老子・荘子を読む その四 3月18日から「荘子」

平成21年4月度

 4月1日 来たるものを拒まず・・ その(きた)たるや(しりぞ)くべからず。その去るや(とど)むべからざるなり
     (田子方篇)
私は、これといって人様より優れている点があるわけではないし。思うに、地位や名声というものは、向こうからやってくるのを拒むことはできないし、逃げて行くのを無理に引きとめることもできない。
だから、やって来ようが逃げて行こうが自分には関り無いことだと思っていっこうに気にしないのである。これは楚の国の評判高い賢者・孫叔敖(そんしゅくごう)の言葉である。
 4月2日 束の間(つかのま)の人生

(ひと)、天地の(かん)に生くるは、白駒(はっく)(げき)を過ぐるが(ごと)く、忽然(こつぜん)たるのみ」 
    (知北遊篇)

白い駒、(げき)は隙と同じで戸の隙間。荘子によれば、人間がこの世にあるのは仮の姿、変化の中の一つの過程に過ぎない。だから、生まれて来たからと云って、喜ぶこともないし、死んで行くからと云って悲しむこともないと云う。

 4月3日 人知を超えたもの 至言(しげん)(げん)()て、()()()()つ。()の知る所を(かぎ)りとすれば(すなわ)(あさ)」 

    (知北遊篇)
 
言葉では表現し切れない深いものがある。行為も最高のものにしようとすれば作意を捨てなくてはならぬ。知識も、人間の理解し得る範囲に限定すれば、どうしても底の浅いものになる。荘子は「無為自然」が念頭にあったのであろう。人知の中で満足していては底の浅い知識しか持ち得ない。人間としての器量まで浅くなる。
 4月4日 歳計(さいけい)

()にこれを(はか)りて()らず、(とし)にこれを計りて余りあり



(庚桑楚(こうそうそ))

庚桑楚(こうそうそ)は無為自然を体得した人物、彼は利口ぶる召使、仁者ぶる女中にみな暇をだした。そして愚かな人間や気のきかない連中ばかりを手元においた。不思議なことに彼の徳に感化されて村は目に見えて豊かとなった。その日その日の勘定は合わずとも長い目の帳尻が合えばそれでよいのである。日計よりも歳計、歳計よりも十年の計、十年の計よりも一生の計で対処したいものである。
 4月5日 身の置き所

函車(かんしゃ)の獣も(ひと)りにして山を離るれば則ち罔罟(もうこ)(うれ)いを免れず。呑舟(どんしゅう)(うお)(とう)して水を失えば(すなわ)(あり)()くこれを苦しむ

(庚桑楚(こうそうそ)篇)

どんな人物でも身の置き所を誤ると、折角の能力を発揮できないばかりか、自分の身すら危険にさらされるという意味。荘子はつけ加えている、「だから鳥や獣はできるだけ高い所に逃げる、魚や亀は身を潜めて安全を図る。人間も同じこと、与えられた生命を全うしようとする者は、出来るだけ人目にさかぬ所に身を隠そうと努めるものだ。俺が俺がとしゃしゃり出て行く人は進んで危険の中に身を置くようなものだ。 
 4月6日 心ゆたかな人生は (なんじ)(かたち)(まっと)うし、汝の(せい)(たも)ち、汝の思慮をして営々(えいえい)たらしむること(なか)

(庚桑楚(こうそうそ)篇)
心豊かな人生を送るのに、どうすればいいか。庚桑楚(こうそうそ)という(いん)君子(くんし)の答えである。
「そなたの肉体を全うし、そなたの生命を安らかに保ち、余計なことを、あくせく思い患わぬようにするがよい」という。
汝の思慮をして営々・・、毎日、怒ったり悩んだりしたことが、一週間とか一カ月も経つときれいに忘れ去っていることが多い。
随分とつまらぬことに拘泥していたと反省させられるものだ。
心の健康にマイナスである。
何故、かくもツマラヌことに拘るのか、それは、一面的な価値観に災いされているからだ。
 4月7日 煩悶は生を全うせず

