安岡正篤先生「東洋思想十講」
     第六講 仏教について()

人間と教養―日本の反省
平成25年4月

1日 人間と教養―
日本の反省

申すまでも無くこの講座は大学の専門的講座ではなくて、人間としての、指導者としての根本的教養に視するのが目的でありますから、必ずしも学説とか理論とか言ったものに拘泥することなく、人生の体験を豊かにする、現実に活きた勉強をする事が大切であります。とかく職業人になると、いわゆる専門になって、専門にとらわれ、現実から遊離しがちであります。

2日 全人間・全人生としては不具

専門に囚われると言うことは部分に堕することですから、専門家としては練熟しておるけれども、全き人間・全き人生としては片輪不具であるということになります。それを称して専門的愚昧などと申します。特に学者技術者などにその傾向の人が多いのは、学者技術者は現実から遊離して暮らせるものですから、ついそうなり易いわけです。

3日 人間としての正しい教養

そういう大事な「人間としての正しい教養」と言った点に於いて、今日のわが国は、わが国だけではありませんが、非常に誤っている、汚染されている、とにかく堕落しておるものが多い。これは国家民族にとっても重大な問題であると言わなければなりません。特に国民の運命に重大な影響を及ぼしている政治の世界が今日のように堕落・紛糾するとち言うのは、つまるところ、政治家が、人間として或は国民の代表として如何に低迷しておるか、自覚教養が足らぬかということに外なりません。政治家ほど自覚があり、教養が豊かてで、人間として立派であれはせ政治は今日のようにならなかった筈であります。然も、それが政治家だけでなく実業家も、教育家も、学者も、総じてそういう風になっておる処に世紀末的世界の、そして日本の大きな悩みがあるわけであります。

4日 日常生活

それに較べると、やっぱりヨーロッパの代表的な国々ではいささか違う様です。もう何年か前になりますが、日本の経済専門家がパリの財界人の日常生活、特にウィークデーの夜をどういう風に過ごしているか、ということを調査したことがあります。それによると、バリの代表的な実業家は、少なくとも一週間の半分は家庭で過ごし、晩餐を自宅で摂っている。そして食事の後の時間を何に使っているかと言えば、多くは読書に当てている。

5日 カルチュア豊かな本格的国際人

処がその読書の内容でありますが、実業家であるから経済の本でも読んでおるかと言うと、案外そうではなく、殆どの人がギリシャ・ローマの古典や、自国のモンテーニュとかパスカルといった所謂フランス・モラリストたちの古典的・人間学的な書物を読んでいる。フランスも流石であります。これは多分に日本財界の心ある人々にとって一つの衝撃であったようでありますが、然し、フランスに限らずヨーロッパの代表的な国々はみなそうでありまして、そういう意味で彼等は政治家も財界人もカルチュアcultureというものが豊かであります。

6日 人間学の書物を

フランスの虎と云われたクレマンソーが新聞記者のインタビューの中で、自分は時々政治というものがつくづく嫌になる事がある。そういう時には家に帰ってギリシャ・ローマの古典を読むことにしている、と言ったことがあります。ギリシャやローマの古典と言うのは、要するに人間学の書物でありまして、日本で言うなら古事記とか日本書紀とか論語とか孟子を読むということです。古典は人間にとって大きな教であり、また救いになるばかりでなく、下手な専門書を読むより、はるかに人間としての活きた示唆や反省を与えてくれるものであります。人間はやっぱり古典についての教養を持たなければなりません。

7日 欠陥が国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んでいる

処が、不幸にも今日の日本はそう言う事が酷く荒んでおります。しかもその欠陥が国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んで、今や日本の家庭は歴史的にかってなかったような危機に瀕しておると言えます。家庭生活の破壊は民俗の滅亡につながります。いくら経済政策がどうの、福祉政策がどうのと言うた所で、家庭生活が健全でなければ国は持ちません。従って、これを救うには、結局国民に本当の意味のおける教養、単なる知識とか技術というようなものではなくて、人間としての心得である教養を厚くすることより外はありません。これは政治学から言うても、民俗学から言うても動かすことの出来ない真理であります。

