中国、あれやこれや その28

平成19年4月

 1日 韓国の背後には中国

中国を絶対視しない新井白石

筑後守(白石)儀、古今に通じ博識の者にて御座候、世間に博識の者(おおく)候へ共、多は中華の事迄に博御座候処、筑後守は日本の事に殊外委敷(ことほかくわしく)、和漢の事引合候て、能弁じ申候。(室鳩巣(むろきゅうそう)の白石評) 当時、17世紀後半から18世紀にかけては中国化時代であり、中国が絶対権威であった。
白石の態度は、中国文化に深い敬意を払い、日本への影響を認めつつも、中国は中国、日本は日本という態度を取っていた。
 2日 白石の態度

中国へは従属でもなく、劣等感から生じた反発でもなく、真の意味で「対等」の意識を持ち、互いに独立国だから、お互いに違う。そこで全てに於いて対等に粘り強く「交渉」し、先方の主張も聞き、当方の意見も述べる。

そして合意に達すべきだ。という態度を終始取っている。こういう態度は白石が最初にして最後かも知れない。白石が交渉した相手は朝鮮であり中国ではない。当時日本と中国は政経分離方式で貿易していた。
 3日 当時の対中国関係 修好は日本が中国に申し込んでも返事のない状態であった。朝鮮に対して細かい修正まで一々しているのは背後に中国を意識した「対中国交渉の先例」というものがあったと思われる。 白石が細かい点をあげつらう位、国内からの批判がある位粘り強く交渉しているのは、対中国への深慮があったからである。
 4日 一歩も引かない新井白石 当時、中国を基準にして日本の歴史を断罪し天皇は中国型皇帝の位置にあるべきで、従って幕府は非合法政権であるとする見方・考え方が既に国内で始まっていた。 幕府という概念は中国には存在しない。幕府存在に関わる問題があるし中国とは当時絶対的な権威であるから、白石が一歩も引かない態度の原因はここにあったとも思われる。
 5日 物を見る基準

当時の日本人は日本を基準に物を見ることは出来なかったという。基準はすべて中国であった。

白石は明快に武士の伝統に立ち、これを日本独自なるものの中枢に置き武家の基準を基準として歴史を見ていた。
 6日 日・中は常に政経分離の関係

幕府の創設者の徳川家康は、対中国には「政経分離対西欧には「宗経分離」を外交政策の基本としていた。

こう見てくると政経分離の歴史は長い。日中交渉史の最長期間を占めているのである。
 7日 中国に関する誤解解消を

中国四千年の歴史
これはヨーロッパには六千年の歴史があると言うのと同じことの表現。 彼らは、民族が違い、王朝が違うのだから万世一系の日本とは根本的に違う。中国の天子は革命により更新されている。易姓革命の国である。革命の国なのである。
 8日 シナのいう通史とは シナには昔から通史はない、通史見たいに見えるのは前の王朝が潰れてから後の王朝が書いたもの、だから必ず前の王朝の最後の方は物凄く悪い王で、どの王朝も初めの三代目くらいまでは褒める。 そういうパターンになっている。しかも、近代史、清の歴史は無い。孫文以来、毛沢東以来の歴史もない。事実としての歴史ではなく、反日のプロパガンダとして書いているだけである。
 9日 大韓帝国

日本と中国の宣戦布告の文書という最高の公文書を比較すると、清国の宣戦布告書の中には、朝鮮は何百年以来、自分の国の造化属国であるから日本は口出しするなとある。

日本のほうには朝鮮を独立国にしなさいとある。朝鮮に独立の気概を起させたのは日本である。世界の国々と交わらせようとしたのは日本である。事実、日清戦争が終わると韓国は史上初めて独立初めて大韓帝国としたのである。 

