日本、あれやこれや その60
平成21年4月度

 4月1日 名君・島津斉彬(なりあきら)あれこれ
独立  

幕末の名君・島津斉彬候は、時代の流行であった鎖国・攘夷論者ではなく、「鎖国を上策と心得たり、日本国を唯一の世界と思うのは間違いである。外国との交際と貿易を大い

にすべきで、その交際の精神は、平和親善でなくてはならない。
ただ、その為には、国防を盛んにし、外国からの侮辱に対しては断固たる態度をとらねば独立を失う」と絶えず重臣たちを諭していた。
 4月2日 豪華な人物   島津斉彬候は、幕末のぎりぎりの風雲期を迎えることなく死ぬが、この人間として才能、人格ともに豪華としか言いようのない政治的人間を失った日本 史は、幕末の政治劇のために予定された最大の名優をその開幕直前に失ったと言っても言い過ぎではなく、むしろ言い足りないくらいであろう。
 4月3日 殖産興業 斉彬は嘉永四年に家督を嗣ぎ、安政五年に急死しているから藩主であった期間は僅かに七年しかない。
この間、このたった一人の人物がやった治績は驚くほど多い。
彼は西欧なみの産業国家にしようとして、まず動力の電気に着目した、水力発電所をつくり、その電気をもって有線電信機を作動させ、鹿児島城内の本丸と二の丸のあいだにそれを設けた。
 4月4日 薩摩防衛 また鹿児島防衛用の沈置水雷をつくり、外国艦が侵入した場合、送電によって爆発させるようにした。鉱山用の送電地雷もつくって、実用に供した。 またオランダの技術書によって西洋式の火薬の製造を開始したが、その質はむしろ舶来火薬よりも良質だった。
 4月5日 土佐藩主・山内容堂、また
松平春嶽の
斉彬評
「薩摩守、島津斉彬は、天資(てんし)沈毅(ちんき)、その量は(こう)(かい)の如く、その()(たい)(ざん)のようである。而も彼のひきいる薩摩藩は、士鋭く、馬(あが)る」。 斉彬と薩摩藩の士風を恰も春秋戦国の国家を論ずるように表現した言葉である。
松平春嶽は「英雄とは実に斉彬公の如きを言う」と遺している。
 4月6日

斉彬と西郷隆盛

斉彬の優れた叡智の伴った西郷隆盛への情愛を、元来、忠誠心の強い西郷が戦慄する思いで感じ続けていたのである。
この斉彬との一体感が、西郷の生涯に於いてかれの最後(つい)の情熱の目標になった。
島津斉彬は幕末、様々な人物の中で、その識見、才能は第一等であった。
西郷隆盛は、この斉彬に見出され、家来というより弟子として薫陶を受けたのである。
西郷は終生、斉彬の遺臣だと自らを規定したいたのである。
 4月7日 幕末・明治初期の国士的人物

吉田松陰、坂本竜馬、勝海舟、山岡鉄舟、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、板垣退助、岩倉具視。

高杉晋作、木戸孝允、福沢諭吉、小栗上野介、大隈重信、津田出、副島種臣、徳川慶喜。
 4月8日 坂本竜馬 幕末で、国家のグランドデザインを持っていた唯一の人材であったと思われる。
「船中八策」である。維新を躍進させた男。
勝海舟との運命的な出逢い、勝海舟は神戸の海軍塾の塾頭に坂本竜馬を選んだ。
 4月9日 勝海舟 幕臣ながら気骨ある天晴れな度胸、徳川慶喜に徳川幕府の葬送を委嘱された男。国家という建物解体の立役者。 西郷隆盛との会談、江戸城無血開城は、世界史上、最も格調高い歴史的事績である。
英傑なる両雄の存在は日本の幸運であった。
4月10日 徳川慶喜 家康以来の傑物と云われた、鳥羽・伏見の小さい戦いの後、水戸に退き、自分は歴史の彼方に消えうせた。 只管、恭順、一切手向かわない、勝海舟に全権を委任して隠遁、これも歴史観無き帝王なら出来ないことであろう。
4月11日 無心の西郷隆盛 この人物は、「巨魁」としか言いようのない人間離れした超人的大人物。徳川幕府を滅亡させ、日本の革命を成し遂げた張本人だ。 だが、西郷は、それまでで、新しい世界の時運に乗り切れない余りにも、超大物の古風な日本人であったのか?
4月12日 大久保利通

