徳永圀典の「好きな歌人と好きな歌」
 

日本の四季も変化しつつある、今年の桜花も格段に早い。でも、春ともなると、矢張り好きな歌を歌いたくなるものだ、いくら齢を重ねても、好きな歌人の好きな歌など色々とものしてみたくなる。静かな樹林帯で独り好きな和歌とか好きな歌ー夏の思い出とか坊ガツル讃歌などーを声高らかに吟唱するのは乙なものである。
今月で私も満78歳を迎える、日々、精一杯生を満喫し山々を、自然を愛して元気で今年も過したいものである。


平成21年春4月

 4月1日 「海行かば」

海ゆかば みづく かばね
山ゆかば 草むす かばね
おおきみの ()にこそ 死なめ  かえりみはせじ

万葉集には
「海()かば 水漬く(みづく)(かばね) 山()かば 草生す(くさむす)(かばね) 大君(おおきみ)の ()にこそ死なめ (かえり)みはせじ」 

 4月2日 意味は、 海をゆくなら  水に()かる(しかばね)ともならう 
山をゆくなら 草の生える(しかばね)ともならう 
 
天皇のおそばに この命を投げ出して 悔ひはないのだ

けっしてふりかへることはない。

 4月3日 少年時代には

この歌を聴くと私は必ず涙ぐみ瞼が熱くなる。それは戦時中という純粋な少年時代に、出生兵士を見送る度に、しばしば歌ったかもしれない。この歌詞は万葉集にあり、大好きな大伴

家持の作であり、それに曲が荘重で洵に素晴らしい。この歌詞は万葉集にあり、大好きな大伴家持の作であり、それに曲が荘重で洵に素晴らしい。
また、「海行かば」の出典の一つに続日本紀もある。

 4月4日

天平勝宝元年、西暦749年春、聖武天皇が奈良・東大寺に行幸された際、中務(なかつかさ)省長官の石上(いそのかみ)()(そん)(おと)麻呂(まろ)が儀式の席上

天皇への忠誠の厚い大伴宿禰(すくね)・佐伯宿禰を天皇が誉められ、激励された故事による。
 もう一つ出典は万葉集、4094番に、上述の様子が長歌として収められている。
 4月5日 長歌

海ゆかばの原典

葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天降(あまくだ)り しらしめしける 天皇(すめろぎ)

神の(みこと)の 御代重(みよかさ)ね (あま)日嗣(ひつぎ)と しらし()る (きみ)御代(みよ)御代(みよ) 敷きませる 四方(よも)の国には 山川(やまかは)を 広き(あつ)みと (たてまつ)る 御調(みつき)(たから)は 数へ得ず (つく)しも兼ねつ 然れども わが大君の 諸人(もろびと)を (いざな)ひ給ひ 善き事を 始め給ひて (くがね)かも たしけくあらむと 思ほして (した)(なや)ますに (とり)が鳴く (あずま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田(をだ)なる山に (くがね)ありと (まう)し賜へれ ()心を 明らめ給ひ 天地(あめつち)の 神相(かみあひ)うづなひ(すめ)御祖(ろき)の 御霊(みたま)助けて 遠き()に かかりし事を ()御世(みよ)に (あらわ)してあれば (をす)(くに)は 栄えむものと (かむ)ながら (おぼ)ほし召して もののふの 八十(やそ)(とも)の雄を まつろへの むけのまにまに 老人(おいびと)も (をみな)童児(わらは)も ()

