立憲国家

1.自由民権運動      

新政府は薩長藩閥政府という批判が強く反政府運動が起きた。板垣退助等は明治7年に議院設立建白書を提出した。政府は漸進的に立憲政体へ向うことに合意した。明治13年片岡健吉等は国会期成同盟で国会開設要求をした。こうして武力による反政府運動がもはや不可能であると痛感した各地の士族は、言論によって要求を実現しようとする自由民権運動に参加する事となった。明治14年政変が起き内務卿で維新政府の大実力者、大久保利通が暗殺された。大隈重信は漸進主義の伊藤博文ら薩長閥と対立して国会即時開設と政党内閣実現を主張した。大隈が政府批判運動と関係していると見て辞任に追い込み同時に明治14年国会開設の勅諭により明治23年を期して国会開設を公約した。これにより伊藤博文を中心とする薩長派の政権が確立し欽定憲法制定の準備が始った。

2.政党             

欽定ではあるが国会開設が決まり自由民権派は政党結成へと動いた。明治14年士族や豪農・地主を基盤とする板垣退助の自由党は急進的であった。大隈重信の立憲改進党、政府サイドの福地源一郎等による立憲帝政党であるが大きな力となりえず何れも解党し消滅している。

3.政府の直面したもの    

明治初期の日本政府が直面したのは当時の国際情勢は武力と経済力を背景にした国際秩序があるという厳然たる現実であった。これは現代でも歴然たる真実であり欧米が世界の屋台骨を支えているという自負とその維持の為の権謀術策は今日でも少しも変わらない。覇権は彼らの本能的且つ本質的性格であろう。明治藩閥政府は欧化政策をとり欧米列強に匹敵する文明国であると認識させ、それにより国際的地位を高めようとした。現段階で考えるとそれはやや悲壮且つ滑稽で効果に乏しいものと思われるが真剣であった。在野には西洋文明に屈従を快しとしない人たちは国権確立の為に、幕末の不平等条約の早期撤廃を求め藩閥政府を打倒し民権を伸長させるための早期国会開設を主張した。この帰趨如何が百年後の日本民族を左右するとは当時は誰も思わなかったであろう。

4.財政状況      

西南の役に多額の出費がかさみ、不換紙幣で調達した為に烈しいインフレを招いた。輸入超過が進み正貨は減少の一途であった。明治14年松方正義は増税と徹底した支出削減、官営事業の民間払い下げにより紙幣価値の回復を計った。明治15年中央銀行として日本銀行を設立し、紙幣価値安定を見届けて明治18-1885年から銀兌換による兌換銀行券を発行。政府紙幣も銀貨と兌換される事となり、本位貨を銀とする事実上の銀本位制が確立した。松方の厳しい緊縮政策は深刻な不況を招き、農村は米価や生糸の暴落で大打撃を受けた。自作農が小作農に、土地が少数の大地主に集中した。土地を失った農民は賃金労働者となった。かかる状勢から政治的に急進化し過激事件も頻発した。

        
行政機構の確立      

明治18年大宝律令以来の太政官制度を廃止、西洋流の内閣制度とした。総理が各省長官をひきいて内閣を構成し天皇を補佐し全政務の責任をとる体制である。宮内省は内閣の外に置いて行政府と分けた。明治21年ドイツ人顧問モッセの助言で市制・町村制、明治23年に府県制・郡制を公布し政府の強い指導の地方自治制が確立した。軍令機関としては統帥権を独立し参謀本部を新設、明治15年に軍人勅諭を発布し軍人として不可欠な忠節・礼儀・武勇を説き政治活動の禁止と軍人精神の徹底を強調したのは世界の列強を見れば当然であった

大日本帝国憲法1   

伊藤博文が各国の憲法調査のため欧州へ行き1年半でベルリン大学、ウイーン大学で憲法を学ぶ。プロイセン憲法がわが国の実情に照らして参考になるとの結論を得て帰国した。明治20年伊藤は井上毅の草案を元に伊藤巳代治と金子堅太郎と検討、ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得て214月に草案を完成した。この憲法草案審議の為に22年、天皇の最高諮問機関として枢密院を開設し伊藤博文は首相を辞して初代議長に就任した。

