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まとめ「古事記」「日本書紀」編纂の真意に迫る

古代史研究について思うこと

日本人にとっての古代史とは 完

 

日本に生まれ、日本人として生きる私たちが、日本国の起源を知りたいと思うのは自然な感情であるに違いありません。

人は生まれた国の文化を吸収しながら成長します。そうした生の在り方を宿命とする私たちにとって、いわば自分を形づくっている文化が発した国家の勃興期に強い興味が湧くのは至極当然のことではないでしょうか。それは、自分の存在の由来を知りたいという根源的な欲求と同質のもものように思います。

しかし、戦前、私たち日本人はこの根源的な欲求を満たす自由がなかったのです。いわゆる皇国史観というものを幼少からの教育で刷り込まれ、その史観を以て画一的な人格形成をほどこされたのです。とは言え、日本の文化は、全て政治的に統制できるほどに底の浅いものではありません。いかに皇国史観を強制されようとも皆がロボットのようにそれを信じ込んでいたわけではなかったはずです。

「われら国民七千万は天皇陛下を神とも崇め・・・」という言葉を子供の時から何万遍と聞かされていても、多くの人は天皇を現人神(あらひとがみ)と崇めつつ、それは思想上のこととして、どこかで割り切っていた面もあったと思います。天皇を人間ではなく神様である、と心底から思い込んでいた人は実際は少なかったのではないでしょうか。しかし、そうした疑念を深く追求することも許されず、神聖なる国体の護持と日本民族の優秀性という心地よい言葉を胸にして、あの未曾有の惨禍をもたらした戦争へと突入していったのでした。

そして、無数の犠牲者の上に、いま、私たちは日本国の起源について真実を追究する自由獲得しています。そうであれば、あの戦争の犠牲となった人びとの死を無意味にしにいためにも、いまを生きる私たちは、画一的な皇国史観のような他人の考えを鵜呑みにせず、一人ひとりが自分の内面から沸きあがってくる知的興味を大切にして古代史を考えていかなければならないのではないでしょうか。

 

古代史の再構築

戦前の皇国史観がどのような歴史を私たちに強制していたのか、その要点は次のようにまとめることができると思います。

「日本の国家は大和国に発祥した。その国家は、高天原の天照大神の直系であるニニギノミコトが地上(日向高千穂峰)に降りてこられ、その子孫である神武天皇が東往によって大和国に入り、橿原宮で即位されたときに始まる。そして神武天皇以来、その神聖な皇統は今に至るまで続いている。従って、日本は天照大神を皇祖神とする万世一系の天皇によって統治されてきた他国に上位する神の国である」

そして、こうした史観に基づいて「万世一系の天皇は何人も侵すことのできない神聖な地位にあられ、天照大神の神意を継承されて日本を統治されてきた。日本の国民はすべて天皇の赤子であり、天皇陛下を神とも崇め、親として敬い、その詔勅に服してきたがゆえに、二千数百年もの間、他国の侵略を受けることがなかった。日本はそうした神聖で世界に冠たる国体を持っているのである」と国民は教えられたのです。

しかし、こうした歴史観や歴史教育は、敗戦によって一瞬にして誤っていたとされ、それまで有り難く頂いていた教科書は墨で塗り潰されていたのでした。

註 ニニギノミコト

  日本書紀では、アマツヒコヒコホノニニギノミコトと言い、古事記では、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコトとも言われる。天孫降臨神話にみえる神。系譜の上では、アマテラスオオミカミの孫に当たる。

そして、終戦直後の墨塗りの教科書を前に、当時の古代史専門家さえただ呆然とするを得なかったというのが現実でした。殆ど墨塗りになってしまった教科書に、どうやって正しい歴史を記していくのか、余りの墨の多さに即座に対応することは不可能だったのです。

