安岡正篤先生「一日一言」 そのF
平成25年4日

1日

エリートの三つの原則

帝王学とは人の上に立つものがどうしても身につけていなければならない学問、つまり「エリートの人間学」であり、その基本は三つの柱から成り立っている。@原理原則を教えてもらう師を持つこと。
A直言してくれる側近をもつこと。
Bよき幕賓(直言してくれる在野の人物)を持つことである。     (男子志を立つべし)
2日 運命とは無限の創造 運命とは、無限の創造であり進化である。「造化」である。だから真の命とは宿命観ではなく、立命観、即ち命には義命、意義がある。「立命観」でなければならない。運命の義を知って、運命をrecreate(再創造)していくことで、これを知らないで、必然的・機械的に縛られる宿命観にとどまるべきではない。
              (酔古堂剣掃)
3日 運命と宿命 運命というものを多くの人は、どうにもならない、持って生まれた、決まったものであると云う風に考え勝ちであります。これは前に申しあげましたてように、宿命というものであります。そこで運命とはいかなるものかと申しますと、命とは動いてやまないいもの、天地自然というものは、永久に動いているように、その一部分である人間の生というものも動いてやまない、創造進化していくものであるという意味と、運命はめぐり動くというので運命であります。    (易と人生哲学)
4日 無妄に動く人生 世の中にはまだまだ佐藤一斎の詩にいわゆる「期せざる所に赴いて天一定す。無妄(むぼう)に動く、物皆然り」で、人間の予期せぬ所へ赴いて、落ち着くものであり、予定の事実ではなく、思いがけない事件(無妄)から、がたがたするのがいつもの事である。人間の教養や行動が非常に勝れてくれば、理性に基づいて合理的に動くから予想もし易い道理であるが、そうではない場合ほど偶発性、不測性が強くなる。不幸にして今の日本は後者に属し、甚だ予想の立ちにくいものが多い。(醒睡記)
5日 家人

苦楽を分かち合えるぐらい嬉しいものはない。これが本当に親しいこと。艱負(かんふ)に処しては自ら親しい者が集る。だから艱負に当っては自ら悩みを同じゆうする者が集まって一家でいうならば、貧苦の中に美しい家族生活を営むというのが家人(かじん)であります。だから、恋愛から結婚して種々(いろいろ)と人生苦難を経て、家人というものの情愛が深くなる。       (易学のしおり)

6日 壷中天 人間はどんな境遇にあっても、自分だけの内面世界をつくることができる。どんな壷中の天を持つかによって、その人の風致(ふうち)(おもむき)が決まると言ってよい。意外な人が意外な内面を持っている。この人はと思うような人が文学に造詣が深かったり、音楽に通じていたり、或は信仰・信念を持っていたりするものである。そして、それが、なかなか思い通りにならない俗世界の不備を救ってくれているひーことが少なくない。(最上の人生設計)
7日 窮すれば通ずの精神 日本は底知れぬ堕落をした。然し、「窮すれば通ず」の理で、精神さえしっかりすれば、必ず運命は開けるのです。全ては立志と人物の如何です。今までのような精神性のない、低級な享楽的・功利的惰眠ではもう何も出来ません。日本の政治・経済・教育等々、今は生死関頭に立つと言ってもよいので、これを救う道は唯一つ 概然として精神的に立ち上がる指導者たちの輩出です。身を挺して修養努力する先覚者、指導者を一人でも多く出す以外に救いはない。  (運命を創る)
8日 晩節 古来、節を全うす、全節ということ、特に晩節を大切にすることを重んずるのは尤もなことである。仕事も出来、地位も上るにしたがって、人間は益々欲も出れば、誇りも生じ、執着も強くなって、その反対に後進を軽視し、不満が多くなり、また先輩を凌ぐ態度や行動も出がちである。これは叛逆にも通ずる。あさましいことである。          (東洋的学風)
9日 時勢の真剣な徹見者 要するに、少数の真剣な求道者のみが時勢の運命を徹見(てっけん)し、社会を善導する事が出来るのである。能く一隅を照らす者にして始めて、能く(しょう)(しゅう)照国(しょうこく)することもできるのである。微力をあきらめてはならぬ。(れい)に耐え、()に耐え、(はん)に耐え、また(かん)に耐えて、(げき)せず、(さわ)がず、(きそ)わず、(したが)わず、自彊(じきょう)してゆこう。(安岡正篤 人と思想)
10日 随所に主となる

