岫雲斎の「老荘思想雑感」 その四

平成24年43月1日から4月30日  

1日

再び、老子に戻る。こんな言葉を私は紺珠に記録している。「大成は欠けたが(ごと)く、その用、(やぶ)れず。大盈(だいえい)(むな)しきが(ごと)く、その用、窮まらず。大直(たいちょく)(まが)れるが(ごと)く、大巧は拙なるが若く、大弁は(とつ)なるが若し。(そう)は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清浄(せいせい)にして天下の(せい)と為る」。 

2日

これの解説として、私は次ぎように意味を書き添えている。「真に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、幾ら使ってもくたびれない。本当に充実しているものは、どこか無内容に見えるが、幾ら使っても無限の効用がある。本当にまっ直ぐなものは、却って曲がれくねって見え、真の上手は下手くそに見え、本当の雄弁は訥弁に見える。動き回れば寒さがしのげる、じっと静かにしておれば暑さもしのげる。静浄無為の道に従えば天下の長になることが出来る」と。

3日

要するに、世俗的な秩序づけや価値観があっさり否定されている。常識的なこととか、価値判断は外見に欺かれやすく、人間の立場で考えたものは総て相対的なものに過ぎないということを老子は説いているのであろう。

4日

無為自然」、この言葉は老荘思想の基本理念を表している、また、隠遁の思想と見られている。然しだ、これは「為す無くして自ら然り」である。無作為でありながら然し、成し遂げてしまう事を説いているのである。これこそ「大知」ではないか。

5日

然し、これを実現するのは容易ではない。現実の乱世で例えサラリーマンでもそれは現下に不可能の言葉を投げられるであろう。身につけた学問とキャリアーを生かして剛直に生きたとしても成功するものではあるまい。

6日

老子には「無私によって私を成す」の言葉もある。私を捨て去るの意である。その私は小私である。それを棄てて悟る、無私により私を成す。これは小私を捨て去ることにより人々に慕われ押し上げられ「大私」になることだと老子は言う。これは人間社会での普遍的原理であろう。私情を限りなく捨てる、消去する、無報酬の行為であり、これは現代社会に欠けたやに見えるが、これのできる人物は、どのような社会、組織の中でも人の上に立つ存在たり得ると思われる。

7日

世間の流れとともに生きて、清濁に超然としている様相であり、老子の「和光同塵(わこうどうじん)」の境地であり、上善は水の如しの境地である。「上善は水の如し」の文は、「それ唯だ争わず、故に(とが)無し」で結句されている。これは災禍を免れる処世訓でもある。

8日

老子の言は逆説に満ち満ちているのだ。「天下は水より柔弱なるはなし。而も堅強を攻むるにも之に能く勝るなきは、其の以て之に易うる無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下に知らざるなきも、能く行うことなし」である。

9日

水ほど柔弱なるものはない、だが堅強なる岩石をも磨耗する。これは謙虚でありながら万人を潤す理想的人間像と重なる。これを政治論まで展開できると老子は考えたのであろう。水のように柔軟にして権力や武力に頼らずに平和的に天下を治められるとの老子一流の政治論となるのである。ここにこそ政治家のトップたるものの人の上に立つものの原点が示されているのだと私は確信する。

10日

多くの老子の名言の中の白眉とされる警句がある。「大国を治むるに、小魚を煮るが(ごと)し」がそれである。小魚を煮る場合、煮え具合を見ようとして、裏返したり、箸でつついたりすると、小魚は煮える前に身が崩れてしまう。そのままにしておくのが魚を煮る上策である。

11日

大国を治めるのもこれと同じである。法律や政令で人々をやたらと拘束するよりも寧ろ放任していたほうが上手に治まるというのである。無為の治であり、無為にして化すである。だが、人間の人智がここまで発達し、一方で昔のような道徳律を身につけていない大衆が圧倒的になった現代は、其の通りにならないのではないか。

12日

こざかしい人間の智慧、貪婪な欲望、それらが互いに衝突して限りない抗争を生む。この人間模様は絶望に近いほど世界的になった。社会の片隅で、ささやかに祈る人間もいるが、否、多くの国民はそう願っているのであろうが、怒涛のようなマスメディアは、そのような高等な人間の祈りは寄せ付けないで、人間劣化を促進するだけのプロパガンダの機関に過ぎなくなってしまった。社会大衆を善導するもののかぼそい存在を痛感する。