10日 義和団の乱 これは北京に住んでいた外国人が殺されかかった事件である。当時北京には日本を含む11ヶ国の公使館があった。それを中心に義勇軍が組織されたが、その中で最も活躍したのが柴五郎中佐率いる日本兵。義勇軍のトップはマクドナルドという英国人、彼が見て本当に役立ち勇敢に戦ってくれたのは日本の柴五 郎たちだと言った。規律は厳格でいつもニコニコして働き戦はきちっとやる。それが日本は信用できる国と評価となり日英同盟の遠因となった。ロシアは大部隊を派遣したが六に働かず戦いが終わっても引き上げないで満州に居座ったのが日露戦争の始まりである。
11日 義和団当時の中国 北京で義和団の乱を各国が制圧してから、各国がそれぞれの地域で治安に当たったが、ロシア軍の地域は強盗集団のようなものだった。 紳士的と言われた英国でさえ貴重品を盗む。そういう事が一切無かったのが日本。当時のシナ人達は好んで日本の旗を掲げたと言われる。
12日 当時のロシア軍のあくどさ 満州は清国が支配していたが、義和団の乱後、ロシア軍が居座り、ドンドン侵略して事実上、満州はロシアの支配下になってしまった。日露戦争前には清国官吏が満州に行くのにロシア官憲の許可を要するようになった、現在の日本の北方領土と同様であり ロシアのズルさは戦後日本人の抑留のように強盗そのものだ。日本はこのような事情もあり、日露戦争開戦の時は、事前に清国に対して、お宅の国の中で戦いを始めますと断っている。そして戦いに勝ち満州を清国に返してあげた。
13日 満州のこと 満州と言うのは満州族(女真族)の地である。徳川家康が死んだ頃、満州にヌルハチという人が台頭、子孫がどんどん勢力を伸展して遂にシナ全土を征服した。清朝・清国というのは満州族の国なのである。 処が1911年に辛亥革命が起こった。辛亥革命と言うのは被征服民族であるシナ人が征服民族である満州族王朝から独立する独立運動のことであり日本人はそれを助けたのである。
14日 溥儀(ふぎ)のこと 辛亥(しんがい)革命が起きた時、共産主義的な勢力に身の危険を感じた清の最後の皇帝の溥儀(ふぎ)は、イギリス人の家庭教師ジョンストンと日本大使館に逃げ込んだのである。 溥儀は自分の先祖の墓を暴くシナ人がつくづく嫌になり、先祖の地、即ち満州に戻りたいという切なる希望を持った。日本は困惑したが、遂に応援してあげて満州建国の始まりとなったのである。
15日 満州国

溥儀の裏切り証言
満州国は大臣は全て満州人、または清朝の人であった。実務では日本人が握っていた部分はあったが、それは溥儀にまだ統治力が無かったためである。 だから満州が中国の領土だというのは正しくない、元来は満州族即ち女真族のものなのである。予断だが東京裁判でこのラストエンペラーの溥儀は浅ましい男で命ほしさに嘘の証言をしたのである。日本を裏切った男だ。
16日 中国共産党の戦時中 現中国共産党軍はまともに戦っていない。ゲリラとして日本輜重兵を千人くらい殺害した事が二、三回あった程度。まともな戦争はしていない。 これを百団作戦などと戦後大々的に宣伝しているが、チョコチョコとゲリラをやった時に大掃討作戦をやられて後は何もやらなくなっている。
17日 リットン報告 この国際連盟への報告は日本の侵略とは言えないと報告をしている。リットンは満州を自治州にせよと言っている。 満州はイタリアとスペイン、ドイツなど二桁の国々が承認した。当時の中華民国の蒋介石も事実上認めている。
18日 シナ事変はシナが始めた 盧溝橋事件は夜間演習で実弾も込めないで、鉄兜も被っていなかった。何回も中国サイドから実弾を打ち込まれるので蒋介石軍と話をつけるが話がつく度にまた弾を撃ってくる。そういうスパイが入っていた。これは国民政府軍に入りこんだ共産党の陰謀だったことが明白になっている。 盧溝橋事件は昭和12年7月7日に始まり9日には停戦協定が出来た。それから約3週間経た29日、通州で、日本人の民間人が200人くらい虐殺された。日本軍は動かざるを得ない。シナ事変は日本がやりたくてしたものではない。中国側が始めたものだ。
19日 張作霖 日本は満州の建国を目的としていた。張作霖爆殺などは前史であり、そもそも問題ではない。 マオによると張作霖を殺したのはコミンテルンだと言うではないか。
20日 張学良

