日本、あれやこれや その36 

平成19年4月

 1日

昭和天皇

終戦の詔勅

ここには大東亜戦争の目的が「帝国の自存」と「東亜の安定」であること、敵が原爆の如き残虐な新型爆弾を国際法を犯してまで非戦闘員の国民の上に、無差別に使いだした。

この惨害をこれ以上広めぬために戦いを終わらせねばならない。国体護持の条件が認められたので、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んで、万世のための太平を開かん」と欲して終戦を決意されたのである。 

 2日 お言葉の真意を忘れるな この終戦の詔勅のお言葉の中には、無条件降伏したとか、侵略戦争で迷惑かけてすまなかったとかの謝罪、反省の文言は一行も入っていない。どこまでも戦いを終わらせる為であった。 戦争に負けたとか、謝るとかの卑屈な言葉はどこにもない。実に堂々たる態度で国民に語り、今後も国体の精華を発揚して世界の進運に後れをとるなと、国民を励まされているのだ。
 3日 世界に稀な詔勅 昭和20年8月15日正午、終戦に関する前代未聞の「玉音放送」が行われた。天皇自ら終戦の詔書を国民に告げられた。この「御聖断」を受けて、一億国民と共に広く海外従軍中の陸海軍が同時に戦闘をピタリと中止したのだ。これを「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」といい世界史上実に稀な出来事であったのだ。こんな国家は無い。 天皇と国民が常に共にあるのが日本本来の姿である。それが有史以来の日本の国柄である。全国民の承詔必謹が米国占領下でも徹底し、外国のようなテロもゲリラも無く、冷静に天皇に従った。これを見たマカーサーは、これ程従順な国民があろうか、天皇国家の偉大さに感動したのであった。
 4日 マッカーサーの述懐 マッカーサーは「一兵も殺さず、一発の銃撃も無く、降伏を終わらせた例が、世界のどこの歴史にあっただろうかと述懐した。日本人が世界に理解されていない。 占領軍総司令部の占領政策が予想外の成果を収めたのは、マッカーサーが天皇の権威と徳を巧く利用したからで、ブッシュが言うように米国に負けたからではない、彼は根本的に理解が欠けている。
 5日 天皇の訪問 天皇は占領後まもない昭和20年9月27日、自ら進んでマッカーサー元帥を訪問された。「戦争の責任は私一人にある。私の生命は元帥にお預けする。飢餓にあえぐ国民を救ってくれるように」と願われた。 マッカーサーは敗戦国の元首が命乞いに来たのかと思っていた。天皇陛下の純真、善良なお人柄と、ひたすら国民を思う心情に感動したのである。このような元首は世界史上に聞いたことはない。外国の元首は隠し金を持ち逃亡するのが常である。
 6日 当時の御製 「身はいかになるとも (いくさ)とめにけり ただ倒れゆく 民を思いて」 「わざわいを忘れて 我を出迎える 民の心を うれしくぞ思う」
 7日 御製 喜びも悲しみも 民と共にして 年は過ぎゆき 今はななそぢ  昭和40年 70才 さし上る 朝日の光り へだてなく 世を照らさんぞ 我が願いなる
 8日 世界に見る
昭和天皇の偉大さ実証
大東亜戦争の戦争相手の世界の英雄、主役のアメリカ大統領ルーズベルト、英国首相のチャーチル、ソレンの独裁者スターリン、中華民国の蒋介石総統、日本の同盟国ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニ首相。彼ら全員が死亡した後まで昭和天皇は長命で生き残られ、 日本の戦後の復興から大発展する日本となるまで貢献され見届けられた。天皇の偉大さは、大喪の礼ではっきりと実証された。天皇崩御で国として服喪したのが14国に及び国民は意外に思った。他国の元首の死に対して国を挙げて哀悼の喪に服することなど過去にあったのであろうか。
 9日 昭和天皇の服喪

