政治とメデイアは惰眠から目覚めよ
佐々木俊尚 ITジャーナリスト
気づいていない人が未だに多いが、日本社会は
2000年頃に大きな転回点を迎えた。
55年体制や高度経済成長に象徴されてきたそれまでの「戦後社会」モデルは役割を終え、新たな枠組みが浮上してきている。
その枠組みを端的に言えば、「グローバリゼーション」と「総中流幻想の終焉」と言う二つの用語に集約されるだろう。
グローバリゼーションによって、富は新興国に移動していく。中国やインドで中流階級が勃興していくのと対照的にアメリカや日本では、中流が崩壊している。
富がグローバルにフラットになっていくことによって、先進国民であることの旨味が無くなりつつあるのだ。
そして、このグローバリゼーションに引きずられるように、日本社会は都市と地方、富める者と貧しき者、そして高齢者と若者など様々な分断が進んでいる。
今や、日本人全員を一つの集団として捉えることが不可能になったということである。即ち、全員が満足できるような政治判断など最早有り得ない。
然し、政治もメデイアも、この状況変化を全く捉えていない。
80年代までの戦後社会では総中流基盤は安定していて、みんながムラの中で甘いまどろみを貪り続けていた。
「永遠に何も変わらない」という幻想が蔓延していたのだ。そういうぬるい空気の中で、メデイアは「権力者のカネと女」的勧善懲悪報道や「政治家の権力争い」という政局報道を繰り返していれば良かった。
報道と雖も所詮は長い午睡の中のエンターテイメントでしかなかったのである。
だが、グローバリゼーションの中で人々は今や「この状況をどう生き延びるか」というサバイブ問題に直面している。
「いったい今なにが対立軸なのか」
「その対立軸と人々をどう折り合わせればいいのか」という政策的視点が期待されているのだ。
マイケル・サンデルが「正義」を論じた本がベストセラーになり、政治哲学に注目が集まっているのは、国民のそうした期待の表れといえるだろう。
政治家やメデイアがそこに気づかない限り、日本に未来はない。