人間はいかなる不遇にあっても、いわゆる「随所に主となる」だけの自由を持つことができれば、確かに「立処(りっしょ)(かい)(しん)」であって、いかなる境地に立ってもそれぞれに意義がある、決して無駄ではない。その意味でも、王陽明先生にとって貴州流謫(きしゅうるたく)はあるいは天与(てんよ)()(れん)であったのであります。 (王陽明)

11日

六中観

私は(そう)()から(ろく)(ちゅう)(かん)というものを作って、何とか無事に過ごしてきた。六中観とは「忙中(ぼうちゅう)(かん)有り」、「苦中(くちゅう)(らく)有り」、「死中(しちゅう)(かつ)有り」、「()中天(ちゅうてん)有り」、「意中人(いちゅうひと)有り」、「腹中書(ふくちゅうしょ)有り」である。それで例えば忙しいとなると、それに捕われてしまわないで、忙しい中に、ちょっと閑を見つける。立ち止まって()(へん)の花を見るのもよい。                (天地有情)
12日 真に立派な人間 本当に立派になる人間は必ず「良く沈潜(ちんせん)」する。障碍にぶつかった時、挫折したり、直ぐに回避したがる人間は、世の中へ出るとすぐに売名行為とか利益追求とか、何か社会活動を派手にやりたがる。そんな人間は一旦障碍にぶつかるとすぐに()えてしまう。どこまでも沈潜していく人でなければいかん。       (孟子)
13日 独ということ 西行の歌に「さびしさに堪へたる人のまたもあれな(いおり)ならべむ冬の山里」というのがあるが、人は案外さびしさに堪えられぬもので、大衆の中でうごめいて、くだらぬことに空しく時を過ごしがちである。「(ひとり)を楽しむ」とか「(かん)にの耐える」ということはよほど修養を積まねば出来ることではない。それには、やはり細かに山水を観じて楽しみを得ること、読書(しょう)(ゆう)を楽しみ得ること。 (百朝集)
14日

予測し難い禍福

人間のことは複雑なもので、始終人間は幸福を追求して止まない。ところが何が幸福かよく分っていない。分れば分るほど分らぬものです。禍いかと思えばそこに福が()っている。禍の中に福が含まれている。福かと思ったら、その中に禍いが隠れている。誰がその極致を知っていましょうか。その極致になると到底人間の予測など許さない。      (東洋学発掘)
15日 風韻・風格・流風余韻 どんな難局に処しても、どんな逆境に立っても、よろしい。自分は敢えて(いと)わん、俺は俺の道を歩んで行く。立派に新しい境地を自力で開拓して行くという悠々(ゆうゆう)たる(がい)というものは、よほど志気を養わないと出てこない。これが出てくる、そうすると、そこにおのずから風韻(ふういん)風格(ふうかく)韻致(いんち)というものが生まれてくる。人間としてのあかが抜けてくるのであります。(せい)(めい)的に一段と完成の域に達してくる。人物のどこか風韻がある、流風(りゅうふう)余韻(よいん)があるというふうになってくれば、これは余程出来てきたのである。  (人物・学問)
16日 命は「みこと」

