易と人生哲学 安岡正篤先生講義 
平成19年4月

 1日 如是 また我々が直接経験する認識、あるいは感覚というもの、これは易でいう(そう)であります。つまり現実あるいは現象であります。この我々の現実の認識によって把握する相は単なる形態ではなく、その中に意味があり、力があり、創造―クリエーションで、その奥にはもっと深い本質的なものがある、それを相と言い、之を極めて如是相、如是性、如是体とします。 之は単なる物質的存在ではなく、その中に不思議な力というものがあります。つまりエネルギーと言っても宜しい、それが色々の働きをしますので()と言います。即ち(にょ)是作(ぜさ)であります。これが原因となって、これから色々なものが生まれます。その関係を縁と言います。だから縁という字を「よる」と読むわけであります。
 2日 縁と因縁・因果 この作用が縁によって色々のことを起す因、即ち元になり果を結ぶ、そこで因縁と、因果という言葉が出来るのであります。処が民衆に普及するにつれて、この因果というものが悪い意味に使われるようになって「あいつは因果な奴だ」とか「何の因果で」とかよく言いますが、これは本然ではありません。 因果というのは、原因から縁によって果を生ずるということでありますから、好いも悪いもない自然の事実であります。処がそういう自然のものである因果という言葉が、悪い意味に使われるようになったということは、人間の考えたり行ったりすることが、いかに多く真理から大道を外れるかとい事実を物語っております。
 3日 縁起 因縁という言葉は大体本来の意味に使われておるようですが、面白いのは、専ら悪い意味に使われております「因果」という語です。この果から又その反作用を生じます。これを報と言います。果報(かほう)がこれであります。これは専ら好い意味に慣用します。 人間の言葉、文句というものは、このように一寸常識ではわからぬもので、兎に角人間世界のことは因縁というものから色んな果報が生まれてくる。そこですべては因縁から起こるというので縁起という言葉があるわけであります。これは縁起が好いとか悪いとか普通に使っております。
 4日 相待つ 処が、こういう相、性、体、力、作、因、縁、果、報、その本も末も、突き詰めると「本末究竟(ほんまつくぎょう)(とう)」であります。 この(とう)は、ひとしいと言う文字で相対するものが相待つ、つまり相対()であった、この本と末とは循環するものであります。
 5日 (ちゅう)する

さて人間を含む造化の世界というものは進歩向上してやまない。現実は万物の相対()する世界であると同時に、総合統一されて限りなく変化していく、あるいは進歩向上と観察することもできる限りない造化が進行してゆく、それが「(ちゅう)」であります。

中するということは、現実の矛盾を統一して更に新しくクリエートしていく働きを言います。だから非常に総合的、統一的、進歩的な作用であります。だから中と言うものは、そういうジンテーゼSYNTHESEです。
 6日 偉大なる「(ちゅう)の世界」 矛盾を統一し、相対()的なものを限りなきクリエーションに展開していく、これが中であります。そこでこの万物の世界というものは「偉大なる中の世界」ということができます。その事を説いた書物が「中庸」という書物であります。 この庸の字は、つねという字で不変の法則を表しますから色々に用います。また庸には用いるという意味があってイにんべんを付けますと傭うという意味となって、色々と文字が変化しますが、その根本はやはり中であります。
 7日 折中(せっちゅう)

易は限りなき造化、つまり生命というものを把握して、その中に含まれておる数、複雑微妙な因果関係を明らかにして、どこまでも進歩向上発展にもっていくということであります。そこでこの中というのは相対立するもののまん中を取るというような単純な意味ではなく、勿論それも一つの中には相違ありませんが、本当の中は、もつと動

