シナ歴史一瞥――間違いを訂正しよう!!

 昭和一桁生まれの私は、中学では漢文を学び、親からも論語を教えられ、中学では漢詩も学んだ。

日本人はドッブリとシナを憧れ聖人君子の国だと、古代から思ってきていた。

我々日本人は

論語、四書五経、史記はインテリ必読の書で鳥取木鶏会でも色々と輪読した。

杜甫、白楽天、などの詩、三国志、水滸伝、西遊記、聊斎志異など一通り読んだものだ。

腹の立つことだが、シナの諺を日常生活に日本人は取り入れてきた、例えば、呉越同舟、画竜点睛を欠く、四面楚歌、臥薪嘗胆を使いこなすのがインテリだとされていた。要するに漢文の素養が日本インテリの理想であった。

詰まるところ、日本人は、シナは偉大な国、優れた文化国のイメージが定着していた。

私は色々と研究してきた結果、一つの想念を遂に結論づけていた。それは70代に至ってからである。

それは

1.  日本人は歴史的にシナを根本的に理想化していた。

2.  シナは偉大な国でもなければ、偉大な文化の国ではないと。革命連続の国だから残虐、文化の継承は無い。

3.  論語などシナ人は科挙試験の為だけだと。

4.  ウソは騙される方が悪いと価値観が日本と

根本的に違う。

 

立派な国とは

立派なモラルを持つ国、

優れた文化を持つ国、

人間性を持つ民族、

現代風にもうせば、人権、人道が守られていることでありましょう。

現在の私は91才ですが、完全にシナ離れしております。

シナは、オオウソの国です。

日本国のような、

まともな一貫した国は過去ありませんでした。

4千年の歴史など大嘘であります。

歴史上、中国という国はありません。

なじみ深い名前は

殷、泰、漢、唐、宋、元、明、清、などなど

みんな民族の違う国ですね。

革命で異人種がシナ大陸を支配した。

結論から言えば、

一つの国の歴史ではなく、

中国大陸という大陸で、様様な民族が争った歴史なのです。中国大陸史、が正しいとなります。

騒乱の連続です。易姓革命の国となります。

元はモンゴル人ですね。清は満州人の女真族、

中国人というのは存在しないのです。

なぜ、シナ人が中国と使いたいか、それは

中つ国、即ち、国の中の立派な国と言う意味だとは、ここでも何度も説明してきています。

さて、シナ歴史は一口で申せば虐殺の歴史です。

ここで何度も説明してますが、

例えば、易姓革命、

前の皇帝を殺し、天下を取ると天の命を受けたと称し、前の皇帝の治世を全部ひっくり返す。虐殺する。

秦の始皇帝の焚書坑儒ですね。

だから皇帝は異民族が連続します。漢民族の皇帝は、国名で言えば、漢、唐、宋くらいですか。

あとは異民族の皇帝です。この連続です。

だから、歴史は消されているのです。それが日本に向かって戦争中の歴史の教訓と言われるのですから、

日本人は実にお目出たい。それを日本人がビビるから

シナ人は内心笑っています。

日本には、老舗が世界一多く、古代からある。

国家が連綿として続いたからです。

聖徳太子が寺を建てた、大阪の四天王寺、これを立てた寺社建築会社があります、金剛組ですね、1400年前設立です。一度ここでお話しました。

皇帝が変わると徹底した虐殺と粛清です。ロシアがやるウクライナの虐殺は現代版です。日本人は想像できないですね。

その証拠があります。シナ虐殺4千年でしょう。

最古の王朝はご存じの

殷ですね、紀元前1600年、その前は伝説の夏王朝、それを滅ぼしたのが殷王朝、最新の発掘調査がありました。

夏王朝は実在らしいです。

様々な遺跡が発掘されている。特徴が夥しい数の人骨です。調べると、頭が滅茶苦茶に割られている、顔面の陥没、両手両足の切断と、虐殺の形跡が歴然としている。山ほど発掘されている。殷王朝の残虐性がわかりました。

シナの唯一の伝統は残忍性なのです。

殷が滅びると紀元前1046年は周を経て春秋戦国時代、それを統一したのが紀元前221年の秦です。

秦の始皇帝が有名です。シナはここから出ています。チャイナ、チーナ、或いはシナ、語源はこの秦から出ています。

だからシナという言葉は差別語ではありません。

初代皇帝の始皇帝も恐ろしく残虐でありました。

司馬遷の史記に書いてある。紀元前293年、秦の将軍白起が敵を破った戦いで、魏、韓、周の兵隊24万人を斬首している。秦さらに、魏、とか楚に攻め入り

数万人単位の大虐殺をしている。紀元前の長平の戦いですね。白起、率いる秦軍は、45万人の趙と戦う。趙の戦死者5万人、残る40万人は捕虜。みな生き埋めにしている。

一族郎党皆殺なのですね。秦の始皇帝は先ず身内からです。

有名なのが焚書坑儒ですね。

百田直樹氏によると、歴史に残る

三大焚書坑儒は、

まず秦の始皇帝、片っ端から本と儒学者たちを虐殺しています、400人以上と言われる。

次に、ナチスドイツ、そして敗戦の時の日本
進駐軍の文化抹殺、と彼は言う。

始皇帝のハーレムには美女3千人いた。
シナには伝統の宦官がある。去勢してハーレムの管理をさせる。日本は遣唐使、遣隋使と色々学んだが宦官とか纏足は導入しませんでした。