大日本帝国憲法2   

枢密院では天皇臨席の元に慎重に審議が尽くされた。そして明治22年―1889年―211日の紀元節に、大日本帝国憲法が発布されたのである。ここにアジアでは初めての近代的立憲国家が生まれた。アジア諸国の独立はその後日本が戦争に敗れたとは言うものの列強国、米・英・フランス・オランダと戦い彼らをアジア諸国から追放する日本敗戦まで半世紀以上の歳月を要した。

大日本帝国憲法3   

この憲法は欽定憲法である。冒頭に日本の歴史・伝統をふまえ、万世一系の天皇を統治権の総攬者とした。文武官の任命、緊急勅令、宣戦・講和・条約の締結、陸海軍の統帥などの天皇大権を決めた。国民は議会を通して国政に参加を認められ、法律の範囲内で契約の自由、所有権の不可侵、信教・言論・出版・集会・結社の自由も認めた。帝国議会は対等の権利ある貴族院と衆議院の二院制、司法権も行政権から独立し三権分立体制がとられた。憲法では議会が天皇に意見を上奏すること、予算を衆議院で先議、議会が法案提出するを定めたのは民権派も評価し、多くの国民が歓迎している。一応、幕末以来の悲願である列強並みの近代的国家の形が整い不平等条約解決のため先進国の形を整備したといえる。これは列強の口実に過ぎないが、彼らはこうして後進国を餌食とし叉、我々も彼らも西洋科学文明の享受の為にはそれが当然のような世界観を保有し今日までそのように思い慣らされて来たと言える。

国会 

明治23-18907月第一回衆議院議員の総選挙が行われた。首相黒田清隆は政府は政党の動向に左右されない、不偏不党の政策実現を表明した。政府は民党と烈しく経費節減・軍艦建造費・条約改正問題で対立した。詔勅により政争は第六回議会で終了したと言う事で発足当時のわが国の議会と民意の限界が理解できる。

不平等条約解消迄の推移 岩倉具視

明治5-1872  最初の条約予備交渉?米と改正交渉不調             寺島宗則

明治9-11     関税自主権回復希求-米は賛成、英国反対で失敗

井上馨

明治15-20   欧化政策採用、外国判事の任用・外国人内地雑居問題で失敗          大隈重信

明治21-22    外国人判事の大審院任用で挫折

青木周蔵

明治23-24   外人判事任用を中止-英国は賛成           陸奥宗光

明治26-27    日英通商航海条約で領事裁判権の完全撤廃、以後明治30年までに各国と同様な条約改正に成功

小村寿太郎

明治44         日米通商航海条約が成立、関税自主権の完全回復に成功。以後各国と同様な条約改正に成功。                               

 

明治44-1911年、関税の片務的、屈辱的な条約は外相、小村寿太郎により撤廃され、条約上では対等な国家として列国から承認を受けた。開国以来実に半世紀である。この先人の血の滲む努力に深甚なる敬意を表する。日本が無知ゆえとは言え、欧米の手法のこのアクドイ手法による日本からの収奪に対して憤りに近いものが沸々としてこみ上げて来る。戦後も政治経済全般に渡りこの種のものが横行しており依然として歯がゆい日本の政治、外交能力が認められる。

不平等条約考  

締結当事者の幕府が有責者である。ハリスと交渉したのは幕府随一の外国通の井上清直と岩瀬忠震、両者とも、当時の国際法・条約の知識が欠如しており、この条約の不平等に気づかなかった。一旦締結したら約束であり致し方ないが、現代でも欧米諸国の金融取引には、善意で臨む習性の、経世斎民の思想を持つ日本人が見落として損害を被るのと同様であろう。欧米諸国との条約とか商談の締結には陥穽に落ちないように並々ならぬ注意が絶対必要である。