ネオ騎馬民族説--仁徳王朝と騎馬民族
平成27年4月

1日

仁徳王朝と騎馬民族
「騎馬民族征服王朝説」に対し、古代史学界では否定的な批判が大勢を占め、この学説が受容される兆候はみられません。
然し、私は騎馬民族の日本侵入を江上教授の説より2-3世紀以上遡らせ、かつ騎馬民族の日本渡来を即座に大和国家の統一完了とし、それを大和朝廷・天皇家による国家確立とみないのであれば、必ずしも騎馬民族征服王朝は捨て去るべく学説ともいえないと考えます。
2日 私がそのように騎馬民族征服王朝説に対して修正的肯定意見を持つ最大の理由は、三王朝交替説におれる仁徳王朝の基本的性格が騎馬民族に由来していると考えるからです。
3日 水野説 私の仁徳王朝と騎馬民族についての見解に対し、井上光貞教授はその著「日本国家の起源」で「水野説においては、騎馬民族は渡来して直ちに大和を征服したのではない。一旦、九州に進入してその地の倭人を征服して小原始国家・狗奴国を形成した。そして何世紀か後に九州から大和へ入り征服王朝を開いたとする。
4日 江上説とは違う そして、征服者を第四世紀前半の崇神ではなく仁徳であるとした点で江上説とは大いに違っている。それはネオ騎馬民族説とも言うべき学説である」と言うように批評されています。この井上氏の批評は私の騎馬民族に対する見解を要約しているわけですが、今度はその「ネオ騎馬民族説」を見てみましょう。
5日 征服王朝の由来 三王朝交替説において、私は狗奴国王である応仁天皇が仲衷天皇の率いる原大和国家軍に勝利して崇神王朝を滅ぼし、応神天皇の子・仁徳天皇の時代に九州から畿内に移って強力な統一国家として日本に君臨したと述べました。仁徳王朝の前身は九州の狗奴国にあるというわけです。狗奴国とは南九州日向に本拠地をおき、遂には卑弥呼の女王国を滅ぼして九州を統一した国家です。
6日 仁徳王朝 その狗奴国から発した仁徳王朝は朝鮮植民地への執着が強く、南下策をとる高句麗とは常に戦闘状態にあると言ってよい状態でした。そうしたことから、軍事力維持・増強のためらは日本列島内における強力な支配権力の確立や軍事的資源の開発を宿願として絶えざる列島東部への征服戦争を行ったのでした。「征服王朝」というべきこの仁徳王朝は、常に強力な臨戦体制を組織したのです。
7日 こうした仁徳王朝の性格は一朝一夕に形成されたものとは考えられません。仁徳天皇の時代に突然にして組織化されたというようなものではなく早くから支配体制として存在していた基本的なものだと考えられます。
8日 狗奴国とは 軍事組織などは、臨戦体制に即応できるような体制が伝統的に備わっていたと見られます。それは仁徳天皇や応神天皇の以前から、つまり狗奴国の時代から既に国家体制として組織化されていたのですそれでは、そうした征服王朝としての性格を持っていた狗奴国とは、一体どのような国家だったのか。
9日 数世紀をかけた騎馬民族による大和統一
狗奴国とは、朝鮮古語で解釈すれば「ク=大きな」・「ナ=土地・国」となって大国と言う意味を持ちます。また、この狗奴国の前、北九州には西暦紀元前後から既に「奴国」が倭の一国として知られています。奴国は通商航海民の建てた国です。
10日 奴国は初め「漢委奴国王」の金印で知られるように、九州の倭国を代表して中国に朝貢するような勢力を持っていましたが、次第に背後の農業立国として発展してきた女王国連合国内の諸国に圧迫されたのでした。その為、奴国の支配者の一部は奴国を去り、日向に新天地を求めて移動し、その地の先住民を征服して一つの国家を建てたのです。これが狗奴国です。
11日 狗奴国の支配者層は奴国の王族であり、常に戦闘的な組の組織(久米部)を有した古代航海者でした。狗奴国はその伝統的な航海技術によって九州東岸を南下し、組によって海人部族や隼人族などを従え、まさに大国を組織します。
