なものがあり、自己の意思の下、或は生きて行くために渋々としたもの、当時は自己の意思でしたが、今になって強制だと言う人もあろう。
4月13日

民間資源の供出

私にも記憶がある、寺の梵鐘の供出、蔵の中の先祖伝来の刀剣、母親の大切な指輪、父の金の懐中時計の供出など非国民と言われない為に、お国の為に提出したのである。本当はしたくないのが人情である。 その他、金属という金属を供出し、物資は窮乏を極めたが我慢し、辛抱して我々は生き抜いたのである。困難な時代であったが、我々は良く働き、よく勉強し、戦ったのである。戦争の勝利を願ってのことであり祖国の為に当然なことである。
4月14日 戦争の惨禍

世界全体の第二次世界大戦の戦死者は220万人、負傷者は3400万人と言われる。途方もない大惨禍である。もとより第一次大戦を越えている。戦場となったアジア地域の人々にも大きな損害と苦しみを与えた。特に中国の兵士や民衆には日本軍の進攻により夥しい犠牲者が出た。フィリピンやシンガポールなども日本軍により抗日ゲリラや一般市民に多数の死者が出た。

一方、昭和19年秋からアメリカ軍の日本への空襲が開始された。
昭和203月には、米軍はB29爆撃機の編隊を組み東京の江東地区を空爆し約10万人の死者が出た東京大空襲があった。アメリカは更に人口の多い順に全国の都市を無差別に焼き払った。子供たちは親元を離れ地方ら疎開した。
 

4月15日 東京大空襲 東京大空襲では、東西5キロ、南北6キロに焼夷弾を落とし火の壁で大衆の退路を断った絨毯爆撃であった。非戦闘員の住居を狙い爆撃したもので国際法違反であろう。広島・長崎の原子爆弾により無差別な国民殺戮は理由の如何を問わず許せない。 空襲体験者の話「・・くるくると竜巻起きていた。トランクも捨てた。江東橋が見えるような気がした、熱い、体に燃えついてきた。火だるまにリ、転がって行く人、泣き叫び火に包まれて川に飛び込む人、逃げても逃げても、どうしようもなくなった。
4月16日 東京大空襲2 「お母さん、死んでしまう、火がついてしまう。川に飛び込もう、いいわね。手をつないでよ。放さないでね」と私。母は無言。躊躇いました。ここで川に入らなかったら、焼け死ぬ。死ねない、生きるんだ。さあ、川に入ろう」母と筏の上に飛び降りた。 そのあとから、火に追われた人々が私の頭の上に、身体の上に、次々と飛び込んで来たのです。それが、母と私の永久の別れとなり二度と母の姿を見ることが出来なくなりました。瞬時の出来ごとだったのです。 
4月17日 ヤルタ会談 ヨーロッパやアジアでも戦争の大勢はほぼ決まりつつあった。1945年、昭和202月、ソ連のクリミヤ半島の保有地ヤルタにアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンが集結し連合国側の戦後処理を話しあったのがヤルタ会談である。 ルーズベルトは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月以内に、ソ連が対日参戦することを求めた。このように日本との戦争の犠牲の一部をソ連に負担させる代償として、ルーズベルトは、大西洋憲章の領土不拡大方針に違反して、ソ連に日本領土の南樺太と千島列島を与え、満州に於ける権益まで認める約束をしたのである。これは極東秘密条項である。
4月18日 愚かなルーズベルト大統領 日本に対米戦争を始める仕掛けをさせたのもこのルーズベルト、そして戦争終結時に、共産主義の悪辣なスターリンに「日本を売り渡した」ののもルーズベルトである。結局はアメリカが困るのに長期的視野狭窄の男で ある。
領土問題は勝利者アメリカの愚かさに帰結する。その年、昭和204月、ルーズベルト大統領は急死した。副大統領のトルーマンが大統領となる。5月ドイツが無条件降伏、ベルリンは完全な廃墟となる。
 
4月19日 グルー国務次官 アメリカの国務次官で元駐日大使をしたことのあるジョセフ・グルーは、日本を壊滅から救うため、戦争終結の条件提示を考えた。 7月、ベルリン郊外のポツダムに米英ソの三首脳が集る。グルーの奔走で、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を米英中3国の名で発表することを決めた。
4月20日 日本陸軍の愚かさ

日本政府では、戦争終結を巡る最高指導者会議が何度も開催されていた。陸軍は本土決戦など愚かなことを主張して譲らない。 愚かな政府は、あろうことかソ連に仲介を求めた。ズルイソ連は、曖昧な態度を取り続けていた。やがて7月26日ポツダム宣言が発表された。
4月21日 原子爆弾 鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」するとの声明を発表した。これは政府内の意見不一致を表すものである。すると、86日、アメリカは世界初の原子爆弾を広島に投下した。