日本の服喪は二日間であったが、外国では三週間に及ぶ国もあったという。昭和天皇と日本の偉大さを知らないのは日本人ばかりであったのだ。続く大喪の礼には、世界193の国や機関の代表や元首や大統領が冬の寒い東京に集った。

これも史上空前のことであった。昭和天皇のご遺徳である。更にスリランカ、スウェーデン、パラグァイ、パナマの諸国では、大喪の日を休日として半旗を掲げて服喪した。かっての植民地民族にとり昭和天皇は救世主であったからである。
10日 勝和(しょうわ)

大東亜戦争は、半世紀たち振り返って見ると、アメリカはその目的を殆ど果たしていないのに、日本は開戦の目的である@アジア植民地解放A経済的繁栄B平和安定国家の建設、の三つを完全に果たした。

日本は負けて勝ったのである。昭和天皇の昭和時代とは、日本民族が最も活躍した「和の国日本が勝った「勝和」の時代」と言える。
11日 オリンピック 大東亜戦争以前のオリンピック参加国は白人中心であり精々3−40ヶ国、黒人などは奴隷とみなされ問題外。20世紀最後のオリンピックは米国のアトランタであったが、参加国は197ヶ国、史上最多参加となった。 日本が第一次世界大戦以来、一貫して叫び続けた「人種差別撤廃」は大東亜戦争により見事実現したのである。アパルトヘイトの無い、人類平等の現在世界が生まれたのは誰のお陰か、世界の識者は改めて大東亜戦争の意義を見出すべきである。
12日 八紘(はっこう)一宇(いちう)

人類がみな、一軒の家の中のように、親しく睦みあう理想の世界がオリンピックで実現したのである。これは日本民族の建国の理想、初代神武天皇が宣した「八紘一宇」の精神である。これが実現したのだ。この言葉は昭和15年の皇紀2600年

の奉祝行事で高らかに叫ばれたものだ。進駐軍により使用を禁止されたが、オリンピックでは自然に甦っている。
明治天皇「よもの海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ちさわぐらん」と切なる願いも叶っている。
13日 万世の為に 昭和天皇の終戦の詔勅にある「万世のために 太平を開かん」の願いも見事に達成しているではないか。 戦前の目標である大東亜共栄圏の理想も、進駐軍に使用禁止されたが、これまた、ひとりでに見事実現しているではないか。不思議の国・日本である。純粋だからだ。
14日 世界の「国生み」の母親は日本 神代の時代、イザナミ・イザナギの命が大八州(おおやしま)の即ち日本の「国生み」をされた。 昭和の御代となり、世界にはアフリカで50ヶ国、アジアで50ヶ国、と百以上の新興国が次々と生まれている。日本はまさに世界の「国生み」に貢献したのである。
15日 現憲法の矛盾 現在の日本の憲法は、戦争状態の延長線上にある占領中に作ったもので、米国が敵国である日本の弱体化を狙って押し付けたものである。どこまでも米国の為のものであり日本のためのものではない。
その矛盾を右記する。

@憲法の基礎に日本建国の精神が無い。
A歴史と伝統に根ざした本来の天皇の姿を歪めている。
B独立と安全を守るための自衛隊を日陰者扱いしている。C基本的人権だけが亡国に繋がる程に過度に保護されている。
D非常事態に対応するための憲法上の規定が皆無。
E左翼暴力革命家がほくそ笑む内容がある。