反日に回った張学良を一掃するのは当然、これは侵略とは言えない、満州建国運動だ。

満州人皇帝の満州を建国する為にはシナの勢力を追い出さなくてはならないのだ。張学良こそ満州国の侵略者だ。
21日

日・中15年戦争

日本が仕掛けた満州事変で日中戦争の泥沼が始まったというのは嘘。満州事変の後で塘沽条約が出来て、中国も満州と国交関係を結ぶ協定も出来ていた。

シナ事変が始まったのは、その後のコミンテルンのは力がシナ大陸で強くなり盧溝橋とか上海で事件が起こったからである。

22日 戦後のアジア 日本は東南アジアの独立国に侵入したのではない、全部、欧米の植民地だった。日本はABCD包囲網により貿易が出来なかった。 苦しんだ日本は、全部独立国にすれば貿易が出来ると考えた。その理念は昭和18年、東条内閣の大東亜会議である。実に立派なものでその線に沿い戦後のアジアがあるといえる。
23日 万人抗 中国が大量虐殺などいうのは嘘で根拠が無い。事実無根であり、あの朝日新聞の本多勝一記者(本名・崔泰英)の連載「中国の旅」で有名な事実無根の話。 満州の日本人が経営する鉱山で、中国人労働者を酷使して使い捨てしたというのであるが、日本人は大量虐殺殺人するという思想が本来皆無。
24日 三光作戦 日本にはそもそも三光作戦という日本語はない。焼き尽くす(焼光)殺し尽くし(殺光)奪い尽くす(槍光)というのはシナ人が昔からやったこと。 シナ人が自分たちのやることを日本に当てはめているだけ。日本語には無い言葉で頭隠して尻隠さずの類いである。
25日 731部隊 新華社通信が報じて朝日新聞が宣伝したものだが、何の根拠もない話。森村誠一の「悪魔の飽食」で批判されたのだが、その実験でシナ人を殺している写真というがマスクして帽子を被っているのは本当 は赤十字のマークがついていた。コレラか何かの治療で、それを共産党は虐殺の証拠に使った。満州は水が悪く日露戦争時から防疫部もあり水の浄化に細菌に詳しい人がいる。当時ソ連が細菌戦の噂もあり対抗上必要があった。
26日 道義性に欠ける中国盟主論 そうなりたいと思うだけで、そんな実績は無い。アジアで植民地から諸国を解放してあげたのは日本だ。又、中国から欧米諸国の租界を無くしてあげたのも日本である。 北東アジア共同体など言い、中国をアジアの盟主にしてはいけない。又その品格もない。製品の海賊版の被害が日本だけで9兆円もある国、インチキの国民性は盟主になる資格皆無。
27日

汪兆銘

中国の愛国者だ。彼が重慶を飛び出して政権を作った時の状景だが、当時、日本は上海、南京、広東、北京、保定、武漢三鎮(漢口)を占領していた。蒋介石は重慶の山奥に逃げていた。

蒋介石が降参しないのは英米とロシアが助けていたからだ。中国の民は日本と交渉するする政府が必要、その貧乏くじを引いたのか汪兆銘で命がけで脱出して南京政府を作ったのだ。彼は孫文のナンバー2で蒋介石と肩を並ぶ人。
28日 台湾は化外の地としてシナは賠償から逃げた 台湾は大陸の中国の実効支配を受けたことはない。シナの流刑地だったことや、オランダが占領したことはあるが、全島に亘り完全実効支配したのは日本だけである。 明治7年に沖縄の漁民が台湾に漂着し、その時、大久保利通が北京に行き李鴻章と交渉したが、清国は台湾を「化外の地」だと言った。シナでは無いと言い賠償から逃げたのである。
29日 戦後賠償 二度とも放棄宣言している。蒋介石が「怨みに報いるに徳を以てす」といい放棄した。 田中角栄の時も同じ言葉を以て周恩来が放棄した。二度も放棄している。
30日 大虐殺 東中野修道・亜細亜大学教授の努力で、これまで証拠写真として使用されていたもの全てを検証した結果、証拠写真として使用出来るものは一枚も無いことが実証された。 全て中国共産党のプロパガンダの為の「やらせ写真」である事が明白になっている。中国はニセ物作り大国でありコピー大国である。