命を正しく解して、自ら省みて人を(とが)めず、棺を(おお)うてこと定まる、百年知己を持つ、いなそれよりも天を相手として努力することを「知命」、「立命」という。命を知り、命を立つる人を()こと(○○)と云って、命という字を適用する。かくのごとき人こそ尊い人であるから、みことをまた()ともかく。日本人の祖先はみな(みこと)であり、(みこと)であった。現代人は実に祖先を(はずかし)むる者である。いずれも単なる「物」に堕している。              (経世瑣言)

17日 よく驚く事と哲学 世の中に何が故に哲学や文学や宗教や、尊い精神の世界があるのか。それは何と言うことなく、その日その日の生活に追われて、心を失ってしまいやすい時に、はっきりと目をさます、よく驚くということが、人間の本質的な要求であるから、この人間の一番尊い要求が次第にそういう信仰や学問、芸術など、尊い文化を生んだのであります。        (心に響く言葉)
18日 化身ということ 我々の命をよく運命たらしめるか、宿命に堕さしむるかということは、その人の学問修養次第である。人間は学問修養をしないと、宿命的存在、つまり動物的・機械的存在になってしまう。よく学問修養をすると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。人間は自分で自分をいかようにでも変えることができる。これを化身(けしん)という。  (東洋哲学講座)
19日 運命は生きねばわからぬ 運命はわからぬと言うのが本当である。生はわからぬ。生きねばわからぬ。わかることは生きることである。運命に(したが)って運命がわかる。その運命は不断の()である、大化(たいか)である。その数・その理を知って、生き()してゆくのが易であり、易学である。若いうちから(わる)(がた)まりせず、五十にして四十九の非を知り、六十にして六十化するのである。海老は死ぬまでよく(から)を脱いで、常に溌剌としておるから、永遠の若さの象徴として珍重される。  (易学入門)
20日 順境が危い 人間というものは逆境よりも順境、禍よりも幸に弱いものであります。持たざるよりも持った方が、病弱よりも健康のほうが寧ろ注意しなければならない。人間は得意・成功の方が失意・不遇よりは危い。素朴よりも文明の方が危い。これは人間の通則であり、また人間の微妙なところであります。       (活学第三編)
21日 日本の運命を決め条件 我々はせめてイギリスに負けぬ常識を持ち、ドイツ人に劣らぬ気概で勤勉努力し、フィンランド人などに恥じぬ努力と団結とを以て邁進せねばなりません。そして政府や議会に国民の真の選良(エリート)を送り、溌剌たる維新の実を挙げるなら、日本の未来も光明に輝くことを信ずる者であります。それは結局、日本人がいかに立派な精神と、美しい風儀の家庭を持っているかに帰着するものであります。 (日本の父母に)
22日

精神革命しかない

今日は、決して昔より進歩しておるなどと言うことは出来ないのであります。世の中の法律や制度をいかに変えてみてもイデオロギーをいかに振り回してみても駄目であります。人間そのものを何とかしなければ絶対に人間は救われない。やはり人間革命・精神革命をやらなければならぬ、と言うことになって参りました。 己れを忘れて、世のため、人の為に尽くすような、己れ自身が学問・修養に励んで、それを通じて人に感化を与えるような、そういう人物が出てきて、指導的地位に配置されるようにならなければ絶対に世界は救われない、ということが動かすべからざる結論になって参りました。要するに世の中を救うためには、先ず自らを救うて初めて世を救うことが出来る。(大学と小学)