死刑にも、凌遅刑というのがあり死なせるのを遅らせる刑があった。皮を少しづづ剥ぐ、肉体を百回切り刻むとか。韓国はこの宦官とか凌遅刑を導入している。

大陸文化は獰猛で残酷ですね。

始皇帝が死ぬと、宦官が実権を握るが次々と争いが起きる。都度、いつも一族郎党皆殺し。

秦の国が亡びると、天下を争ったのが有名に項羽と劉邦、劉邦が勝ち、天下を統一して漢、前漢、紀元前206年が成立する。劉邦も仲間を殺し皆殺しをする。

結局、漢民族も滅びるのですが、全盛期に精密な戸籍が作られている。6千万人いた。漢が亡びるとまた滅茶苦茶となる。国中が殺し合いとなる。勝った方が負けた方を虐殺する。6千万人いたのが、諸説あるが100万人になっている。諸説あるが多いのが1500万人、4500万人が殺されている。シナはこういう国なのです。異民族が皇帝になれば殺す、この繰り返しだ。

後漢末期の黄巾の乱は有名。三国時代を作った乱です。紀元180年頃、この黄巾の乱は、とにかく略奪と虐殺の嵐で人が死にまくっている。

漢が滅びると三国志の時代に入るわけでず。魏、呉、

蜀が何年も争う。百年も天下を統一出来ず争った。有名に三国志は殆どフィクションですね。

最終的に、魏の曹操に仕えた司馬()の孫の司馬炎が、魏の最後の元帝から禅譲を受けて、晋、265年を建国。それも滅びます。

五胡十六国時代、304年に突入します。

五胡とは、北の、匈奴、鮮卑、けつ、西の、てい、姜と言う漢民族でない五族で、北方の騎馬民族の五族です。周辺の遊牧騎馬民族ですね。この五族がシナ全土で13の国を建て、漢民族は3つの国を建国した。

つまり、当時のシナ

では完全に少数派、絶滅したとの説もある。偉そうにシナ人の周囲は東夷西蕃など言うが、中央アジアの遊牧民族の国になっていたのですね。

それから南北朝時代、439年を経て、隋、581年が誕生します。

日本が遣隋使を送った隋、これは漢民族の国ではない。初代皇帝の楊堅は鮮卑です。北方民族で漢民族ではない。

隋と言えば、遣隋使を思い出し、同時に日本歴史の常識があれば、聖徳太子の隋の天子・煬帝に宛てた国書を想起する。鮮卑ですけどね。

日出ずる国の天子、書を日没する国の天子に致す、つつがなきや。

これ平等の筆致ですね、東夷と思っていた日本から国書ですから煬帝は怒った。

ソの隋を滅ぼしたのが唐ですね、618年。唐物などと陶器のことを言う、唐はシナの代名詞です。唐を作った李淵も鮮卑と言われる。

つまり漢民族の漢が滅んだ後は、シナ人、漢人の国ではなくなっていた。

シナ人は、北方民族を夷荻と蔑んだ呼び方しますが、北方民族は物凄く強くシナは勝てたことはない。モンゴルの元でもそうですね。

唐の時代も大きな乱があった。安史の乱、3600万人が死んでます。シナは10万人などの虐殺は何でもない感覚があります。

唐が滅ぶと、五代十国時代、907年を経て、北宋、960年となります。北宋は漢民族国家と言われるが、建国した趙匡胤は遊牧民族の突厥ですね。

このようにシナは4000年とかいうけどね、連続した漢民族の国ではありませんね。

北宋の時代の北方民族には、遼、916年、や西夏、1038年、金、1115年、という国があり、中でも金が強国であった。北宋は当初、金と組み遼を滅ぼすのですが、金が華北を奪い、北宋は江南に逃げて南宋を建国した。

宋はずーと金に虐められています。金とは女真族、満州族です。1115年、金はワンヤンアクダが満州国を建国します。最終的には、チンギスハンの子孫のモンゴル人に滅ぼされます。