願ふ (こころ)(だら)ひに (なで)給ひ (おさ)め給へば ここをしも あやに(とうと)み うれしけく いよよ思ひて 大伴(おおとも)の (とお)神祖(かむおや)の その名をば 大来目(おほくめ)(ぬし)と ()ひ持ちて 仕へし(つかさ) ()かば 水漬く(みづく)(かばね) 山()かば 草生す(くさむす)(かばね) 大君(おおきみ)の ()にこそ死なめ (かえり)みは せじ 言立(ことだ)て 丈夫(ますらを)の 清きその名は いにしへよ 今の(をつづ)に流さへる (おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯(さえき)(うじ)は 人の(おや)の 立つる(こと)(だて) 人の子は (おや)の名絶たず 大君の 奉仕(まつろ)ふものと 言ひ()げる (こと)(つかさ)ぞ (あずさ)(ゆみ) 手に取り持ちて (つるぎ)太刀(たち) 腰に取り()き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門(みかど)守護(まもり) (われ)をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし(まさ)る 大君の御門(みかど)守護(まもり) ()をおきて また人はあらじと いた立て 思ひし(つの)る 大君の  御言(みこと)(さき)の 聞けば(たふと)み 
 4月6日 反歌 丈夫(ますらを)の心思ほゆ大君の御言(みこと)(さき)を聞けば(とうと)み (巻十八4095)

「大伴の(とお)神祖(かむおや)奥津城(おくつき)(しる)標立(しめた)て人の知るべく」(4096)

天皇(すめろぎ)御代(みよ)栄えむと(あづま)なるみちのく山に(くがね)花咲く」(4097)
天平感宝元年五月十二日 

 越中国守の館にして
   大伴宿弥家持作れり

 4月7日 最後の句は、続日本紀では、 長閑(のど)には 死なじ、であり、万葉集では、かへりみはせじ、である。
大東亜戦争中によく歌はれ、戦後は神風特別攻撃隊のフィルムなどで背景に流れる曲は、信時潔作曲のものであり、歌詞は万葉集の方を採用している。
 4月8日 続日本紀 延暦16年(西暦797年)、第50代桓武天皇の勅命を奉じて菅野真道・秋篠安人・中品巨都雄らが編纂した史書。 六国史の一つに数へられる。 40巻から成り、7世紀末の文武天皇から8世紀末の桓武天皇までの御代について記述。
 4月9日 本居宣(もとおりのり)(なが)

敷島(しきしま)大和(やまと)(ごころ)(ひと)()はば朝日ににほふ山ざくら花 

     

()(しま)のやま()()()()(ひと)()()()朝日(あさひ)()()ほふ(やま)佐久(さくら)ら花」
4月10日 山さくら花

山ざくら、は染井吉野桜と異なり、山中に独り立ちのように、地味に、目立たず、恰もいぶし銀のような、楚々とした風情がある。私のとても好きなのが山さくらである。 

この山さくら花は、日本的趣きを備えており、江戸時代からか、いつか知らぬが日本人の人となりを表すものであった。 
4月11日 本居宣長を一口で表現すれば、

本居宣長は国学者、江戸時代後期の学問を代表する巨人とも言える人物である。文学・語学分野で、精密かつ実証的な分析という一面、また古道論という理想主義的な思想の面、その総合を成し遂げたお方である。

「本来の日本の心、本来の日本の在り方、これを明らかにするために、古語・古文献を、科学的・実証的に研究された方」である。

4月12日 「敷島の」の歌に、その結論ともいうべき思想が凝縮されているのである。

そして言ったことは、ただ、

「やまと心とは、何かと言うならば、朝日に照り映える山桜の花だ、と答えるばかりだ」 

というだけの、単純、清潔なものであった。

日本人としての、ごく素直な誇らしい気分が明るく漂っているのである。

「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞(まくらことば)

4月13日

宣長は歌人でもあり、一生涯に約一万首ほど歌を詠み、歌集として「鈴屋集(すずのやしゅう)」「石上稿(いそのかみこう)」がある。

この「敷島の」の歌は、これらの歌集の中には無くて、亡くなる十年ほど前、宣長は自画像を描き、そこにみずから(さん)として書きいれたのがこの歌という。

4月14日 原文は二行に分けられているが、万葉仮名混じりの文字遺はこうなっている。


()(しま)のやま()()()()(ひと)()()()
朝日(あさひ)()()ほふ(やま)佐久(さくら)ら花」
この歌はすっきりとした鮮やかさがあり、深い印象を人々に与える。
 

けぶりさへあまぎる空にうづもれて雪に暮れゆく遠方(をちかた)の里

この歌の新古今的世界が絵のように実によく歌いこまれている。伊勢松阪、妙楽寺裏山に「本居宣長之(おく)(つき)」に遺言通り、山桜が植えられており今も毎年花を咲かせている。 