8日 精神の宝庫

そういう意味に於いて我々に伝わつて参りました古来の儒教とか仏教,神道というような文化、信仰、教学と言うものはそれこそ限りない精神の宝庫でありまして、それを粗略にしたと言うことは大変残念なことであります。昔の日本は、そういう教えが広く一般に浸透しておりました。元気だの、因縁だのと言うような儒教や仏教の難しい専門用語が、民衆の間に完全に消化されマスターされておるのを見てもそれが良く分るのであります。

仏教に還る
9日 五濁煩悩

そこで、今日は仏教の続きでありますか、先ず「煩悩」ということを採りあげてお話致したいと存じます。経典ではこの煩悩を五つに分けて説いておりまして、これを「五濁煩悩」と呼んでおります。煩悩などと言う語はもう一般民衆の日常用語となっておりますが、劫濁(こうぢょく)見濁(けんだく)煩悩濁(ぼんのうだく)衆生濁(しゅじょうだく)命濁(みょうだく)の五つの悪世における汚れを言います。

10日 第一

劫濁

第一は、「劫濁(こうぢょく)」。劫は時の推移、時の変化を意味する語で、時代のことであります。つまり劫濁とは時代の濁り、時代の汚れということです。環境の汚染、公害などと言われる今日の時代は正に世界的劫濁であります。

11日 第二

見濁

第二は「見濁(けんだく)」。
思惟・思考、思想の汚濁・汚染であります。見濁には「五利使」とか「五見」とか言って五種の(けん)があります。先ず、「()(けん)」。自分自身、不確かなその自身にとらわれた考え方。
12日 第三

辺見
辺見(へんけん)」。物事の一辺にとらわれた考え方。目先にとらわれないで長い目でみる、一面からではなくて出来るだけ多面的・全面的に見る、枝葉末節にとらわれないで根本的に考える、というあの「思考の三原則」によらずに、物の一辺に囚われて考える。これほ「辺見」というのです。辺見によって「一辺倒」というような語が生まれてきたわけです。
13日 邪見

それから「邪見(じゃけん)」。「あれは邪見な人だ」といい場合、心が堅いという(けん)の字を使いますが、同時にこの見の邪見もよく使います。つまり物事を正しく考えないでよこしまに考えるわけです。この頃の世の中は邪見が多すぎます。正見と邪見の区別が月か亡くなると言うことくらい恐ろしいことはないのでありまして、これは国民を破壊に陥れるものであります。特に専門家を以て任ずる思想家、学者と言った人たちの邪見というものは本当に甚しいものがあります。

14日

見取

四つ目には、「見取(みどり)(けん)」。見取の取は、この場合は動詞ではなくて助動詞ですから見と同じ意味となります。つまり理論とか、イデオロギー、物の解釈などの間違いのことであります。この頃のいわゆる理論闘争などを見ておると、いかに今日の人間が見取見に陥っているかよく分ります。「泥棒にも三分の理」と申しますが、人間・理屈をつけようと思ったらいかようにもつけられるものであります。よく、こんなに共産主義思想が流行ると困る。何とかこれに対するよい理論はないものでしょうか、と言われるが、そういう事を言うこと自体、見取見に陥っているわけで、理論やイデオロギーで片付くのであれば、人間は簡単であります。そもそもイデオロギーなどと言うものは、人間の欲望や意図によって、どうでもつけられるものですから、そんなもので解決する筈はないのです。

15日 理論闘争・イデオロギー闘争

ソ連と中共の理論闘争・イデオロギー闘争をご覧になるとよくわかります。どこまで行っても平行線です。だから反共理論などいくら作っても共産主義がなくなるものではありません。誰しも泥棒はいけないという理屈はわかっている。分ってはいるが、そんな理屈を幾ら並べ立てた処で泥棒が無くならないのと同じことです。自分の都合の好い理屈で人間を解決しようと思っても、それは無理と言うものであります。

