鳥取木鶏研究会 4月例会 平成19年42日 月曜

テーマ 「人づくり入門@

小学の読み直しー    安岡正篤先生講話

三樹 

一年の計は(こく)()うるに()くはなし。十年の計は木を樹うるに如くはなし。終身の計は人を樹うるに如くはなし。 (菅子・権修)

融通無碍の世界

全体と関わりなく存在するものは何一つ無い。身体も「道」の世界も、「真理」の世界もである。

枝葉末節になればなる程、動きが取れぬ。一番の弊害は内的統一の喪失。悲惨なものは「自己喪失」「人間性の喪失」。

「失われた自己を取り戻し、内的世界・精神世界へ還る」

憂うべき現代世界

繁栄の中の没落に向かい暴走中。

天然自然の体力・生命力が無く、少しの気候変化、飢餓、苦痛に耐えられない現代人。「野生の喪失」。

人間がせせこましくエゴになった。特に日本は重態。

失われた自己の回復を

自覚の無いことが悲劇、その回復の方法。

@真実自然の日常生活に改める。

A特に、精神生活、心霊の世界の回復。

B自己を学べ。――高等な分析とは「自己を解明し分析」。

志あらば貧乏も鈍才も問題外

真実の世界の立つ、さすれば、全てが融通無碍である。

帰する所は「体力」「生命力」「精神力」である。

弱いとは「精神力」の衰えておる証拠。

「小学」とは知識・学問の体現

小学を学ばねば大学は分からない。

「言語・応対に自ら現れる小学」

日常実践の学問である。朱子が先儒や偉大な先覚者の跡を尋ねて、その中から範となるものを拾い、内外二編、二百七十四条目として、兎角知識や論理に走り勝ちな弟子に与え、名づけて「小学」と呼んだもの。精神革命なくして人間は救われない

人間は少しも進歩していない。世の中、法律や制度をいかに変えても、イデオロギーをいかに振り廻してみても駄目、「人間そのものを何とかしなくては、絶対に人間は救われない」。広い意味で小学しなくては自分も世の中も救われない。その貴重な小学の宝典が朱子の小学である。

朱子

朱子 (しゅし) 1130〜1200 南宋の大儒。宋学の大成者。朱熹、字は元晦・仲晦、号は晦庵・晦翁など。19歳で進士に合格、官途のかたわら究学、いわゆる性理学を集大成した。後世、朱子と敬称、その学を朱子学といい、江戸時代の儒学に多大の影響を与えた。小学・人を教ふるに、灑掃・応対・進退の節、親を愛し長を敬し師を尊び友に親しむの道。灑掃は拭き掃除。それに対応、進退というような作法、 こういう根本的なことが出来て、初めて身を修め、家をととのえ、 国を治め、天下を平らかにするといったことに発展することができる。これは学問に限らずいかなる問題にしても、それを進めていく上の 原理原則がある、ルールといったほうが分かりやすい。スポーツにしても、囲碁や将棋にしても、いかなる職業においても基礎条件というものがある。この基礎条件というものを厳格にすればするほど、 成功に近づく。 
 小学は、仏教でいえば小乗、小乗を学ばなければ大乗が分からないように、 小学を学ばなければ、人のあるべき真の姿、真の自己というものが分からず、リーダーとして人を治めることはできない。リーダーとしての基礎条件。その基礎条件が厳格なほど、よきリーダーとなりうる。
 ある権修所の先生の奥様の話。― 「布団の上げ下げでその人の人格、品格というものが分かります。  やはり人の上に立つ人というのは、所作が違う。  ちょっとしたところにすべてが現れます」。確かに寝食を共にしてみると、 日ごろの生活ぶりがありありと現れる。ここでは尋常研修会という小学生、中学生を対象にした研修も行われているのですが、 小学生に「スリッパをなぜ揃えないのか」と注意すると、 「だってうちのお父さんはいつも揃えていないもん」 という返事。 この子の父親ももちろんこの研修所の常連なので、 思わぬところで、日常の生活ぶりを暴露することになったのであります。 
 また、かなり前になりますが、台湾からある重鎮をお迎えして 十数人での会食の席に同席したことがあるのですが、 わたしの右に座っておられたどこぞの大学の先生の、 テーブルマナーの悪さにはほどほど呆れ返りました。 食べ物は食い散らかすし、フォークもナイフも放り投げている。 あげくのはてに、人の話は聞かずにうろうろ歩き回る。 学問・知識などというものは、 単なる理論的概念に止まっている間はだめで、 これを肉体化する、身につける、 体得することこそ目標なのであります。  要するに世の中をよくするためには、 まず自分を救わなければならない。 自分を救ってはじめて世を救うことができる。 だからまず小学しなければ、自分も世の中も救われない。 その貴重な小学の宝典がこの朱子の『小学』という書物。
『小学』というのは、朱子が先儒や偉大な先覚者たちの迹を尋ねて、
 その中から範となるものを拾って、内外二編、二百七十四条目とし、 これをとにかく知識や理論の遊戯に走りがちな弟子に与え、
 名付けて『小学』と読んだものです。 その中から、3つほど紹介しておきます。
 
伊川先生言ふ、人・三不幸あり。
@少年にして高科に登る、一不幸なり。A  父兄の勢に席(よ)って美官となる、二不幸なり。B  高才有って文章を能(よ)くす、三不幸なり。

 
孟子曰く、善を責むるは朋友の道なり。
 これは孟子の離婁編にある語で、 その前に父子の間で善を責め合うことはいけないと論じています。 師弟の間も同じ事で、善を責め合うのはやはり朋友が一番です。 何を言ってもかまわない。おおいに論じ合ってお互いを磨く。 怒るような人間は友とするに足りない。
 
子貢、友を問ふ。孔子曰く、忠告して而て之を善道す。可(き)かれざれば則ち止む。自ら辱むることなかれ。
 子貢が孔子に本当の友たる道はなんでしょうかと尋ねた。 すると孔子は、忠告してこれを善導する。 しかし聞き入れられないときは一旦止めるがよい。 無理強いをすると反発をするばかりで、かえって自分を辱められることになる。
         平成1942日 

鳥取木鶏研究会  徳永圀典