戦後の古代史は、いわば墨によって殆ど削除された戦前の古代史に代わり、全く新しいスタートであったばかりでなく、心酔してきた皇国史観を否定しなければならなかった日本人のすべての再スタートでもあったと思います。敗戦から立ち直っていく過程において、多くの人々は心の整理を行うためにも、正しい古代史を求めないわけにはいかなかったのです。

 

神典としての「記紀」からの解放

どのようにして古代史を構築していくのか

戦後になって、それまで抑圧されてきた古代史研究が自由になり、漸く古代史家は史実に基づく古代史の構築に専念できるようらなりました。しかし、それは神典としての絶対的な古事記、日本書紀から解放されたという反面、古代史研究の依って立つべき土台を見失わせることにもなりました。

戦後の混乱期には、それまでの皇国史観を否定するあまり、いきおい「記紀」の「神話や伝説は真実ではない」ということが強調されました。そのため、一時、「記紀」は全く古代史研究の材料としての価値を否定されそうになったのです。代わって実証的な方法として考古学がもてはやされ遺跡や遺物によって古代史を構築するのが唯一の正しい方法であろうというような風潮さえ生まれました。

しかし、第8講でも述べたように、戦前の皇国史観の誤謬とは「記紀」を古代史研究の材料とすることに誤りがあったのではなく、その扱い方・研究方法の誤りにほかならないのです。その方法が余りにお粗末でも極論すれば、およそ史料研究というに値しない、ただ皇国史観を根拠づける“神典”であることを正当化するための研究でしかなかったとさえ言えます。「記紀」の記述に反することを一切提示できない当時の政情においては史学研究の正しい方法としての史料批判はなされようもなかったのでした。

戦後のやみくもな考古学熱がさめ、古代史に対する冷静な追求姿勢が醸成されるにつれ、「記紀」が再び見直されるようになりました。それは、わが国の古代史の構築は、やはり唯一の史料というべき「記紀」を正しい方法、史料批判を行うことによってしかなされえないとしう認識が出てきたからです。

考古学が古代史研究にとって有力な方法であるとはいっても、遺跡や遺物からその時代の人間や言動、いわば歴史の中核となる人間の動きをすべて解明することはできません。文字で表されて歴史書、「記紀」を主たる手がかりとして、考古学や人類学・民俗学・言語学・地誌学・神話学などの研究成果も総合してより史実に近いと思われる古代史を構築していく緻密な作業こそが必要なのです。

この講座で記してきた古代史も、そうした「記紀」の史料批判と各学問分野の成果の総合によって私が構築したものです。

 

註 言語学

  人類の言語の構造・変遷・系統・分布、言語相互間の関係などを研究する学問。共時的、記述的研究と通時的・歴史研究的研究に大別される。

  神話学

  神話の起源、成立、発展、分布・機能などを研究する学問。特に19世紀以来、比較神話学の名称のもとに発展。

 