4月15日

伊勢の()

女流歌人・伊勢と光源氏(ひかるげんじ)のモデル
 

はるがすみ立つを見すてて行く(かり)花なき里に住みやならへる       (古今和歌集・巻一) 
平成2137日、米子市の白鳥の「北帰行」が報じられていた。この歌の季節である。
 

「春霞が立ち、間もなく桜が咲こうかというのに、それを見捨てて行く雁は、花の咲かない里に住み慣れているからかしら」と

平安朝の前半、華麗に生きた当代随一の女流歌人・伊勢の作である。

4月16日

宇多天皇の中宮・温子(おんし)に仕え、以後常に宮廷にあり権門(けんもん)(かん)にあった。小野小町を凌ぐ才能に恵まれていた。 

伊勢は、藤原仲平(温子の兄)との恋を経て、宇多天皇の寵愛を受け、皇子(行中親王)の母となる。
以後「伊勢の()」或は「伊勢の御息所(みやすんどころ)」と呼ばれた。
4月17日 王朝の男女関係の凄まじさ

その後、醍醐天皇の弟、敦慶(あつよし)親王(しんのう)と恋をし、二人の間には優れた歌人である娘、中務(なかつかさ)が生まれている。 
先の恋人、藤原仲平は、関白基経(もとつね)の子で左大臣にまでなった人、 

而かも、伊勢は、その仲平の兄・藤原時平、左大臣となり、あの菅原道真を大宰府に左遷させた権力者・藤原時平の求愛を撥ねつけている。
苦しい別れも何度も経験しているという。当時の王朝の男女関係の凄まじさを物語っている。だが、うち萎れたことは殆ど無かったと言われる女性である。
 
4月18日 伊勢の相手は
光源氏

人知れず絶えなましかばわびつつも無き名ぞとだにいはましものを                  (古今集・巻十五)

複雑な歌である、遍歴した恋愛を巡る歌なのであろう。伊勢は「伊勢物語」の作者とも言われる。 

彼女の恋した敦慶親王は、容姿端麗で、玉光宮(たまひかるのみや)と呼ばれ、源氏物語の光源氏(ひかるげんじ)のモデルとなった方である。
4月19日 源義家(みなもとのよしいえ) 吹く風をなこその関と思へども道も()に散る山桜かな                (千載和歌集・巻一)  著名な名歌である。
私は、日本の千年前の武将が、このような優雅な歌をものしたことに日本人としての誇りを強く持つものである。
4月20日

八幡(はちまん)太郎(たろう)義家(よしいえ)、戦の神「八幡」を名乗るにふさわしい勝れた武将である。学問に励み和歌をたしなむ教養人であった。 平安時代後期、地方の豪族は武力で領土拡大に努めていた、中でも陸奥の安倍頼時は強大であった。

朝廷は源頼義をつかわして頼時を滅ぼしたが、長男、貞任(さだとう)の残党が抵抗したので(ぜん)九年(くねん)(えき)という長い戦闘となった。

この戦で頼義の長男義家は大きな手柄を立てている。

4月21日 勿来(なこそ) この歌は、勿来の関(福島県浜通り)にさしかかった時、風に散る山桜に興を催して詠んだものという。なんと義家18歳である。 
「吹く風よ、吹いて来るな(なこそ)、この勿来の関では、道も狭しとばかりに山桜が一杯に乱れ散っているのだ。」 

勿来(なこそ)」は「来る(なか)れ」、来るなである。
この関所は、北の豪族に侵入を防ぐ意味で「勿来の関」と名づけられている。
義家はここで、花を散らす風に「吹いて来るな」との意味も掛けている。

4月22日 安倍貞任(あべのさだとう)と義家は互いに宿敵である。

二人の間に逸話がある。
「前九年の役」の末期、貞任は義家の攻撃に耐えられず、立て籠もっていた「衣川の館」から逃れようとした。 

義家
後ろを見せるとはきたないぞ。引き返せ」と呼び止め、一首をものする。 
衣のたてはほころびにけり 

(衣の(たていと)(ほころ)びるように衣川の館も崩れたぞ)

