改新の詔改新の詔に示された大改革

大化二年正月一日、前年に蘇我打倒のクーデターに成功した中大兄皇子、中臣鎌子は、孝徳天皇の名の下にあらたな施策としての大化の改新を打ちだしました。

「二年の春正月の甲子(きのえね)(ついたちのひ)賀正礼畢(がしょうれいおわ)り、即ち改新の詔をのたまいて曰く、「その一に曰く・・・」(日本書紀より)と始まるこの改新の詔は「その四に曰く」まで続き、おおむね次ぎの四綱目としてまとめることができます。

 

「土地人民の国有制」

先ず第一に土地・人民の国有制がうたわれています。いままで氏姓制度の社会で行われてきた土地人民の私有制の廃止、つまり皇族や豪族の私地私民を全廃し、貴族・豪族にはその代償として食封(じきふ)を与えるという条件を出して納得させ、公地公民制、即ち土地人民の国有制が示されたのです。

これは従来の氏姓制度社会を根幹から覆すもので、まったく新しい制度の導入です。いかに食封を与えられるとはいえ、これまでの支配者である豪族層は私有していた土地人民を没収されるわけで、当然、激しい対抗が予想されるものでした。

「国郡制」

公地公民制は中央集権化のための最も根幹的な政策ですが、それを具体的に施行していくためには行政区画を完備し、中央と地方との間の命令系統を整えなければなりません。その意味で、この第二の国郡制の施行は中央集権体制を構築するための具体的施策であるといえます。

国郡制は、都が置かれている大和を中心とした五畿内の地域を「畿内国」としていわば特別行政地域とするほか、それ以外の地域に国・郡・里などの地方行政区画を完備しようというものです。そしてもその新行政区画の地方官の任命規定を定め、軍事・交通制度を整備するなど、一般地方行政の綱目を規定したのです。

 

「班田収受制」

第三が、いわゆる班田収受制の施行です。

班田収受制の前提として、既に蘇我氏が私有地において徐々に行い、またた推古朝において漸次実行されてきた、地方の田畑の計帳である土地台帳を徹底して作成することが命ぜられました。

そして同時にその土地に住んでいる人々の戸籍をつくり、まず計帳・戸籍によって土地、人民の国有を主張する基盤を築こうとしたのです。即ち、計帳・戸籍によって第一の公地公民制という基本政策が具体化され、土地は全部国有として取り上げられるわけです。

しかし、そのままでは私有地を失った人民は耕作する土地がなく、生活が成り立たないことになります。それでは国家財政も成り立たず国を統治することもできません。

従って、土地の所有権は国に帰するが、その代わり国有地を人民に貸し与えてその借用地を使う権利、即ち用益権だけ認めるという制度を採るわけです。従来の私有地を没収して国有地とし、改めてその国有地を人民の資格に応じて貸し与え、それを耕し使うことを認める、というように従来の権利関係を構成しなおした。これが班田収受の制度です。

「税制」

土地の借用を認めるわけですが、ただ貸して使わせるのでは意味がありません。そもそも公地公民制、国郡制、班田収受制の目的は、一面においては中央集権体制を構築して国家の富を朝廷が独占的に管理、運営することにあるとも言えます。そこで第四番目の重要な施策として朝廷に国家の富を集中させるための税制が新たに規制されたのです。

即ち、公地公民制や班田収受によって、国有地である田畑を班給されて用地権を得た人民はその対価として国家に対して租税を納めなければならないと言う根拠がつくられたわけです。

そして、その根拠に基づいて()(ちから)をはじめとして調とか庸とかの各種の税を具体的な数字を示して定め、それを人民から徴収するという税制が定められたのです。

以上の四綱目を眼目とする制度改革は四つが有機的に結びついて強力な中央集権体制を実現するものと言えます。

しかし、この改革は従来の土地人民の私有制度で成り立っていた社会構造そのものを覆し、土地人民の国有制という構造に改変する根本改革です。これほどの大改革であれば、当然、かなりの抵抗が予想されるわけですが、改新政府はこの根本的な改革を、比較的迅速かつ円滑に実施していったのです。もちろん、若干の旧豪族層による反抗はあったのですが、概ねこの政治改革に対してはそれほど強い動揺と反感がなかつたとみられます。なにゆえに抵抗少なくして改革を進められたのか。今度はその点を中心にして改革政治の実際をみていきましょう。

 

註 食封(じきふ)

  古代の俸禄制度。皇族、高位高官者、政治的功労者、社寺などに一定地域の郷戸を封戸に指定して、その租の半分と庸・調の全部及び仕丁を支給したもの。

  国郡制

  律令国家の地方行政制度の基幹となった制度。七世紀に成立した唐制を基とする制度で五十戸を一里(のちに郷)とする里を最下部の単位として十六?二十里を大都として大領・少領格一人、主政三人、主帳三人をおき、十二--十五の上郡、八-十一里の中都。四−七里下都、二?三里の小郡と定めて郡司の定員を決めた。この郡司には存地の豪族をあてたが、その上におかれた大・上・中・下の四区分を伴う国は、中央から派遣された国司が政事にあたり律令国家を支えることになりました。

  班田収受

  律令制の下で、一定年齢に達したら人民に一定兵庫面積の口分田を中国の訴移転をわかち与える法。中国の井田法を発展させた均田法を発展させた均田法にならった時に採用され律令制土地制度の根本をなす法になった。