「古事記」「日本書紀」と古代史

「記紀」へのチャレンジ

一通りこの講座を終えたあなたへ、私が提案しておき

たいことは、是非とも一度は「記紀」の原典ら触れて

みられるとよいと言うことです。

私はこの講座で記したすべての古代史がそのまま真

実の古代史であるとは言いません。むしろ私が望むの

は、講座で述べられた古代史に対し、あなたが自分な

りの批判を加え、自分なりの古代史を構築されること

です。講座は、あなたが古代史を考える契機と成り考

えるための材料となることがその役割だと考えるの

です。

おそらく講座を終えたあなたは、古代史のおおまかな

流れは理解されたはずです。しかし、それはあくまで

私の構築した古代史にすぎません。いかに私が長年の

研究によって構築し、自信を持っている古代史である

と言っても明日には新しい証拠が発見されて覆され

るかもしれない。そうした不確定な部分が多分に含ま

れていることも事実です。とりわけ、時代を遡るほど

に史料は貧弱で史実として認定できる絶対的な証拠

は殆ど無く、状況証拠によって構築されているにすぎ

ないのです。端的に言えば古代史の大部分は史学家の

主観的な判断と推論から構築されたものです。

そうした古代史の状況であれば、この講座で開陳した

私の古代史も絶対的な古代史としてあなたに信奉し

て頂くものではなく、それに批判を加えることによっ

て古代史の理解を深めていただくことに大きな意味

があると考えるのです。そして、あなたが自分なりに

古代史を深め、私を含めて史学家の提唱する古代史に

批判を加えるとめにも、「記紀」に直接に触れておか

れることは意義あることと思うのです。

また、こうした堅苦しい議論は抜きにしても「記紀」

を読まれ、その記述を基にして古代史の多くの謎を解

明する楽しみを味わわれることは誰にとっても心を

豊かにすることに役立つに違いないと確信します。

 

 

「記紀」の概要

講座では随所に「記紀」を引用しました。古代史が「記

紀」を基本史料とせざるを得ない以上、当然と言えば

当然のことだともいえます。しかし、この「記紀」と

はそもそもいかなるものなのでしょうか。講座の纏め

として「記紀」そのものにスポットを当て、そこから

古代史の構成のあり方について述べておきたいと思

います。

「古事記」は、その序文にしたがえば、和銅五年、712

年に太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の命に応じて撰上したもの

です。内容は序文と本文からなり、本文は神世の巻と

も言うべき上巻と人世の巻・歴代天皇の巻というべき

中・下巻から構成されています。上巻には(べつ)天神(てんじん)五柱(ごはしら)

に始まり、伊邪那(いざな)()伊邪那(いざな)(みの)(みこと)、天照大神・須佐(すさ)

之男(のおの)(みこと)大国主(おおくにぬしの)(みこと)邇邇(にに)(ぎの)(みこと)(うみ)幸彦(さちひこ)(やま)幸彦(さちひこ)

言った神々の物語がつづられ、中・下巻には神武天皇

の東往物語から推古天皇までのいわゆる人皇三十三

代の物語・歴史が綴られています。

ここで注目しておきたいのはその序文です。序文は三

段から構成され、一段目が本文の要約、二段目が天武

天皇を壬申の乱ほ平定した英主として讃え、天皇が国

家の基礎としてそれまでにあった「古事記」の撰録を

元明天皇の代に太安万侶が命じられたことやその撰

録方針を記しています。

 

註 元明天皇

  661-721年、斉明7-養老5年、第43代。在位707-715年。天智天皇第四皇女。名は安閇(あんへい)。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇を生む。文武天皇死後即位。在位中の事績には、平城京遷都、古事記、風土記の編纂などがある。

  

海幸彦・山幸彦

  山幸彦((ひこ)()()()(みの)(みこと))が兄の海幸彦(()(でりの)(みこと))と猟具を取り替えて魚を釣りに出たが、一尾をも得ず釣針を失い探し求めるため渡津(わたづ)海宮(みのみや)に赴き、塩椎(しおつちの)(かみ)の教えにより海神の(むすめ)と結婚、釣針と(しお)(みちの)(たま)(しお)(ひの)(たま)を得て兄を降伏させたという話。

 

一方、日本書紀しは養老四年、720年の完成。この編

纂事業の統括者は舎人親王ですが、序文などがないた

め、具体的な編纂事情は不明です。内容は神代二巻(

事記の上巻に対応)と人代の二十八巻、神武天皇から

持統天皇までの歴史が編年体で記されています。

「記紀」以前にも推古朝において天皇記や国記がつく

られていますが、それらの歴史書は蘇我氏滅亡の際に

消失したとみられます。そのため天武天皇は新たな史

書の編纂を計画されたのですが、完成にいたらず、要

約和銅五年に「古事記」として完成したのでした。し

かし、「古事記」は中国の正史と異なり、神話や伝説、

歌謡、祭祀・儀礼風習、歴史的記録が渾然とおさめら

れた文学的歴史書ともいうべきもので、本格的な歴史

書の編纂という要請から、さらに「日本書紀」が計画

されたとみられます。

いずれにせよ、「記紀」の構想は天武朝において、既

にその大枠が決定づけられていたわけです。従って、

私たちが「記紀」から史料批判によって正しい史実を

抽出していくに際し、天武朝のころから元明・元正天

皇の時代の政治的思惑というものも考慮しなければ

ならないのは言うまでもないことです。

 