13日

そのような地上の人間集団、それでも時空を超えた万物の営みは営々として霊妙である。寸分の狂いもない大自然、昼夜・四季の運行、万物の誕生、生々発展、やがて死滅に向わせるが、その後に新しい生命が再び生み出される。片時も途絶のない営み、これは「道」としか言いようのない、おのずからなる営みのなせる業なのである。

14日

これが無為自然なのであろう。当に「為す無くして、自ら然り」である。道のいとなみは無為、無作為である。自ら然る状態の中で万物を生成化育しそれは完璧なものである。」無為にして而も成さざるはなし」なのである。

15日

このような道のいとなみを、道が造り出した万物の一つである人間の営みにも当てはまると老子は考えるのであろう。だから、人間も無為自然であれば何事も成し遂げられると・・。

16日

人間は知能の高い生物であるだけに、こざかしい知を働かせて作為的に生きようとする。また欲望の追求に熱心な生きものだ、それが人間を虚飾と贅肉の多い生活にかりたてて本質から遠ざかる。

17日-30日

老子は、このような人間の生活を否定するのである。作為を捨て、虚飾と贅肉を削ぎ落とすことにより、逆に言えば、このような小さな殻を投げ打ち大自然と一体化すれば、そこに計り知れぬ大自然の妙がいかされてくると見るのであろう。
今や、日本人は、大臣から小学生まで肥満体の、ぶよぶよ面相となり、現代日本人は精神が劣化しきってしまった。緊張感の欠けた弛んだ人相の国民となり器械で言えば、部品のネジが緩みきっており、いつ器械という国家が分解して使い物にならない器械となるか。それすら気のつかぬ国民となっている。これでは器械に相当する日本国そのものが分解してしまう断崖絶壁に位置している。
日本人は大自然に帰り、大自然の怖さを体験して生活の苛酷さを体感して精神の緊張を取り戻すしかなくなってきているのである。東北地震、来たるべき、東海、東南海、関東直下地震、南海地震で、日本人は緊張を余儀なくさせられるであろう。老子の精神は、まだまだ生きているのである。 

有用の用と無用の用

「人みな有用の用を知りて無用の用を知るなり」荘子の人間世篇に含まれるこの言葉を改めて噛み締めてみたい。

有用の者となることの危険さを説くこの言葉、無用の者の大過なき人生を尊ぶ。逆説的な言葉である。これは、目先の効用へ疑問を呈することでもあろう。日本人は有用であることを求めで現在行き詰っていると言える。こんな時こそも無用の用、一見役立たずのもの真価に気づかねばならないように思える。 
戦後日本の論理限界

日本は欧米から異端の国とか、言語自体が障壁だと言われる。とんでもない、言語でも日本語のレベルが高すぎるのである。貿易により成り立っている国だから、孤立は困るが、その為に立派な日本語を捨てて英語にしなくてはならぬ理由は無い。それでいて、國際貢献は必要と認識はしているが、自衛隊を外国に派遣すると派兵になるとか、武器は小火器に限るとか言ったものだ。危険な場所には自衛隊は出さぬとか実に異質な論議をやった。

これらに対する日本国として、日本人としての明快な姿勢と態度が打ち出されないままである。60年間も、自衛隊を軍隊と認めておらないし、有事に活用できない軍隊のままだ、これはオカシイ話である。国家を自分で守る、血を流しても守るということが分らない、平和ボケ日本人なのである。集団的自衛権を鮮明に打ち出せない、この甘ったれ戦後日本人のオオバカ野郎!!

沖縄基地など、中国に近すぎてアメリカは内心迷惑ではないか、グアムに移転の本音ではないか。日本人のこんな態度では、アメリカは逃げ出してしまうであろう。憲法改正をして、自分の国は自分で守るという事が打ち出せない日本人は、それ自体が隙であり、中国、北朝鮮、ロシア、韓国がその間隙を縫って侵入しているのが今日の日本の現状実態であろう。