守るべきは政党政治だ 湯浅誠 反貧困事務局長 

このまま政党政治が崩壊したら、後世その主犯は誰だと言われるだろうか、と考えることがある。 

民主党政権への失望は、政権交代それ自体への失望となり、既成政党への失望となりかけている。

しかも取って代ろうとする新興勢力は、いずれも日本版ティーパーティのような顔ぶればかり。政党政治そのものが徐々に危険水域に入りつつあるように見える。 

小さければ、小さいほど、政府は「まだまだ大きい」と叩かれる。人々の生活が財政によって支えられていないからだ。

現在の低すぎる国民負担率(企業負担を含む)では、世界一の高齢化社会を乗り越えられないことを誰もが知りながら、企業も国民も、「おれじゃないから誰かから」取るべきと口々に言う。社会の連帯感が希薄で

自己防衛意識が強い。所詮、誰も助けてくれないと思っているし、誰も助けるつもりもないから、大企業も高齢富裕層も、貯めこむだけ貯めるが、然し一向に使わない。

隣人の孤独死も若者の展望の無さも、雇用崩壊も少子化も、見聞きすれば「なんとかしろ」と苛立ちを露にするが、自分でなんとかする気はサラサラない。

社会的合意が形成されず、利害衝突が先鋭化して膠着しながら、国全体が衰退してゆく。

「分っているのに、どうにも出来ない。滅亡する時とは、そんなものだ」と誰かが言っていた。 

「このままでは凋落することが明らかだから」と強力なリーダーシップでガラガラポンをやってくれる、そんなカリスマリーダーの出現を後は待つばかり。 

「救国」とか「維新」と言った余り、民主主義的でないスローガンがあちこちで叫ばれるのは、人々のフラストレーションが沸点に達しつつあり、「ガラガラポン欲求」高まっているからだろう。 

こういう時は、とにかく危険な人物が、人々のフラストレーションの受け皿として登場してくるまでは、誰が総理になっても揶揄と揚げ足取りで叩かれ侮蔑され、首のすげ替えの止まらない可能性が高い。

メデイアも,自ら引き摺りしおきながら、やっぱりダメだったと頭を振るのだ。 

かって、「民主主義の虚妄に駈ける」と言った人がいた。

私も敢えて、守るべきは政党政治だと、さしあたり言っておきたい。