不仁(ふじん)なれば則ち人を害し、仁なれば則ち(かえ)って我が身を(うれ)えしむ。不義(ふぎ)なれば則ち彼を傷つけ、義なれば則ち反って我が()を愁えしむ

(庚桑楚(こうそうそ)篇)

義と仁は人倫の規範、「仁」は他人への思いやり、いたわり。
「義」は人間としての正しい道。
この二つが欠けていると人を傷つけたり害する。
仁は他人を助けたい気持ち、だが中々実行が難しい。
義は曲がっておれば正したい気持ち。
これらの中で我が身を愁うのが大方の人間の実情。それらに捉われて苦しむのは生を全うする所以ではないというのだ。
 
 4月8日 身を委ねる ()きて()く所を知らず、()りて()す所を知らず、物と委蛇(いい)してその波を同じくす。これ衛生(えいせい)(けい)のみ
(庚桑楚(こうそうそ)篇)
 

衛生は養生、与えられた生命を全うすること。
「経」とは不変の真理。
それは、「歩いていても、どこに向うかという目的意識も持たない、坐っていても何をしようかという思慮分別も持たない、ただ外界の動きに身を委ねて少しも逆らわない」
 4月9日 身を委ねる

大いなるものの意思を受け入れ、自然のリズムに合わせて生きてゆく、そのような生き方を言う。これを具体的に荘子は次のように指摘する。

@自分のペースを守り、見失わない。
A根本原理を把握して吉凶を判断する。
B能力の限界を心得て危険に手を出さない。
C頼るのは飽くまで自分。
D拘りを捨て愚者のように無欲、赤ちゃんのように無心になる。
4月10日 包容力に欠ける人間は

人を()るる(あた)わざる者は親しむことなし。親しむことなき者は人を尽くす

(庚桑楚(こうそうそ)篇)

他人を包容していけない人間は親愛の情に欠けている。
親愛の情に欠けている人間は、他人を容赦なく痛めつける。
そのような人間は一時的に成功しても、長続きしない。
包容力に欠けるからである。
4月11日 包容力の第一歩 荘子の言う包容力の身につけ方は
物と(むな)しくする者は物()る。物と(はば)む者は、その身すらこれ()るる能わず。()んぞ能く人を容れん」である。
他人に対して、自分を虚しくすることが出来れば全ての人間が慕い寄ってくる。逆に、他人に対して壁を作るなら自分の身さえ受け入れることができない。まして他人を包容することなど無理な相談だ。わかり易く言うと、人と話すとき、相手の意見にじっくり耳を傾ける。これは包容力の第一歩である。
4月12日 無為自然こそ

(こう)は陰陽より大なるはなく、天地の間には(のが)るる所なし。陰陽これを(そこな)うにあらず、心則ちこれを使()しむるなり



(庚桑楚(こうそうそ)篇)

(こう)とは敵のこと。人間の敵は、陰陽の調和が破れるほど大きな敵はない。そのような事態になったら、この広い世界、どこにも逃げて行くところはないと云うのだ。世界は、陰と陽のバランスの上にあると考えた中国人。だが、荘子はいう、陰陽の不調和は人間を害する大敵だが、根本は、陰陽の気が人間を害するのではなく、実は自分の心の乱れがそうさせるのだという。どんな事態になっても、慌てず騒がず平常心で対処する為には、無為自然の大いなる道を体得するしかないという。
4月13日 形式に(こだわ)らない 1 至礼(しれい)は人とせざるあり。()()は物とせず。()()(はか)らず。至仁(しじん)は親しむことなし。()(しん)は金を(しりぞ)

(庚桑楚(こうそうそ)篇)
最高の礼というものは他人だということを意識しない。
最高の義というものは対象を差別しない。
最高の知というものは、(はかりごと)をめぐらさない。最高の仁というものは、親愛の情を見せない。
最高の信というものは、証文を必要としない。
 
4月14日 形式に(こだわ)らない 1

至礼(しれい)は人とせざるあり」について荘子は、仮に市場での人ごみの中で他人の足を踏んだらどうするか。大概の人は「失礼しました」と言い丁寧に詫びることはしない。処が踏んだのが兄の足であったら、軽くさすっただけですまし、親の足なら別に改まった挨拶などしないであろう。最高の礼というものは、形式などに囚われず自ずから通じ合えるものがあれば、それでよいのかもしれない。