16日 現憲法は米国式発想 この憲法は、下は個人の人権、上は人類の理想をうたっているが、中間にある家、社会、国家に関する配慮を欠いている特に日本の伝統文化の中心である家族制度を破壊することを目的としているから重大である。また現憲法が米国式発想であることが直ぐ分かるのは、第18条の奴隷的拘束及び苦役からの 自由とか、第36条の拷問と残虐刑の禁止事項が在る国家とだ。日本には古来から奴隷制も無く、現場の職員が住民を拷問にかけたり、残虐に扱うなどの経験が無いのに、自分たち白人がやってきた悪弊を日本もやってはならないという余計なお節介をしている。
17日 欠陥憲法の所以 現憲法は自衛隊の活動、PKOの海外協力も満足にできず、切迫した環境問題にも災害危機管理にも全く触れていない。時代遅れの欠陥憲法であることを知りながら、なぜ改正できないのか。それは占領政策に於いて東京裁判と、日本国憲法とが表 裏一体、一対で仕組まれたからだ。昭和27年、平和条約が締結されて独立国となった以後も日本政府は軍事裁判の不当性、無罪、冤罪性を指摘し無効宣言を行っていない。つまりこの判決は今でも生きているからである。
18日 憲法改正 戦後各国は憲法を時代に合わせて何度も改正している。米国は18回ドイツは43回、スイスは119回ノルウェーはなんと139回も改正むしている。 してみると、日本のみ半世紀前のまま世界最古の憲法ということになる。これは愚かさの代名詞で世界の笑いものなのである。
19日

なぜ改正できないか

それは国民が戦争犯罪意識の原罪のとりこになっているからだ。日本でも戦後、多くの識者により憲法改正案は沢山提出さ

れたが、一度も実っていない。問題は条文にあるのではなく日本人の間違った原罪意識がそうささせているのだ。 

20日 戦後の原罪とは白人犯罪の摩り替え 東京裁判により刷り込まれた侵略戦争の罪、植民地支配の罪、残虐性の罪の三悪である。白人の歴史的犯罪を日本人に摺りかえられたのだ。

