安岡正篤先生の言葉 平成294月 徳永選

 

ただ虚偽なく

 誠は天地万物の差別なく同じ誠なり。人たるものは只一片の実心にて実事を行ふべき事なり。家内日用瑣末の事にても、かならず虚偽をおもはず、虚偽をせず、上につかふるにも、下に交わるにも、只心得肝要と思ふべし        真木和泉  何傷録

 

言霊が誠

 この誠という文字も非常に考えて造られた。偏の言はこと()という文字で、その(こと)()(はし)が言葉だ。要するにこれは事実ということである。創造、クリエーション、創造自体を(こと)という。だから人間が成長する始まりは言葉だ。モノを言い出すというのが成長の始まりであります。

従って、生命の自然の発現であるから、言葉というものは「言霊(ことだま)」である。その中には魂がある。言、言葉、これを完全に発達させた人間生活、人間精神、人間人格、人間性というものは美しい。言い換えれば「言」を完成すること、それが誠という文字になっている。               

東洋人物学

 

感激性

 (よう)(こう)、孔子を()()に問う。子路(こた)へず。()(のたまわ)く、(なんじ)なんぞ(いわ)はざる、その人と()りや、(ふん)を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘れ、(おい)(まさ)に至らんとするを知らざるのみと。 孔子 論語述而第七 168

 感激性のない人間は、いくら頭が良くても、才があっても、燃料のない機械・設備と同じことで、一向に役に立たない。「感激の塊よ、汝をはらめる母は幸いなるかな」とダンテも言うておるが、本当にその通りであります。しかしその発憤も、孔子の場合は並みのものではない。飯を食うことも忘れてしまうのである。そこで憤を発して食を忘れる反面に、「楽しんで以て憂を忘れる」。言い換えれば余裕がなければいけない。そうして、「老の将に至らんとするを知らず」、自分が年老いてゆくことすら忘れておる。まあ、これだけのことだ。いかにも人間味豊かな、孔子その人の本質に触れておる言葉であります。            活学 第三篇