16日 五つ目

戒禁取見

やっぱり、根本的な心の在り方に持ってゆかねばなりません。その反対に「何々すべからず」というような禁断・禁圧の考え方、これが五つ目の見、即ち「戒禁(かいきん)(とり)(けん)」です。これもよくありますね、()(けん)は人間の煩悩を働かせる力ですから、これを()利使(りし)というわけです。

17日 五濁の三番目

煩悩濁

さて、五濁の三番目は「煩悩濁(ぼんのうだく)」であります。人間の精神的・肉体的機能、即ち生命的機能を鈍らせるマイナスの作用という意味です。これに三つあって、「三毒」などとも申します。一つは「(どん)」。むさぼることです。一をむさぼれば、二、三、四、五と我々の貪欲、煩悩には際限がありません。その次は「(しん)」。目に角を立て怒るというものがこの(しん)であります。それから「()」。愚痴。欲望に支配されて理性を失う愚かさが痴です。貪欲・瞋恚・愚痴、この三つが人間を鈍らせる三毒というわけであります。

18日 知には物を分かつ働き

前にも触れたと思いますが、我々には知と情というものがあります。中でもより多くあるのが知、知性です。然し知は枝葉末節になるほど愚になります。と言うのは知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだからであります。従って我々は知るということをわかる(、、、)と言う。あれは物分りのよい男だとか、物わかりが悪いとか申します。知ることは物を()かつ(、、)ことであります。人間・赤ん坊の時はすべて全一でありますが、だんだん知性が芽生えてくるに従って物を分かつようらなる。お父さん、お母さん、兄に妹、自分自身についても、目、鼻、口という風に物を分かって認識する。これが物わかり(、、、、)即ちことわり(、、、、)、事割であります。だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある。

19日 知性は枝葉末節

これは陽性のもので、草木で申しますと、根から幹が伸びて、大枝、小枝と分かれて末梢化してゆく。これがことわり(○○○○)、物わかりで、知性はそれを認識することですから、言い換えれば分かつことに外ならない。と同時にそれは、根から幹から大枝が分かれてゆくうちに、次第に根元から遠ざかる。いわゆる枝葉末節になって、生命力が希薄になる。生命力が希薄になるということは、真実でなくなることですから、やがて行詰る。草木で言えば、散り易くなる、折れ易くなる。だからことわり(、、、、)をそのまま進めてゆくと、段々わからなくなるのです。わかると言うことは、やがてわからなくなる。

20日 結びのはたらき

それを救うのが結ぶ(、、)という働きです。分かれるのを結んで大枝に、幹に、根に帰する。わかるという働きと、結ぶという働きが一緒になって、初めて、生、存在、実在というものが出来るわけです。処がことわり方は、わかるに従って病的になる。そこで(やまいだれ)の中に知を入れて痴-馬鹿と言う字が出来ている。

21日 馬鹿になる傾向

大学出の秀才

ちょっと考えると、(やまいだれ)に欲とか情の字を入れた方がよさそうに思いますが、知の字が入っている所に我々は文字の無限の含みと言うものをしみじみ味わうことが出来ます。機械的・理知的に頭が良いなどと言うのは、それだけ馬鹿になる傾向があると云うことです。とかく大学出の秀才が人生の実際に立っては、往々馬鹿になるのはこの理屈によります。

22日 (とん)(じん)()

(とん)(じん)()の三毒に(まん)()の二つを加えたのが「()鈍使(どんし)」であります。「慢」は自慢・慢心の慢で、自分を偉いと思い、他を馬鹿にして見下すことです。確かにこれは人間の生命や精神、理性、或は美しい友情と言ったものを鈍らせる煩悩であり、人間を鈍にするものであります。「疑」は信ずることが出来ないで、全てを疑うことです。正しく疑うのではなくて、真実を真実としてそのまま受け取ることが出来ないで、何でもかんでも卑しく・皮肉に疑う。確かにこれも人間を鈍、なまくらにするものであります。