この原罪の罪の償いとして与えられたのが憲法というバイブルである。償い憲法、謝罪憲法である。 

21日 原罪からの脱却方法は 三つの原罪は全て虚構のデツチアゲであることを自覚することだ。その実証は難しくない。学べば直ぐ理解できる自明のことである。ただ残念だが、戦後左翼による偏向、革命勢力の四人 組(社会党の残党である社民党と一部民主党、共産党、一部民主党、進歩的文化人、日教組、マスコミ)の抵抗により頑なに反対を叫んでいる。
22日 左翼の主張 四人組は憲法改正の動きに対して、またあの戦前の軍国主義、いつか来た道と巧みに情緒的に危機を煽る。改憲論者を危険思想のタカ派とか、右翼とか、決め付けるのである。この憲法こそ戦前の危険な軍国日本に戻 らない為のブレーキだとか歯止めだと国民に思わせるようにする。背後に元朝鮮人と言われる(到知2月号、渡部昇一氏)土井たか子とか、ホームページに流れている福島瑞穂、筑紫哲也などがいる。
23日 憲法の前文 今後一切、日本は悪さはしません、という世界に対する誓いの言葉がある。これでこの憲法が自己の悪さを反省し、償い、誓いの謝罪憲法であることが明白である。これを受けて憲法第9条で、戦争放棄の誓いの条文であるのが特色である。 第9条ほど侵略者にとり好都合なものはない。「日本がいかに戦争を放棄しても戦争は日本を放棄しない」という世界の教訓を忘れてはならぬ。外敵から自国を守れない憲法は憲法ではない。この憲法第9条こそ日本を「窮状」に陥れる元凶と知らねばならぬ。
日・韓合邦の真実
24日 日・韓合邦の真実1 日本には欧米式の植民地は一つもない。欧米の白人達は地球の反対側まで侵入して武力で原住民を殺戮し、或いは奴隷化し自国の利益の為だけ侵略、略奪行為をほしいままにしている。日本のそれは、すべてお隣の土地と住民を武力でなく条約により合法的に合併したものである。 隣家に賊が入ったり火事になれば、次は自分なので自衛の為に協力して立ち向かうのは当然。隣国は日本にとって生命線だからである。白人植民地は非白人を支配したが日本のは同じ肌色の近隣人を同化したもので同日に論じてはならない。
25日 日・韓合邦の真実2 朝鮮半島に清国が侵入してきたので追い払ってやったのが日清戦争。やがてロシアが侵入してきたのを追放したのが日露戦争であった。 この二つの戦争は日本人が血を流して朝鮮半島を守ってやったものだ。だからと云って朝鮮を直ちに併合したものではない。台湾と樺太は二つの戦争の賠償として合法的に譲り受けたものである。
26日 韓合邦の真実3 朝鮮の合併について当時日本の元老、伊藤博文は終始反対していた。なぜなら台湾の植民地経営の経験から、天皇の「一視同仁」の皇民思想で日本人と同じ生活レベルに引き上げるため教育、鉄道、病院などの民生向上に莫大なコストがかかるからである。 日本は日露戦争直後で莫大な戦費を浪費し更に貧困国の合併コストを負担できる状況でなかったからだ。日本の方針は、隣国朝鮮が自力で近代化しも最も親しい友邦として共に外敵に当たれるよう独立支援体制を整えようと努力した。
27日 安重根(あんじゅうこん)のテロ その矢先、親ソ連派のテロリスト安重根が、日露戦争集結の四年後の明治42年10月(1909年)ハルピン駅頭で朝鮮合併反対派で伊藤博文初代首相、朝鮮総督を暗殺したのである。これには当の朝鮮側が震え上がって驚いた。日清、日露戦争に勝ほどの大国・日本の元老を朝鮮人が殺害したのだから睨まれては大変と心配していた。このように朝鮮の伝統的民族性である「事大思想」(より強い者 、より大きい者に従うのが得)から、この際、日本と合併した方が有利という運動が民衆の中から盛り上がった。中でも李容九の「一進会」は百万人の署名を集めて合併請願運動を起した。日本政府は合併に極めて慎重であったが、清国、英米など列国が東アジア安定の為に必要と皆同意した。(1910、当時朝鮮半島はアジアのバルカン半島と言われ動乱が絶えなかったからである。)
28日 韓国の忘恩は民族性 当時の朝鮮には、勿論親日派だけでなく、新ロシア派、親清国派もいたが、多数派の親日派の世論に従って日韓併合が選択されたのである。この時期に親ロシア派に従っていたら、間違いなく現在の北朝鮮の如く悲惨な共産国となっていたと断言できる。親清国派につけば今の中国のようになっていたのだ。 今の韓国人はこれ等を忘れている。日本についたお蔭で悲惨な李王朝から近代化がてできて、今日の韓国はアジアで日本に次ぐ繁栄を享受しオリンピックも日本に次ぎアジアで開ける程の大国になれたのだ。日韓併合は韓国にとり正しい選択であったのだ。だから忘恩の民族と言われるのだ。
29日 日本の韓国統治政策 それは近代化と同化であった。その為に社会資本は整備され、ハゲ山を緑に戻し生活の向上を図った。中でも教育の普及が韓国の近代化に与えた影響は大きい。昭和11年には一つの村に一つの小学校が完成し2500の公立普通学校が出来た。優秀な学生は日本の大学でも士官学校へも差別なく進学できた。 京城帝国大学は大阪帝国大学、名古屋帝国大学より先に創設までした。白人の植民地では現地人教育など考えられない、まして大学など。住民を教育すると宗主国に謀反を起す心配があるからだ。日本はそんなことをせず日本人同様以上にしたのである。
30日 当時のスローガン 当時、日本人も朝鮮人も、内鮮一体、内鮮融和、運命共同体という言葉が流行った。明治天皇の孫に当たる梨本宮の皇女方子を李王家に嫁がせた。

方子は韓国人に慕われて生涯韓国の為に尽力された事は有名、韓国の福祉運動に献身され韓国のマザーテレサと慕われたのは明治天皇のご遺志を守られたのである。