的な、所謂ダイナミックな意味をもっております。折中という語があります。この折の字には、祈るという意味と定めるという意味がありまして、折中の二字は矛盾、対立、闘争する双方を処理して、総合統一して限りなく進歩向上させる、これが本当の折中の意味であります。
 8日 中論(ちゅうろん) 論理学でいう、正・反・合・正があって反があり、それを合わせ進めるので合と言います。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼというのは、論理学の三段論法と言われ、みなこれ中論であります。 仏教も理論的には中論、儒教は中庸でありますから、東洋の儒教、仏教、老荘、道教はみな中論であり、中道、中庸であるということができます。
 9日 命、数の思想学問 だから、この中というのは、あらゆる思想学問の極めて根本的な思想であり概念であります。普通は極めて簡単に解釈しておりますが、中というものはそういう非常に深い思想であり概 念であるということを理解しませんと間違いを生じます。そこで易は最も典型的な命、数の思想学問であると同時に、中説、中論、中の学問と言われる所以であります。
10日 心中(しんちゅう) 嘗て中国の学者が日本に来て、かわいい少年達が中学に行っておると聞いて「はあ、日本は大した国だ、あんな小さな子供に中の道を教え学ばせている」と云って感心したという話がありますが、小学校、中学校、大学校の中学校であることを知らぬものでありますから、外国の老学者らしく感心したという笑えぬ笑話であります。これも明治時代の笑話でありますがある中国の学者が男女の情死を心中と書いてあるのを見て非常に感

激した。「日本人は、実にすぐれた儒教を体得しておる。この世で添われぬ恋仲の男女が、死んであの世で一緒になるし信じて共に死ぬことを「心中」と言う、良い言葉だ」と感心したという。これは面白い話であります。情死などと消極的ですが、心中と書いてやれば、これは学問的にも非常に意義ある言葉になるので、もって瞑すべしであるというのもおもしろい。 

11日 相生(そうせい)相剋(そうこく) 陰陽(いんよう)五行(ごぎょう)説に相生・相剋ということがあります。陰陽五行と言いますのは、前回も申しましたように、易の本質的なテクニカル・タームその専門用語でありますが、この思想は、(いん)の時代から始まっておりまして、最も発達したのは周時代、特に始皇帝(しこうてい)などの出ます(しん)の少し前、戦国時代に大体この陰陽五行思想が出来上がりました。 これは皆さんご承知の通り、「(もく)()()(きん)(すい)
という五行、つまり五種の働き、作用、活動であります。天地、人間を通ずる創造、進化、造化の働きを五つの根本概念に分類したものであります。
12日

(もく)()()(きん)(すい)

元来、中国人は抽象的理論にとどめることを好みませんで、常に具体化する象徴、シンボライズというものを愛する民族性があります。哲学的に言いますと、シンボリスト、象徴主義者であります。

それで造化(ぞうか)の働きについても五行(ごぎょう)と言いまして、(もく)()()(きん)(すい)という五つの象徴を用いるのであります。
13日 五行(ごぎょう) (もく)()()(きん)(すい)と言いましても、何も木とか、火とか、土とか、金とか、水というもの、そのものを天地、人生を通ずる造化の実体としたというのではありません。 それに象徴される「力、実体、造化の作用」を意味するもので、千変万化する天地、人間を通ずる創造、進化の営み、働きを木・火・土・金・水というシンボルを借りて把握し解説したものであります。だから、これに囚われてはなりません。従って間違えると非常に滑稽なことになります。
14日 俗の解釈 「あの人は火性の人だから人を焼き滅ぼす」などというのは迷信でありまして丙午(ひのえうま)と同様で「丙午の女をもらったら焼かれて殺される」と同じ考え方であります。 兎角この世の中には俗の解釈、俗の思想がありまして、これには誤り多く時には危険を伴う。易という非常に優れた思想、学問が通俗化するとともに、おかしい程誤解、曲解されておることが数知れずあります。
15日 正しい易学へ 世俗に普及しておりますだけに、これを正しく解説して、そして世にいわゆる易者から正しい易学に進ませることが極めて大事なことであります。 易の六十四卦、易経の中へ入りますと、殊に経文の解釈など世間の易者がやっておりますのは、本当の学問をした者から申しますと苦笑いするようなことが随分多くあります。
16日 大道易者 大分前のことでありますが、私がある夜所用をすませて上野を通りましたら、一人の易者が客がなくて淋しそうにしておりました。好い人相でありますので、一寸立ち寄って「見てもらおうか」と言いましたら、私の手相を見まして易の本を出し「あなたの手にはこれがある」と云って解説してくれました。処が学問上からすると、とんでもない間違ったことを言っておる。そこで「それはこうではない のか」と反問しますと、吃驚して「お客さんは易を知ってますね」と言う。「いささか学んでおる」というと「勘弁して下さい」と苦笑するので人も立ち止まるし、それ以上話さずに別れましたが、随分多くの人々が大道易などで自分の運命を判断したり、色々な問題を思案に余って解釈するのに利用したりするのは危ないことであります。然し稀には大道易者の中にも中々優れた人もおります。
17日 相生(そうせい)関係