徳川幕府を西郷と共に倒した後、征韓論問題で下野し薩摩に帰った、盟友西郷隆盛の後、近代国家・日本建設の原動力となった人物である。大久保利通の次男は、明治の大物・牧野伸顕で、現総理・麻生氏の四代前の祖父である。自己と国家を同一視した男。

大久保の才能、気力、器量、そして無私、奉公の精神は、当時の政治家では抜きん出ていた人物である。今日に至るまでの日本の制度の基礎を作ったのが大久保利通である。沈着・剛毅・寡黙、自己と国家と一体の大人物であった。
4月13日 盟友の筈が 大久保利通が西郷隆盛に、「お前さぁは、いつもそうじゃ。こまったことになると(おい)のみ残して何処かへ去る」と凄惨な表情で言ったことがある。 それは、明治四年、西郷の征韓論が否決されて西郷は薩摩に隠遁した時である。この時期には西郷と大久保は国家観について世界観が全く異なっていた。
4月14日 廃藩置県 廃藩置県は、これこそ「革命」である。藩主と当時の武士が一斉解雇されたのである。これこそ維新の核心であろう。 その中心的存在は、やはり薩摩であった。全国の武士の鬱々たる不満が西郷隆盛を西南の役に追いやって廃藩置県の不満を一挙に爆発させたとも言えるのではないか。
4月15日 武士道・プロテスタントの共通点 明治という時代は、内村鑑三のキリスト新教・プロテスタンティズムと不思議なくらいマッチしている。江戸時代から継承の武士の精神が残っており、混交した「明治気質」とでもいうべきものがあった。 それは、勤勉、質素、自律、自助、倹約、これはプロテスタントの特徴でもあり明治と実にマッチする。だから、武士たちは廃藩置県で失職しても我慢できたのであろう。それは、農民、商人、町民とて同様であり、頼もしい程に素朴な国民の力の源泉でもあった。
4月16日 明治維新の背景 18世紀は英国を皮切りにして、産業革命が欧米先進各国で興り、有り余る商品を、世界中の古代的な羊たちに売りつけることで後進国の国境の観念が変化した。その結果、富は列強に偏在し、古代的国家は愈々貧しくなり、政治形態や暮らしの在り方まで激変せしめた。 英国の商品は、インドを支配しただけでなく、英国は軍事力を以て、インドという市場を守り、遂にはこれを植民地化し、更には別の帝王とも言える中国にも手を伸ばした。
その段階で、日本は戦慄し、幕末の乱が起こり明治維新へと
?がったのである。
4月17日 再び、勝海舟 海舟は日本歴史上、異様な存在と言いうる。当時の海軍伝習所の指導団長であったカッテンディーケは回想録に書いている。 艦長役の勝海舟は、オランダ語をよく理解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆、非常な信頼を寄せていた。どのような難問題でも、彼が中におれば、オランダ人も納得した。彼は万事、すこぶる怜悧であった。
4月18日 船中八策

