天皇権の擁立を目指した聖徳太子

聖徳太子はなぜ摂政に立てられたのか

馬子がなぜ女帝を立て、摂政をおくと言う回りくどい支配体制を選んだのかという点ですが、これは天皇暗殺の直後であり、馬子が国内に反蘇我勢力が潜伏していることを察知していたからだと思われます。

そのような状況の中で早急に独裁を断行するのは蘇我氏にとって不利です。天皇暗殺後の非常時の臨時政権であるとはいえ、女帝を即位させたと言うだけでは天皇が蘇我氏のロボット的存在であり、蘇我氏の独裁政治を露骨に表明しているようなもので、反蘇我の機運を助長しかねません。そこで馬子は摂政として立てた聖徳太子に協力して執政を行うという形を取らざるを得なかったのです。

またこうした支配体制にしておけば、何か事が起こってその政治責任が問われても少なくとも皇位は安泰であり、蘇我氏としても決定的な打撃を受けるようなことはないと言う思惑もあったでしょう。

このような背景を持っての推古天皇の摂政・聖徳太子の登場ですから、馬子も国内の反蘇我勢力を懐柔すめため、太子の諸政策をかなり放任し、圧迫を加えることは極力控えざるを得ないわけです。ただ馬子とすれば、太子が自分の意にかなった行動、政策をとってくれるだろうという期待があったので、安心して太子を摂政に据えてその政治に協力するという建前を選んだと思われます。

摂政・太子は、天皇の傀儡・蘇我独裁体制を目指す馬子にとって、最も信頼できるカードであったに違いありません。しかも、誰もが一目も二目もおく聡明な皇子であったばかりか、蘇我氏の宿願であった物部氏打倒、物部守屋の討伐においては馬子を喜ばせた協力ぶりを示しており、馬子はよもや太子が蘇我氏に反旗を翻すようなことはあるまいと摂政に立てたのです。

 

見当違いだった馬子の目論見

聖徳太子を摂政としたことは、馬子にとってき吉とも凶とも言い難いような微妙な結果をもたらしました。天才的な策士であり、その用心深さと緻密な計算によって数々の政争に勝利してきた馬子ですが、聖徳太子との駆引きにおいては、何時の間にか太子の独自の政治改革に協力させられるというような関係を甘受したのです。

結果的には聖徳太子主導の政治が行われたのですが、それは馬子が反蘇我氏勢力を気づかって太子の諸政策を放任せざるを得ないという面もあります。しかし、それ以上に太子の資質、聡明さが、蘇我氏との決定的な対立を避けながら巧みに自分の意を反映する政治を行うことを可能にさせたのだとも言えるのです。

聖徳太子は蘇我的血統であり、幼少のころから蘇我氏の中で成長され、妃も馬子の女であるというように外見的には蘇我一色に染まっているのですが、その心中には天皇氏的自覚を強く抱くようになった方でした。とりわけ、崇峻天皇暗殺という衝撃的な事件を目の当りにされ、その後を受けて摂政として政治を執られる立場に立たれてからは、天皇権の確立を目指して心を砕かれたようです。

しかし、天皇権の確立としは言っても直ちに武力を以て蘇我氏を駆逐しようというような性急な行動をとられたのではありません。太子は崇峻天皇暗殺の背景をよく認識しておられ、極端に反蘇我的感情を表出するようなことはありませんでした。決して蘇我氏の傀儡を受け入れるつもりはないものの、自分の置かれている状況をよく知っておられ蘇我氏を徐々に牽制ししながら天皇権の確立を図っていくという実に巧妙でデリケートな調和策をとられたのです。

天皇のロボット化・蘇我独裁を目指す聖徳太子、本来、両者の目指すものは全く相反するものですが、天皇暗殺事件後の波乱含みの政局、両者の巧みな駆引き、諸豪族の動き、そうした諸々の条件の上に微妙な均衡が保たれ、決定的な対立状況にいたらないまま推古朝は比較的に平和な時代になったのでした。そして、全体的に見るならば、天皇としての自覚を高めていった聖徳太子によって政治改革が主導され結果として蘇我氏独裁は実現されなかったのです。