23日 俗論の支配 中江藤樹先生の言われるように「古来聞き難きは道」である。本当に我々が安心して、信念をもって実践していく道というものは中々聞けない。俗論というものが支配しておる。私たちはそういう時代の風潮というものに飽き足りないで、良心的に反省をして、しかもよく大衆の中にあって、大衆の中に呑み込まれないてしまわないで、自分たちと心を交わし、自分たちと共に実践をしていく同志が出てこないと社会は頽廃するばかりであります。これは実に得がたいけれど少しでも増えていくと、力強く時代を動かしていくことになる。 実にデリケートな問題でありますが、そういうリスポンスもつまり道化の反応、宇宙の営みである所の力によって化せられるものは自然(おのずからしかり)の形をとる、つまり、春になって芽をふく夏になって青葉になるという変化が自然です。同じ様に道徳によってお手本になってそれが相手によく効くと相手はその教えに接する、人間はここに「礼」あるいは「礼譲」という姿をとる。我々日本人の言う「自分」は自立・自由と同時に全体の分際、他との調和を認めて、その関係を立ててゆかねばならぬ。(この師この友) 
24日 無反省な近代文明 世界的な通有現象でありますが、あまり無反省に近代文明が唯物的・機械的に発達致しました。人間がだんだん生活の余裕を失って、反省とか思索とかを失くしてしまって、この文明の雑駁(ざっぱく)な刺激に駆り立てられて、精神的にも、また実生活上も昏迷しておる。早い話が、昔は着るものも、食うものも、見るものも、極めて簡単であったからそれだけ余裕があった。今は着るもの一つにしても実に贅沢になり、食いものにしても、冷凍機会や缶詰や、そういうものが発達し、交通が距離をなくし、地球の距離を滅却したと言われるぐらいに便利になりましたので、運輸も迅速になり、世界中のものが集る。
25日

ちょっと街へ出てみると日本料理から中国料理から西洋料理、とにかくありとあらゆる料理がある。飲み物にしてもその通りで、日本酒からビールから清涼飲料水からウイスキーからプランディから何でもある。そこへ映画、シネラマ、ラジオ、テレビ、いろんなものがどんどん家庭にまで入ってきておりますし、それから競輪とか競馬とか競艇とか温泉とか大衆相手の娯楽機関がいやが上にも増加する。

26日 名士、迷士、冥士 文化というものは非常に注意し、反省し、これを正養しないと案外早く退廃没落することです。個人の私生活も民族生活も同じことです。案外長く()たぬものです。人間は成功しようと思って、皆あくせくするのですが、次第に成功するに従って非常に早く駄目になるものであることは、残念ながら我々にとって今日でも事実であります。よく口の悪いのは「名士と言うのは無名の間が名士であって、いわゆる名士になるに従って、メイは迷うという迷士になる。そのうちに段々に冥土の冥士になる」などと皮肉を申しますが、まうそういうもので、本当は無名にして初めて有力であります。有名は、つきつめた意味で言うと案外無力になる。これは歴史のしからしむる事実であります。 
27日 野生、素朴性 そこで、いかにして野生野生という言葉に弊害があるなら、素朴性・真実性というものを維持するかと言うこと、これがまず第一に文明と民族の大事な問題であります。第二に、余り不自然な都世界というものを出来るだけ保存するということです。そのいずれにも、日本の今日は残念ながら邪道に入っておるわけです。
28日 大都市化の民族的弊害 日本を挙げての近代文明化、近代文明化、これを象徴するものが大都市であります。これがメトロポリス即ち大都市が、接続大都市、いわゆるメガロポリスというものになり、それがやがてエキュメノポリス、世界都市というものになりつつある、これは非常に危険であります。
29日

そして国民生活は次第に享楽頽廃、まずもって根本的に孱弱(せんじゃく)になってきておる。素朴の力、性命の強さというものを失いつつあります。それから大事なことが女性の力であります。処が、女性がまた、今や幾百年の歴史的・伝統的な強みを失ってきつつあります。この三点ですね。これが日本民族の運命を卜する、最も簡にして要を得た原理原則だとお考えになって間違いないと思います。

30日 師恩友益 身計とは、私たちがいかにして身を立て、身を持するかという心構え、世に立つ志を計る、考えを定めると言うことであります。詳しく尋ねると、限りない問題ですが、要約して言いますと、一番大切なことは「師」と「友」である。「師恩友益」、師友によらなければ、いかに天稟(てんぴん)に恵まれておっても独力ではいかん。むしろ天稟に恵まれておればおるほど師恩友益を必要とするのであります。