モンゴル人により北方に追われた女真族は400年後、再びシナに戻る。それが、清国、1644年ですね。

結局、南宋も元、1271年に滅ぼされ、モンゴル人がシナ全土ほ支配します。

元はもともとモンゴル語があったが、漢字を取り入れた。モンゴルは国際国家でした。版図がロシア、ヨーロッパ、中央アジアと大きかった。モンゴル人が漢民族を支配した元では、身分的にも最上位、次に色目人、即ち西域の人が次で、最下部に南人、即ち華南の漢民族が最下部で身分差別があったとされます。共通語に漢語をしたのは便利からですね。

清は女真族と言いました。決してシナ文化にどっぷりと浸かっていません。元や清に真似てるものが多いとされます。チャイナドレスは、元々は満州族の民族衣装らしい。辮髪というのがありますね。あれも清人のヘヤースタイル、漢民族に強制しています。

大帝国の元も滅びます。後は朱元章が明、1368年を建国します。朱は貧農出身、コジキ坊主となり、農民反乱軍の、紅巾軍に参加、そこで頭角を現し、40才で天下を取った男でした。最大の成り上がりです。天下を取ると若い時からの右腕の胡惟庸を陰謀でっちあげて殺す。大活躍した将軍の蘭玉も殺害。みな一族郎党です15千人。

これがシナの伝来のやり方です。変わりませんよ民族性はね。

その明国も、農民反乱軍の李自成に滅ぼされます。

李自成も40日で女真族に滅ぼされます。女真族が400年ぶりに、満州から帰ってきたのです。ここでシナは再び北方民族の国、清となります。

1851年、清の時代、太平天国の乱が起きます。指導者は宗教家の洪秀全です。乱が起きる度に次々と人が殺されます。1856年、乱の首謀者の洪秀金はナンバー2の楊秀清を粛清します。関係者4万人が虐殺されています。

太平天国の乱から13年後、首都のあった南京で、清国の曽国藩が南京を占領、太平天国のメンバーを次々と殺害し三日間で10万人、その証言も残っていると言われる。

珍しいので長いかせ引用する。

曽国藩の部下が残していました。能静居士日記です。

「わが軍が南京に入城して数日間、民間人の老弱した者、労役に使えない者たちは悉く惨殺され、街角のあちこちに死骸が転がった。子供も惨殺の対象、多くの兵曹達が子供殺しをまるで遊戯を楽しむようにしまくった。俘虜となる40才以下の女性は兵卒達の淫楽の道具となるが40才以上の者、或いは顔が醜い者は殆ど手当たり次第に切り捨てられた」

これは南京城のことですが、この時、インドの新聞インドタイムスに語った外国人傭兵の城内目撃談が残されていました。

「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜達を殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかは定かでない。とにかく野菜売り場の広場に捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。男も女もいる。老人も、子供もだ。歩くのも無理な老婆、生まれたぱかれの嬰児、懐妊している婦人もいる。兵士達は、まず若い女達を捕虜の群れから引きずり出した。彼女達をその場で凌辱した後、周りで見物しているゴロツキ達の手に渡し、輪姦させるのである。兵士達はニヤニヤ笑っているが。輪姦が一通り終わると、全裸にさされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で切り殺してしまうのだ。

それから男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

心臓は一つずつ胸の中から丁寧に抉りだされて、用意された容器に入れるのだ。次に子供たちが母親の前で殺され母親たちも同じ運命となる。」

20世紀に入り、シナ中華の地に、初めての民主国家である中華民国が誕生したわけです。だがシナ全土を全く統一できませんでした。各地に軍閥と呼ばれる私兵を抱えた勢力が割拠していたからです。

従いまして中央政府は全く手出しできない。例えば満州一帯は張作霖が実効支配していた。中華民国を作った孫文は、「中華民国は清の領土を継承する」と宣言しましたが、実はこれもおかしな話なのですね。

何故なら、満洲は元々女真族の土地、そこからシナに侵攻して清国を建ててますからね。過去に中華帝国は一度もその地を支配していないのに建国のどさくさに紛れて満洲を自国領と宣言したからです。

日本は、愛新覚羅溥儀を擁立して満州国を建てたことを非難するむきがありますが、領土的には正統性があるわけですね。

中華民国がそのまま統一国家ととなつていたら、シナも遅ればせながら民主国家となっていた可能性はありました。

しかし、間の悪いことに1921年、世にも恐ろしい集団がシナに生まれたのです。その名は中国共産党。

有名な百田尚樹は、

「中国共産党こそ、シナの残虐王朝の伝統を引き継いだものとしておられます。その残虐性は歴代のどの王朝も敵いません。

まさしく、シナ4千年のトリに登場するに相応しいかケールの王朝だ」言っておられます。

この中国共産党かせ、どのようにして中国全体を飲み込み、全土を統一してからは、どれ程多くの人民を殺したか、これは何れお話しますと述べられています。

百田氏は、一言だけ言うておきますと。過去の歴代に現れた、どんな残虐な国家も、中国共産党には敵いませんと。

       令和4103

     徳永日本学研究所 代表 徳永圀典