日本を追い詰める為とは言え、これは大量虐殺であり日本人として断じて許すことは出来ない。すると、8日、曖昧な態度をしていたソ連が、日本との中立条約を破り日本に宣戦布告して満州に侵入し、9日にはアメリカは長崎に原爆投下した。 

4月22日 御前会議 9日、昭和天皇ご臨席のもと御前会議が行われた。ポツダム宣言受託に関して賛否同数となり結論が出せず、10日の午前2時、鈴木貫太郎首相が天皇の前に進み出て、天皇のご聖断を仰いだ。 これは憲政上、異例なことであった。
昭和天皇は、ポツダム宣言受託による日本の降伏を決断した。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は日本の敗戦を知ったのである。
4月23日 戦争を考える1

20世紀は科学技術と産業の大発展を遂げた世紀であった。同時に夥しい人命が失われた世紀でもあった。戦争では多くの兵士が命を落とす。戦争の犠牲者は武装兵士だけでなく、一般の人々も大きな被害を受けた。―非武装の民間人、正式降伏の捕虜が生命財産を奪われる。國際法で禁止した毒ガスなど残虐な兵器を使用もする。

戦争とは悲惨なもので双方の子々孫々に後遺症を残す。非武装の民間人、正式降伏の捕虜が生命財産を奪われる。國際法で禁止した毒ガスなど残虐な兵器を使用もする。戦争とは悲惨なもので双方の子々孫々に後遺症を残す。―非武装の民間人、正式降伏の捕虜が生命財産を奪われる。國際法で禁止した毒ガスなど残虐な兵器を使用もする。戦争とは悲惨なもので双方の子々孫々に後遺症を残す。
4月24日 戦争を考える2 これまでの歴史で、戦争当事者が、非武装の人々を殺害したり虐待を、一切行わなかった国家は無い。勿論、日本も例外ではない。日本軍も戦争中に進攻した地域で捕虜となった敵国兵士や民間人に対し不当な殺害や虐待をしている。戦争とはそういうものである。 一方、多くの日本の兵士や、民間人も犠牲になっている。第二次世界大戦末期、ソ連は満州に侵入し、日本ま一般市民の殺害、強姦、略奪、暴行を繰り返す、極悪非道の残虐な行為の上、捕虜を含む約60万人の日本人を不当にシベリアん連行した。 
4月25日 米ソの非人間的悪行 ソ連に連行されたその60万の日本人は、実に過酷な強制労働に従事させた。結果、一割の日本人を悲惨な方法で死亡させている。 アメリカ軍による、無差別空襲による爆撃や、原爆投下で膨大な死傷者を出した。
4月26日 ナチスのユダヤ人虐殺 ナチス・ドイツは、第二次大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行った。これをホロコースト呼び戦場に於ける戦争犠牲者と区別している。ナチス・ドイツが国家の意思として計画的に実行した犯罪で戦闘による殺害ではないとして欧米も容認した。 これは欺瞞の裁決だ。ナチス・ドイツは、ドイツ支配下の一般住民のうち、約600万人のユダヤ人、約200万人のポーランド人と、それを上回る旧ソ連人、約50万人のロマ(ジプシー)を収容所で殺害し、自国の障害者や病人を注射などで安楽死させている。神を怖れぬ行為である。
4月27日 ユダヤ人を助けた日本人 日本はドイツと同盟していたが、日本人の中にはユダヤ人を助けていた人々もいた。陸軍少将、樋口季一は、シベリヤを通り逃げてきたユダヤ人難 民の満州国入国を認めて救援した。
またリトアニア駐在領事の杉原千畝は約6000人のユダヤ難民にビザを発行し日本経由をして逃れる道を開いた。
4月28日

ホロコースト

ホロコーストは戦争中に行われたとは言え敵国に対してではなく一つの民族に対して国家が行った皆殺し作戦であった。

一つの民族に対する「皆殺し」であり国家犯罪である。北朝鮮の拉致と国内のリンチなど国家犯罪である。 

4月29日 国家犯罪 スターリン支配下のソ連のように、世界各地で行われた、戦争と無関係な大量殺戮は戦後は禁止された。 だが夥しい数の人間が殺戮されている。
広島・長崎などの大量殺戮も国家犯罪であろう。
4月30日 「負の世界遺産」 先述のホロコースト、スターリンの大逆説などの他に、ナチスのユダヤ人収容所だったポーランドの「アウシュビッツ」、アフリカの「奴隷の家」がある。 国家の犯罪を防ぐは、国際法だけでなく、日本を含む世界の人々が、普段から國際協調精神を図り、政治、経済、外交など様々に工夫をし、國際協調の精神向上、と政治、経済、外交の工夫を読み上げるみとが大切である。