23日 五濁の第四

衆生濁

命濁

五濁の第四には「衆生濁」。民衆が汚れてくる。現代は世界的に衆生濁時代であることは、余りにも痛ましい事実であり残念なことであります。最後は「命濁」。人間の命の汚濁であります。これも公害の一種でありますが、とにかく今日は、飲むもの・食うものから空気に至るまで、ことごとく汚れて参りました。すべて衆生には、この劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五つの濁り、汚染がある。人間は知性・理性・心というものが開けてきた存在でありますから、他の動物にはない濁り・汚れが生じたわけでありまして、従ってその汚濁を解脱しなければ、正しい人間の在り方とは言えません。

24日 纏 

 


その外に「(はっ)(てん)」とか「(じっ)(てん)」というのがあります。纏は、まつわりつくと言う意味で煩悩と申してよいわけです。先ず(はっ)(てん)の第一は「無慚(むざん)」。第二は「無愧(むき)」。(ざん)()、共に()づる(、、)なしであります。日本では二つを合わせて「慙愧(ざんき)に耐えぬ」とか「慙愧(ざんき)の至り」などと普通に使われておるのでありますが、同じ、はずる、でも少し意味が違います。
25日 無慚

仏典の上では、悪を為して(てん)として恥づることのないのを無慚(むざん)と言い、一向世間のことなど顧みずに乱暴・害悪を(ほしいまま)にするのを無愧(むき)と言うでおります。赤軍派などと言うのは正に無(ざん)と同時に無愧(むき)であります。慙愧(ざんき)を知らぬ人間くらい困ったものはありません。

26日

女扁に悪い意味

その次は「(しつ)」、ねたみ心。(しつ)という字は女扁に(やまい)とありますが、ねたみ心は女ばかりではありません、これは男女を問わず人間に共通の一つの病であります。ねたみを表す文字にもう一つ()というのがありますが、これも女扁になっています。男はよほど女に懲りたものと見えて、女扁に悪い意味の字が随分多い。よい方では好という文字。これは女が児を抱いておる時が一番好もしいということです。もう一つ安という字。これは女が家の中に居るという意味であります。

27日

家庭というものは女が家の中に居って初めてやすらかです。女が外へ出て働くと例外はありますが、どうも一般的には良いことではないようです。いろいろ理屈を言いますけれども、やっぱり女は家に居るという事が何時の時代にも変わらぬ一つの真実原則であります。

28日

それから「(けん)」。慳は元来はやぶさか(○○○○)と言う意味ですが、この場合は、かた(○○)まし(○○)と言う意味で、(ねい)と同義に使っています。即ち物がわからない、(かたくな)と言う意味であります。邪慳(じゃけん)という熟語もあります。慳吝(けんどん)の場合はやぶさかの意で、これは真理を得ることに対してやぶさかなことであります。

29日

四番目には「()」、懺悔の悔です。悔は善悪両方に用いられますが、ここでは悪い方の煩悩としての()であります。()いてその為に積極的な精神を鈍らせてしまう。逆に疲弊してしまうわけです。その悔であります。六番目には「睡眠(すいめん)」。勿論すい(、、)みん(、、)でもよいわけですが、読みぐせですい(、、)めん(、、)と読みます。肉体的な眠りだけでなく、精神的にも眠ってしまう。

30日 掉挙
昏沈


私心から出る怒り

七番目は「掉挙(じょうこ)」。掉挙は妄念のために興奮して安んずることの出来ぬ状態。最後はその反対の「昏沈(こんちん)」。発心(ほっしん)(くら)くて心気(しんき)沈滞すること。これが我々にまといつく八種の煩悩であります。 この(はっ)(てん)に「忿(ふん)」、「(ふう)」の二つを加えたものが「(じつ)(てん)」であります。忿(ふん)はいかり。自分の心を支離滅裂に陥れる私心から出る怒りであります。これは物事を破壊するという意味において憤慨の憤の字もあります。或は怒りを胸の中にためてむっとすると言う場合は(うん)の字を使うこともあります。忿(ふん)はあらゆる煩悩の怒りに用います。(ふう)は自分の悪の露見を逃れて自閉することです。今日はこの自閉症患者が随分増えておると言うことであります。