昭和天皇のどこが偉大であったか その四

エドウィン・ホイトというアメリカの軍事史家、ジャーナリスト。週刊誌『Collier』の編集長、CBS・TV NEWSのライター、製作者を務めた。著書に「空母ガムビアベイ」がある。彼の著書の一つに「世界史の中の昭和天皇」がある。そして、昭和天皇のどこが偉大であったかと問いかけている。その著書「世界史の中の昭和天皇」の序文を引用して見よう。
平成23年4月

1日 このように昭和天皇は、自らを神聖な操り人形のするような軍部の考え方に反対し続けておられた。幾度となく天皇は侍従武官長にこのことに関して強い不満を述べておられる。
2日

西園寺公望公爵は天皇にこの議論の外におられるように忠告し続けたが、それは天皇そして自分自身を批判の対象にされない為であった。

3日

軍部首脳は、天皇が自らの神聖についてどのように感じておられるかを知りながらも、天皇機関説論争を続けた。教育総監の眞崎甚三郎大将は「天皇は神であり、この論争に関してはそれが全てだ」との指導方針を出していた。

4日

天皇は、この指導方針に直ちに反論しておられる。「もし専制政治の悪に繋がるのでなければ、また、諸外国に拒否反応を起させるのでなければ、そして、もし、我々の国家形態と歴史に違わなければ、私も天皇主権説を喜んで採用する。しかし残念ながら私はこの天皇主権説に関して傾聴に値するような理論や説明を聞いたことがない」と本庄侍従武官長に語っておられる。

5日

満州国皇帝の訪問に関して、陸軍大臣はある要求を携えて天皇に謁見した。それは天皇自身が皇帝・溥儀に「関東軍司令官に全幅の信頼を置いている」と告げて貰うことであつた。満州の日本軍は非常に横柄な態度を取っていたので満州国民は腹を立てており関東軍幹部さえやり過ぎではと不安になっていたのである。

6日

天皇は宮内大臣と相談して再び本庄侍従武官長を呼びこう告げた「軍の要求を受け容れるが、代わりに日本軍幹部と満州在住日本人に、満州人達に対する横柄な態度と不当な圧力を直ぐ改めさせるよう関東軍司令官に命じて貰いたい。さもなければ司令官を信頼しているという私の言葉は嘘になってしまう」と。

7日

19356月中国北方で再び争いが発生。(チャハル事件)関東軍と天津日本軍守備隊により起されたものである。軍はいつも高飛車な態度でこれに対応し中国軍も最終的にはやはりそれに屈した。

8日

軍は自らの権利と中国に於ける地位の正当性について再度主張したが天皇はその真相をご存知であった。その月、新しく大使となった蒋作賓が皇居を訪問した。この時、天皇は儀礼の枠を越えられた行動をされたのである。 

9日

蒋作賓・中国大使に対して、天皇は、最近の中国北方での混乱を憂い、この難題が解決したことに感謝の意を表された。「その解決は、蒋介石総統と王精衛の二人の努力によるところが大きい。大使から私が感謝の意を表しているとお二人に伝えて下さるよう希望します」と述べられたのである。

10日

この発言に、軍は激怒した。軍に何の断りもなく天皇じきじきに言わしめるとは大変な軍に対する侮辱であるというものであった。しかし、天皇は動じられなかった。

11日

613日、岡田啓介首相が謁見に来た時、天皇は彼に、内閣は海外にいる軍部の言うがままになることのないように、強い態度で臨んで欲しいと言われた。

12日

結果として、眞崎大将が教育総監の地位を追われることになったが、この更迭処分は、当時、「天皇」対「軍部」の力関係は、天皇が本気になれば天皇側が優位になるということである。だが、これはあくまでも国家の命運を左右するような問題に関してということである。

13日

青年将校が軍首脳部に代り実質的な権力を握り命令を発するような状況―下克上を引き起こした張本人の一人は真崎甚三郎大将であった。熱心な支持者は相沢三郎中佐であった。

14日

1935812日、相沢中佐は、陸軍軍務局長・永田鉄山少将の部屋に押し入り軍刀で斬殺した。永田の為に尊敬する真崎大将が失脚させられたと信じたのであった。

15日

永田暗殺の結果は、林陸相の辞職となる。これは軍隊内部の二派閥の対立に拍車をかけることとなった。青年将校の反乱の兆しが強まっておりどう対処すべきか天皇のジレンマが続いていた。

16日

19359月半ば、イギリス国王ジョージ五世の特使・フレデリック・リースロス公が来日された時のことである。ジョージ五世は天皇と共に中国に於ける緊張を打開しようとされていた。

17日

リースロス公より伝えられたメッセージはジョージ五世が中国状態について深く憂慮しており、また中国に於けるイギリス権益同様、日本の権益に就いてみ配慮しているというものであった。そして日本とイギリスが協力して中国問題を解決することが大切であるというものであった。

18日

天皇は、この英国王からのメッセージを好機として、中国での日本軍に対する天皇自身の感想を政府に告げたのである。そして侍従長と宮内大臣に対し、英国王に対する自分の返答を作成する場合は外務省と綿密に打ち合わせするようにとも告げられた。 

19日

天皇は、英国王への返書を作成する際に、英国王と自分の気持ちが全く同じである、ということを作成者に確認させたかったのである。陸軍大臣にも伝えるよう武官長にも告げられた。

20日

2.26事件のことである。227日、日本の首都・東京は戒厳令下にあった。政府高官や皇族が、こもごも新内閣を組閣するように天皇に勧めたが天皇はこれを拒否し続けた。

21日

本庄武官長は皇居の執務室に赴き、反乱軍を弁護し、若い士官たちは天皇に忠実であるが故に、あのような行動に出たと進言した。

22日

しかし、天皇は「彼らは私の最も信頼していた側近たちを殺した」と反論された。「その行為に言い訳はきかない。これは私を殺そうとするのと同じだ」と答えられた。

23日

本庄はなおも説得したが、天皇は動じられなかった。それどころか、反乱軍を鎮圧する気配を見せようともしない軍幹部に対して、怒りを露にされ、天皇自ら近衛兵を指揮して反逆者を鎮圧する意思のあることを再び示唆された。

24日

2.26事件二日目、天皇は本庄から「軍は反乱軍を鎮圧しました」という報告がくるのを終始待っておられた。しかし、軍上層部は反乱軍に同情しており本庄は吉報を天皇に持って行く事は出来なかった。

25日

その夜、皇族会議が開かれ、説得工作など、反乱軍を厳罰に処さなくてすむ道はないか、色々と模索した。天皇の弟・秩父宮は現役将校であり、反乱軍の何人かの指導者とも親しい。

26日

秩父宮は午後5時過ぎ上野駅に到着し、警察の護衛を伴い皇居に向った。皇族会議で皇族は色々な意見が出された。だが天皇は、それら全てに反駁された。これは紛れの無い反乱であり、もし彼らの要求を一つでも呑めば、今後彼らの行動を一切コントロールしないという意志表示表明になる。

27日

天皇は、断固として皇族たちの意見に屈されなかった。結局、皇族全員が天皇の意見に従うことで合意した。秩父宮は友人の野中大尉に撤退するよう伝言を託した。

28日

その晩、真崎、阿倍、西らの大将は反乱軍指導者に「君たちは敗北したのであり、天皇陛下の意思に従わなければならない」と漸く告げた。反乱軍はこれに同意したようにも見えた。三ヶ目の228日、本庄武官長は反乱軍が降伏を拒否したことを知らされた。これは彼にととり破滅的な知らせであった。彼の面目は大いに失墜した。完