 と、一句を詠みかけた。

貞任
貞任は馬を止めて兜の錣を振り向け 
年を経し絲のみだれの苦しさに 
(衣の経―衣川の館―の乱れは長年の苦しい戦いによるものだ) 

と答えた。義家は、貞任の歌ごころに感心し、つがえていた矢をはづして逃がしてやったという。 
殺伐たる戦陣にあっても、風雅の心を忘れなかった武将たちの心映えは実に日本人的であり名歌の名歌たる由縁がある。

4月23日 紀貫之(きのつらゆき) やどりして春の山べに()たる()夢のうちにも花ぞ散りける (古今和歌集巻三) 

貫之はやはり和歌の名手だなと思うばかりである。詞書(ことばがき)に、桜のころ、山寺に貫之は泊ったとある。 夢のうちにも、桜がしんしんと散ることよである。

洛外の寺に参詣し,満山の落花に魅せられたのであろう。
山道をのどかに辿りつつ登る間、うららかな春の日差しを浴びつつも盛んに桜花も降り注ぐ、うららかな春。
いい情景だ。
 
昼間の落花と、夢の落花を重ねつつ、余情ある雰囲気がただよう。

4月24日

貫之は平安時代の歌人、最初の勅撰和歌集「古今集」が奏上されたが貫之はその選者の一人、編纂の中心的人物である。 古今集は、百人を超す作者による千首以上の歌を、四季の歌、賀、離別、羈旅の歌、恋の歌等という部立に分類して配置、夫々が、時の流れに従って並べられている。 

この編輯(へんしゅう)方法は後の勅撰集の規範となる。
古今集が約千年も影響力があったのは、歌の魅力もさることながら、独創的なこの
編輯(へんしゅう)あると言われている。
4月25日 西行(さいぎょう)法師(ほうし) 願わくば花の(した)にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ

((さん)()集)

 この歌ほど人口に膾炙(かいしゃ)している歌もあるまいに、再び、そして三度と私も取り上げる。 

それは、私の登山と無関係ではない、各地の山々に数多く、西行法師の立ち寄った場所があるからだ。

本当に至る所にある、奥吉野の奥千本、那智の二の滝などなど数知れぬ。

4月26日

そして、この好きな日本で、自分が最も好きな桜の花の咲く如月(現在の三月)の満月のころに桜の木の下で死にたいというこの歌を作り、そしてその歌の通りに文治六年、1190年、河内国、葛城山の弘川寺で亡くなった。このことは、当時、俊成や定家など多くの人々絶大な感動を与えたと言われる。 

西行さんは元々は藤原秀郷の嫡流武家の出である。先祖の秀郷は、俵藤(たわらとう)()(相模の国の田原に領地を持っていた)と呼ばれた豪傑で、平将門の乱の時は、平貞盛の味方をして将門を亡ぼしている。 西行は、その嫡流で、左衛門尉(さえもんのじょう)の藤原氏ということで、左()藤と名乗り、西行も本名は、佐藤(のり)(きよ)という。
4月27日

小野小町(おののこまち)

思ひつつ()ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

       (古今和歌集・巻十) 

小町には「小倉百人一首」の歌がある。 

花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに

4月28日

小町は我が国・王朝時代の代表的な美人、恋の歌も多数ある。華やかな存在と思われるが実際は決してそうではなさそうだ。

交友や歌の贈答の相手は、在原業平(ありひらのなりひら)僧正遍照(そうじょうへんじょう)など当時の一流の貴公子・才子たちであるが、哀れな心情作品が通底しておりどうやら現実は違うものと思われる。

4月29日

「知りせば、さめざらましを」は、恋しいと思いながら寝るものだから、あの人が見えたのだろうか。夢と知っていたら目覚めないでいたものを」となる。

古今集巻十二に小町の歌がある。

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る

4月30日 これは最初の歌と似通っているように思われる。苦しい恋の歌であろう。

小町には幸せな結婚生活は無かったようだ、しかも晩年の彼女は姿も知られず、歴史に消えている。だから沢山の伝説が生まれたといわれる。