12日 そうして、遂には北九州の筑後平野に進出し、第三世紀後半に女王国を滅ぼすまでに強大化したのです。狗奴国はその後、第四世紀後半に崇神王朝を滅ぼし、第五世紀初頭には畿内へと移動していった仁徳王朝へと続くわけですが、その出身を数世紀遡れば奴国に行き着くわけです。
13日 紀元前第二世紀 奴国やその母体と見られる狗奴韓国は、北鮮から南鮮に分布した貊系民族と同系統の北方アジアのツングース系騎馬民族を主体とした国であったと私は考えます。そして、この騎馬民族の日本への移動は諸韓国や奴国の成立時期などから推測して、およそ西暦紀元前第二世紀ごろと見るのです。
14日 こう見れば、仁徳王朝が朝鮮情勢に詳しく、またその植民地に執着し、百済と手を結んだのも、支配者層が百済王家と民族的に同系統であり、古くから密接な関係を保っていたからだと考えることも出来るわけです。
15日 原大和国家を併合 また、日向の狗奴国が九州を統一し、さらに原大和国家を併合して大和地方に東遷したと見ることで、日向神話と神武天皇東征説を結びつけて史実の反映としての神話・伝説を正しく理解できると思います。即ち、神武天皇の東征伝説は、仁徳天皇の難波遷都を反映したものと理解できると考えるのです。
16日 以上が私の唱える「ネオ騎馬民族説」ですが、このような説に対し、江上教授も古墳文化との関連から修正・補強されて「騎馬民族征服王朝説」を主張されています。それを次講でみていくことにします。
17日 註 
久米部
古代の部の一。伴造久米国に率いられ大伴氏に統率されて宮廷の警衛・軍事にしたがった。
32講 騎馬民族説の検証騎馬民族説と古代史の問題点
18日 不連続面はないか 古墳時代に不連続面はないか
江上教授は「「騎馬民族征服王朝説」の修正説の中で、その騎馬民族説を裏付ける重要な根拠として、前期の古墳文化と中・後期の古墳文化とが根本的に異質であるということをあげられています。
19日 まず、その古墳文化の不連続性についての江上教授の見解から見ていきましょう。その論旨は次ぎのようにまとめられています。
20日 弥生古墳の系統を継承 前期古墳の棺や(かく)による埋葬法は、弥生古墳の組み合わせ石棺や箱式石棺の系統をひいている。また、副葬品も鏡・(ぎょく)・石・鍬石・車輪石などの宝器的・(じゅ)(じゅつ)的な性格のものを主としており、こもまた弥生古墳の系統を継承している。
21日 しかし、中・後期古墳(江上教授は、これをまとめて後期古墳とする)は、組み合わせ木棺や長持型石棺のように大陸系・中国系の木棺・石棺に変わり、竪穴式石室ではなく、大陸系の横穴式石室が採用され、さらには石室を壁画で飾るといった大陸系の装飾古墳まで現れている。
22日 そして、副葬品も宝器的なものより実用品をそのまま副葬するようになり、武器や馬具、日常品の石製模造品が大量におさめられ、大陸の墳墓にみられる副葬品とその性質が類似している。
23日 副葬品の武器・馬具・装身具の殆どは、第三世紀から第五世紀にかけて満州・蒙古・北シナ方面で活躍した北東アジアの騎馬民族・胡族のそれと殆ど同類である。
24日 北方アジア的 以上のことから、中・後期古墳文化は、弥生文化とその文化を継承する前期古墳文化の呪術的・祭祀的・平和的・東南アジア的・農耕民族的性格を著しく希薄にし、現実的・戦闘的・王侯貴族的・北方アジア的・騎馬民族的性格を顕著に表していると言える。
25日 このように、前期古墳文化と中・後期古墳文化はその性格において本質的な相違が見られ、その間には一貫性・連続的継続性は欠如しており、両文化の間には急転的。突発的な文化変化があることに注目するべきである。
26日 鍬形石
古墳時代の碧玉製腕飾り。巻貝製の貝輪を模したもので形が鍬の先に似ている。
27日 車輪石
 古墳時代の石製装身具で、腕飾りの一つ。弥生時代に用いられたかさがい製の貝輪を模して碧玉で作られ、前・中期に盛行。
28日 原稿の区切りの都合により今月はこれまで。5月1日再開。