話が少し横道にそれましたが、相生(そうせい)相剋(そうこく)について、例えば「木」というもの、人間が恐らく原始人、創世記の頃、木や草が生い茂って一番認識の対象になったものに相違ありません。

それから火をつくること、火を用いることを覚えました。だから古代からの人間生活をたどってきますと分かるのですが、木の次に最も創造的、根元的なものは「火」であります。
18日 相生関係2

その木、火を存立させるものが「土」であり、その土の中に色んな鉱物を発見しました。これが「金」であります。また、土や山から出てくるものが「水」であり、これが木を養う。そこで木から火を出し、「(もく)()()(きん)(すい)」を五行というわけであります。

つまり生命活動、自然力活動の五つの根源的シンボルであります。これを「相生関係」と言います。そしてその相生関係を、「木生(もくせい)()」、「火生土(かせいど)、「土生(どせい)(きん)」、「(きん)生水(せいすい)」、「(すい)生木(せいもく)」とします。
19日 相剋(そうこく)関係 相生関係に対してまして、木は土から養分を吸って育ちますから、これを(こく)すると言います。木は土を剋す、「木剋土(もくこくど)」、土は水を剋す「土剋(どこく)(すい)」、水は火を消す、「水剋(すいこく)()」、火は金を焼く、「火剋(かこく)(きん)」、金はこれで木を切ったりしますから、「金剋(きんこく)(もく)」、以上が相剋であります。 これらが易の中に入ってきますと根元的に活用されますので、この「相生」、「相剋」関係を知らなければなりません。またこういう造化の関係、作用を極めてシンボリカルに根本範疇として発達させたのが「十干、十二支」であります。
20日 十干(じっかん)十二支(じゅうにし)

十干(じっかん)というのは干という字が表すように根、根幹であります。それから十二支(じゅうにし)と言いますのは枝、葉であります。根幹から生ずる枝葉或いは花、果実でもあります。これを十干十二支と申します。十干と言うのは申すまでもなく皆さんよくご承知の(こう)(おつ)(へい)(てい)()()(こう)