天武朝と歴史の創作

天武天皇がどのような天皇であり、古代史上でいかな

る意味を持つ天皇であったかは、第48講で述べまし

た。一言で言えば、天武天皇は古代天皇制下における

中央集権的律令国家を完成された天皇、とりわけ天皇

権を確立して強力な皇親政治を行った史上はじめて

の天皇として特筆すべき存在でした。

その天武天皇の歴史書の編纂計画は、当然、天皇権の

確立と密接不可分のものだったと考えなければなり

ません。即ち、天皇の神聖性を確立し、その統治が神

霊に基づくものであるとして、絶対的に正当なもので

あることを根拠づけることが編纂事業の大きな目的

だったと考えられるのです。

それゆえ、講座の第一章でみたように、系譜の神聖化

のため、それまでに伝えられていた伝説の前に新しい

伝説をつけ加え、神と天皇を結ぶ系譜がつくられたの

です。つまり、初代天皇として伝えられていた崇神天

皇の前に、さらに初代神武天皇の物語と開化天皇にい

たる九代の天皇を加上することで「神代」から「人代」

へのつながりを説明し、天皇を神の子孫とすることで、

その統治を神聖で絶対なるものとして確立しようと

したのです。そしてまた、神の子孫である天皇は永久

不変であり、その地位が万世一系であるという思想が

律令制官僚国家のイデオロギーであり、それから千年

以上を経た戦前までの日本に脈々と生きのびていた

のでした。

こう見れば、神武天皇が伝説史上に誕生したのは恐ら

く天武朝のころであったと考えてよいでしょう。また

天皇権の神聖化や万世一系の皇統譜の創作という天

武朝以降の政治的な史書編纂目的を考えれば、「記紀」

の中に数々の架空の天皇や、系譜の創作が行われてい

ることは間違いないことです。

 

正しい古代史を知るために

史料批判の実践

「記紀」が編纂された当初はまさに古代国家の完成期

でした。その時代の要請から、必ずしも「記紀」は正

確な史実・伝承をそのまま伝えるものではなかつたの

です。

もとより、そのことには是非もありません。まして、

編纂から千三百年を経んとする今上天皇に対する私

たちの心情がそのことによって何か損なわれるとい

うこともないとと思います。

しかし、戦前の皇国史観に基づく過ちを二度と繰り返

してはならないことは言うまでもありません。

私たちは正しい古代史を今こそ「記紀」の史料批判を

通じて再構築していかなければなりません。厳密な史

料批判のフィルターを通して史実とそうでないもの

を識別し史実と認められるものによって新しく古代

史を構築しなければならないのです。その日本古代史

の再構築にあたり、私たちが留意しなければならない

のは、常に批判的精神を忘れてはならないことだと思

います。

日本の古代史は現在のところ、状況証拠に基づく仮説

の範疇を出ないもとの言っても過言ではありません。

絶対的な証拠が殆ど無いからです。そうであればこそ

戦前のようなお仕着せの古代史をただ受容するので

はなく、正しい古代史を知るために自らが批判的な目

をもって他者の古代史に接する必要があるのです。

あなたが、本講座で学ばれた古代史に自ら可否の判定

を下し、史料批判による古代史解明の姿勢をこれから

も堅持されていかんことを切に祈りながら、ここに筆

をおくことにします。

平成27年11月9日午後650分 筆写完成完了

実に22ヶ月かかつた。当年846ヶ月

                徳永圀典