()(しん)は金を(しりぞ)」の金とは、誓約のしるしに用いる黄金製の品物、婚約の時に交換される金の指輪のようなものだ。
信頼できない相手からそんなものを幾つ貰った処で何の足しにもならぬ。逆にお互い信じ合っておれば改めてそんなものを交換する必要はないのである。
4月15日 本生を全うする 民を愛するは民を(そこな)うの始めなり。義をなし兵を()むるは、兵を()すの(もと)なり

(徐無鬼(じょむき)篇)
民を愛するとか義のため、平和のためという言葉は恰好いいが、結果はきまって民を害い、戦争を引き起こしている。どうしても、心の安らぎを得たいということであれば、何よりも先ず、己の本性を全うし、無為自然の道従うことだという。そうすれば自ずから世の中は平和に治まるので、こと改めて平和を語ることもなくなるという。 
4月16日 治世と馬飼い

天下を(おさ)むる者は、また(なに)を以ってか馬を(やしな)う者に異ならんや。またその馬を(そこな)う者を去らんのみ
(徐無鬼(じょむき)篇)

天下を治めると言っても、馬を飼うのと別に何の変わりもありません。馬の本性を害するものを取り除いてやるだけのことですよ」。
4月17日 賢と謙虚 (けん)を以って人に(のぞ)めば、いまだ人を得る者あらざるなり。賢を以って人に(くだ)れば、いまだ人を得ざる者あらざるなり

(徐無鬼(じょむき)篇)

徳を人に分かつ人物を聖人、財を人に分かつ人物を賢人という。この賢を鼻の先にぶらさけで人々に臨めば総スカンを食らい、賢ではあるが、謙虚な態度で臨めば、人々の支持を集めることができる。

4月18日 沈黙 (きゅう)不言(ふげん)(げん)を聞けり
(徐無鬼(じょむき)篇)
丘とは孔子の名、楚王から政治のコツを聞かれた孔子が答えた言葉である。「言うは言わざるに()かず」という言葉がある。能弁より沈黙が説得効果も高い。 
4月19日 人物論 (いぬ)()()ゆるを以って(りょう)となさず。人は善く言うを以って(けん)となさず

(徐無鬼(じょむき)篇)
(りょ)(しん)()という明代の人は、その著書「呻吟語(しんぎんご)」で、人物を三ランクに分類している。
深沈(しんちん)重厚(じゅうこう)なるは、これ第一等の資質、
磊落(らいらく)(ごう)(ゆう)なるは、これ第二等の資質、
聡明(そうめい)(さい)(べん)なるは、これ第三等の資質」と。
4月20日 田舎者その一 濡需(じゅじゅ)なる者は(ぶた)(しらみ)これなり。()(りょう)(えら)び、(みず)から()って(こう)宮大囿(きゅうだいゆう)となす
(徐無鬼(じょむき)篇)
濡需(じゅじゅ)なる者とは、外に広大な世界のあることも知らず、飲んだり、食ったり、泣いたり笑ったり、日常的な生活の中に埋没している人間のことである。荘子によれば、それは豚にたかっている(しらみ)のようなものだという。何故なら、ブタの毛のマバラナ背中のあたりに住みついて、恰も大邸宅に住んでいるかのように太平楽をきめこんでいるからである。
4月21日 田舎者その二 だが、ブタの虱の太平楽は束の間の平安に過ぎない。やがてブタ殺しがやってくると、ブタを殺して下から火をつけると、虱もブタと共に丸焼きにされる。大状況が変われば、小状況の平安など、あっと言う間にふっとんでしまう。 人間も同様、狭い世界の富貴栄達に安住して広大な世界に目ざめない限り、本当の平安は得られない。そこに濡需(じゅじゅ)なる者の危うさがあると荘子はいう。 
4月22日

蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争

所謂(いわゆる)(かたつむり)なるものあり、(きみ)これを知るか
(則陽篇(そくようへん))
蝸牛(かぎゅう)、かたつむりのことである。蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争いという言葉がある。小さい蝸牛の(つの)の上の争いで、小さい問題を争点にする愚かしさを言う。
4月23日 人間の本性と
社会の関係
(ちから)足らざれば(すなわ)(いつわ)り、知足(ちた)らざれば則ち(あざむ)き、財足らざれば則ち盗む
(則陽篇(そくようへん))
力が足りなかったら、ごまかすようになる。
知が足りなかったら、だますようになる。
財が足りなかったら、盗みをはたらくようになる。
人間と言うものは、ややもするとこういう方向に走り勝ちなものだという、だから、力や知や財を重視する社会では偽りや欺きや盗みは後を絶たないということになる。
 
4月24日 六十に六十化す きょ(きょ)(はく)(ぎょく)行年(こうねん)六十にして六十(ろくじつ)()す。いまだかってこれを()とするに始まりて(おわ)りにこれをしりぞくるに非を以ってせずんばあらざるなり
(則陽篇(そくようへん))
六十になるまでに六十回も自分の生き方を変えた。初めは正しいと肯定したことでも、終わりには間違っていたと否定しないことは、一度もなかった。
淮南子(えなんじ)には「
きょ(きょ)(はく)(ぎょく)年五十にして四十九の非を知る」とある。
4月25日 変化の原理 随序(ずいじょ)のあい(おさ)むる、(きょう)(うん)のあい使()しむる、(きわ)まれば則ち(かえ)り、終れば則ち始まる

(則陽篇(そくようへん))
随序のあい理むる、これは陰陽の変化、四季の移り変わりが秩序正しく行われること。橋運のあい使しむるとは、はねつるべの反覆運動が規則正しく行われること。そのような変化や運動は、「行きつく所まで行けば、また元に戻り、終ればまた初めに返っていくのが自然の道理である。この世の中の全てのものは、このような有為(うい)転変(てんぺん)を免れない。人生もまた然りなのである。
4月26日 変化は宇宙の原理 易経にもある、「窮すれば則ち変ず、変ずれば則ち通ず」と。これは、宇宙の原理は「変化」であると喝破している私にとり真理の言葉である。 禍は福となり、福は禍となり、やって来たかと思うとまた逃げて行く。時には激しく、時には緩慢に、万物は流転してやまない。荘子は、その変化をもたらす根源の理法は容易に把握できない、だから主体性をもって、そういう変化に身をゆだねるような生き方がよいのだという。
4月27日 忠について1 (じん)(しゅ)、その臣の忠なるを欲せざるはなし。(しか)れども忠いまだ必ずしも信ぜられず」 
(外物篇(がいぶつへん))

世のトップで部下に忠誠を求めない者はいない。
だが部下が忠誠を尽くした処で、必ずしも信任されるとは限らない。
 

4月28日 忠について2 荘子の外物とは、地位や名声、富など自分の外にある一切のもののこと。そんなものは頼りにならない、忠もその一つで、頼りにならぬものを頼りにするのは最も不味い処世である。 現代の組織でも忠は軽視できない。
忠誠心に期待をかけられる、だが、トップはそんなものを当てにしなくても成り立つ組織に心がけるべきであろう。
部下は、自分と組織とは割り切ってやるのがいいかもしれない。
4月29日 当て (われ)斗升(としょう)の水を得て(すなわ)ち生きんのみ
(外物篇(がいぶつへん))
これには挿話があるが要するに、当てにならないものを当てにして生きることの阿呆らしさの話である。
与えられた条件の中で我々は精一杯生きるとかあるまい。
4月30日 人間の知恵 神亀能(じんきよ)元君(げんくん)(あらわ)れて余且(よしょ)(あみ)を避くる(あた)わず。知は()く七十二(さん)して遺筴(いさく)なきも、腸を()かるるの(うれい)を避くる能わず
(外物篇(がいぶつへん))
元君の夢枕に立つほどの神通力を持った亀でも、余且のように平凡な漁師の網から逃がれることが出来なかった。
七十二回占って一度も外さない予知能力を持ちながら、腸を引き裂かれる禍を避けることができなかった。
人間の知恵など高が知れていると荘子はいうのである。