(しん)(じん)()、という十種類。あらゆる暦に出ております。十二支は、()(うし)(とら)()(たつ)()(うま)(ひつじ)(さる)(とり)(いぬ)()、と言う。此れ亦誰知らぬ者もない、最も民間に普及した概念であります。
21日 真の意義 この十干、十二支を組み合わせますと六十になりますから、これで人間の存在、生活、それから生ずる諸般の問題を六十の範疇に分類総合して解説します。これの本当の意味というものが案外知られておりません。最も古い歴史を持つものでありながら、そして最も民衆に普及した ものでありながら、非常に正解が少ない。これもよく普及したが故に次第に通俗化して堕してしまって本来の意義を失うようになりました。然し、この十干、十二支の本当の意味をまず知っておかなければ易に入ることが出来ません。
22日 陽と理知 陰陽相対性の理法、これは前回解説致しました通り、草木を例にとって見ると一番分かり易いのであります。これを人間で申しますと、男は陽の代表であり、女は陰の代表であります。 また我々の精神作用で申しますと「理知」と言うのは、これは陽の代表であります。だから理知、理というものを「ことわり」と言います。物を分類することでありますが、「ことわり」と言います。
23日 陽と理知2 従って理知というものは「ものわかり」であります。これは非常に本質をよく表したものでありまして、我々の理知というものは、物を分ける働きであります。子供が少し大きくなると、目、耳、鼻、口、という風に顔全体を分ける。それから次第に抽象論、抽象的理法というものを覚えます。 だから理知によって物が分かり、はっきりする。その代わり、物分りというものは余り、理知的、理論的になりますと、分かれ分かれて分からなくなる。「あれは物分りのいい奴だ」という理知主義者は、終いには「分からず屋」と言われるように分からなくなります。
24日 論理の遊戯 かって師友協会の講座で理知だの感情だのという我々の意識、精神の解説をした時に大面白い実例を紹介して皆んなが大笑いしたことがあります。これは明治初年にアメリカから伝わってきたものであります。ペンシルベニアにインテリの一紳士がおりまして、それが細君を亡くして父と親子二人で住んでおりました。不自由だろうと仲立ち する者があって後妻をもらいました。その後妻が一人の娘を連れ子して参りました、紳士は大変心の優しい、よく気のつく人で後妻母子と自分の父との間がうまく行くかどうかを大変心配しながら結婚した。どこの国も人情は同じであります。処がその後妻の娘と父との間がうまくいって、後妻の連れ子をしてきた娘を父が後妻になおしました。
25日 論理の遊戯2 そこで息子が悩みだした。何となれば、我が父は、我が娘の配偶であるから我が子である。我が娘は我が父の妻であるから我が母である。そうすると、我が妻は我が娘の母であるから我が祖母である。 我が父は我が子であるから、父の子である我は我が孫である。我が父は我が子にして、我が娘は我が母なり、我が妻は我が祖母にして我は我が孫なりということで、解らなくなって自殺しました。
26日 論理の遊戯3 これは本当にあった事だから面白い。余程、哲学か、論理学等をやって頭が変なことになったのでしょう。成る程、A、B、Cというふうに抽象的に分ければそうなるわけですが、現実はそうではありません。 抽象と具体とを混同した、つまり論理、概念の遊戯でありますが、神経衰弱等になるとそのようになるのでしょうが、これは現実にあった話であるから尚更面白い。
27日 国家と社会 人間の思想、イデオロギーといったようなものも、このような事が沢山あります。特に大正から昭和の初めにかけて国家論というものが大変盛んになりました。 国家とか社会というものが哲学者や大学の法学部等でやかましくなり、それまでは国家万能であったのですが、学者が国家のほかに社会という概念を発見した。
28日 国家と社会2 これはコロンブスの新大陸発見より重大であるというようなことを言い出しまして従来は国家しか知らなかった国民に教えだしました。国家とは土地と人民と主権者の三つの要素から成り立っておるが社会というものは 土地と人民の組織体であり、国家と社会の相違はつまり主権者の有無ということだ、これからは国家主義よりも社会主義でなければならないと教えました。これが大流行していまだにその影響が残っております。
29日 イデオロギーの遊戯
社会主義思想
社会主義思想を進歩的だとして国家というものを罪悪視する思想、考え方がいまだに抜けません。この、そもそもの原因は、先ほど話したあの考え方であります。我が父は、我が子にして、我が娘は我が母なり、我が妻は我が祖母にして我は、我が孫 なりという論理の遊戯と同じであります。このように根源に返ってみますと何だということになって分かるものですが、それが国家学だという風になってくると分からなくなってしまいます。イデオロギーの遊戯というものであります。
30日 不易学 理知に走りすぎると分からなくなる、これは易学でなく、不易学であります。易学というものは、こういう概念や論理の束縛から解放しなければなりません。またそれは大いに役立ちます。現在の思想、学問の一部には頑固な不易、即ち固定、擬帯した概念と論理のまことに困った傾向があります。そういう意味でもこの易学というものは大いに活用しなければならぬと思います。

予定の時間が参りましたので本日はこれだけにして、次回は、易の(たい)(きょく)、陰陽、()(こう)を説明し、易の六十四卦というものが人生、思想、国家等をいかに巧妙に且つ用意周到に観察、解説しておるかということを申し上げたいと思います。

(昭和52年10月6日講)