42講 改新の詔と律令国家の確立

改新の詔までの経緯

朝廷による地方の直接支配へ

 

大化改新を大化二年(646)正月一日に発せられた改新の詔からスタートするとみれば、入鹿暗殺、蘇我氏打倒のクーデターから詔発布にいたるまではその準備期間であり、新政府の体制づくりの期間であったと位置づけることができます。改新の詔について述べる前に、まずその期間の動きを「日本書紀」によって概観しておきましょう。

入鹿暗殺は皇極天皇の四年、645年、六月十二日で、ついで蝦夷の自害とともに蘇我宗家が滅亡したのがその翌日の十三日、そして翌十四日には皇極天皇が退位し、軽皇子が孝徳天皇として即位されました。また同日、中大兄皇子を皇太子(皇太子制は聖徳太子からと言われる。中大兄皇子は太子と同じく実質上の摂政)とし、中臣鎌子を内臣(皇帝の寵臣・皇子の補佐役などの意がある)、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、阿倍内麻呂を左大臣として新政権がスタートしました。

またこの月、皇極天皇の四年を改めて大化元年とされました。日本書紀ではこの大化が年号のはじめです。

八月五日には、「(やまと)六県(むつのあがた)」への使者と東国の八道にそれぞれ国司が任命され、派遣されました。この使者と国司に対して、人民は国家の所有する公民であり、戸籍をつくり、田畑を検地し、武器を管理せよ、などの地方行政の事細かな指示が与えられています。

それは要するに、土地の私有を否定し、中央集権体制を実施するもので、先ず比較的に反発が少ないとみられる皇室の直轄地「倭の六県」と朝廷の統治下に入って歴史の浅い東国において新政策を試みたものといえます。朝廷による地方の直接支配体制確立のための下準備が行われるとともに同日八日には大化の僧尼への詔と言われる寺行政についての施策も発せられています。

註 (あがた)

  大化の改新以前の地方制度。その実体はまだ明らかでない。645年、大化元年、他に先んじて東国および大和の六県に新政を行った。大和朝廷の直轄地という説が古くからあったが、六世紀末から七世紀初めごろ、国造(くにのみやつこ)などと言う地方組織があり、記紀に国造・県主の地方区画を定めた記事があるので、国造の下にある地方組織とみる説が有力。

 

  (はち)(どう)

  東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道の総称。

 

  国司(くにのつかさ)

  律令制の地方官の一。律令制では全国を六十六国二島に分け、国の規模による大・上・中・下国として、おのおのの(かみ)(すけ)(じょう)・目の四等官、および、史生(ししょう)の定員を定め、中央から派遣。行政・警察・司法などを司さどった。

 

(やまと)六県(むつのあがた)(あがた)(ぬし)

()()   春日山西方

山辺(やまのべ)   石上神社、大和神社周辺

磯城(しき)   大和神社西方

十市(とおち)   耳成山と香具山付近

高市(たけち)   畝傍山付近

葛城(かつらぎ)   葛城山付近

 

九月一日、武器類の管理のため諸国へ使者が派遣されました。これは有力豪族による反乱を防止するための武装解除を行わせるものであり、武器を回収して国々に設けられた兵庫で管理するようにしたのです。さらに同月十九日にも諸国へ使者が派遣され、人口調査も行われました。こうした矢継ぎ早の施策から新政府が明らかにした新しい政治の方針を固め、その方針に基づいて迷わず必要な措置をとつていたことが窺がわれます。なお同月十二日、出家して吉野にあった古人大兄皇子の謀反が発覚し、十一月までに中大兄皇子は兵を向けてこれを討っています。

十二月九日、難波への遷都が行われ、造営が終るまで難波の諸宮を宮とすることになりました。この難波遷都は当時の朝鮮情勢が、唐・新羅対高句麗・百済という対立構造によって極めて緊張した状態にあり両陣営から度々、日本にも使者が派遣され、日本としても朝鮮における権益。国防上の問題から迅速な対応が望まれたための措置ではなかったかと思われます。

以上、クーデターから改新の詔までの朝廷の主な動きを記したわけですが、この短い期間に次々に新政府の施策が打ち出されています。

しかし、結果としてはそれらの施策は概ね改新の詔を施行するための準備だったと言えるのです。