坂本竜馬 

一、
天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。

一、
上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
4月19日 船中八策@

一、
有材の公卿・諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。

一、
外国の交際広く公議を採り、(あらた)に至当の規約を立つべき事。
4月20日 船中八策A

 一、
古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

一、
海軍宜しく拡張すべき事。
4月21日 船中八策B

一、
御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

一、
金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
4月22日 船中八策C

一、
御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

一、
金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

4月23日 船中八策D

 以上八策は、
方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。

いやしくも此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏して願わくは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
4月24日 船中八策
口語訳
土佐藩士の坂本竜馬は尊皇倒幕の勢いが強まる中「幕府を支持する藩はまだ多い、無理に武力で討伐しようとすれば内乱が起きるし、そうなればイギリスやフランスの外国勢が干渉してくるので平穏に事態を解決したい」 と考え1867(慶応3)6月長崎から上洛する途中、船中で新しい政治の方針をまとめたのである。 口語訳すれば、次の通りである。
1、政権を朝廷に返すこと
1、上下の議会を置き、すべて公論
に基づいて政治を行うこと
1、公卿・大名のほか世のすぐれた
人材の中から顧問を選ぶこと
4月25日
1、新しく国家の基本になる法律(憲法)
を定めること
1、外国と新たに平等な
条約を結び直すこと
1、海軍の力を強めること
1、親兵を設けて都を守ること
1、金銀の比率や物の値段を外国
と同じにするよう努め ること
この船中八策にもりこまれた竜馬の理想は慶喜の大政奉還により一つの実を結んだ。
竜馬はさらに新政府樹立にむけ奔走しましたが同年11同士の中岡慎太郎とともに暗殺され、
血を流さずに平和のうちに新政府をつくる願いは消えたが、この理想は明治政府に引き継がれ日本の近代化の礎となった。
4月26日 明治を支えたサムライ精神 サムライである。サムライ精神である。サムライとき何か、「自律心」である。一度、イエスと言った以上は、命懸けでその言葉を守る。 自分の名誉も命をかけて守る。敵に対する情け、さらに私心を持たない、また「()」に奉公せず、「公」に奉ずるということであろう。彼らこそ現代余り見当たらない真性日本人である。その精神の流れが明治維新を支えた。
4月27日 西郷の述懐 常々、西郷は、こう言っていたという「おいは、家を建てることはできる。しかしその家に人が住めるようにするのは、一蔵(大久保利通)さぁだ」と。西郷は、薩摩に隠遁し、若手に担がれて西南戦争に倒れ、維新の人間的矛盾を一人背負ったと言えよう。
西郷と大久保は幼馴染みであり、共に組んで倒幕を成功させ遂に明治維新の偉業を成し遂げた。時には冷徹とも見える大久保の行動力は日本を理想国家へとの情熱であった。先見性の確かさと実行力で日本の基礎を築いた清廉なる男であった。
4月28日
分かれた軌跡
倒幕の時の軍事面を担当する西郷の華々しい活躍、そして大成功裡に倒幕は成功した。大久保は、黙々と朝廷、幕府への対外工作に徹した。 西郷・大久保の両輪が実に巧くかみ合い維新の大業はなった。だが、その後、10年で二人は、歩みを分けた。西郷には、天は二物を与えずとなったのか。
4月29日
往韓論争の結果
この問題が西郷と大久保の軌跡を分けた。利通は、「富国強兵」、「殖産興業」を目指しまっしぐら進んだ。 それに対して隆盛は、命さえ捨てて、為したことは「後ろ向きの反乱」であった。「西南戦争」は、滅び行く士族と隆盛との最後を悼む「挽歌」であろう。
4月30日
アーネスト・サトー
明治維新前後25年も日本に滞在した英国人外交官である。風雲急な幕末の政治情勢に中を縦横に活躍、二度も実戦に参加して砲煙弾雨を潜り抜けたり攘夷の白刃に狙われ危うく命を免れたりした。外国人だが、明治維新の血生臭い事件や多くの困難な紛争を身をもって体験した男。動乱の幕末という日本歴史の実態を知悉していた。 西郷隆盛、木戸孝、伊藤博文を始め、倒幕の志士や反幕府的大名たち、また幕府の高官が、慇懃を尽くしてアーネスト・サトーの歓心を買うことにつとめた。白人に弱い日本人の特徴が幕末に見られる。これは第二次大戦後の日本の政情と一脈通じると思うのは私だけではあるまい。サトーの動向が明治維新の歴史に大きく影響したと信じられている。