平成284月例会 安岡正篤の言葉   徳永圀典撰

 

元気ということ 

 元という文字には少なくとも三つの意味がある。元は形態的にいうならば根本、本になる。つくるという意味から言いますと、はじめ、になる。部分的でない全体的であるという意味で、これを、おおいに、と読む。そういう非常に複雑な混然たる、天地創造の意味を元、そのエネルギーを元気と言うのであります。

 人間にまずもって大事なことは、この元気であるということであります。いつ、いかなる境地に処しても、常に元気である、元気というものは朗らかである、晴れ晴れしておる、快活である。だかに人間は、いつも快活を失わないということ、これが先ずもって人間の徳のはじめであります。元気でないというのでは、そのあと何を言うでも仕様がない。いかなる事があっても、いかなる場合にも元気である。

 

陰と陽 

 陰と陽について偏見を持たないようにしなければなりません。どうかすると陰は悪く、陽はいい、陽性であるということは、陰性よりもいいというような錯覚をしがちですが、これも非常に危険であります。危険といえば、どちらかと言うと陽のほうが危険です。だから陽には、うそ、偽りという意味があります。とかく世間では、陰が悪くて陽がいいのだと言うようなことも常識になってておりますが大変な誤りであり、また従って非常に危険なことであります。

 陽は陰を持って初めて陽であり、また陽があって、陰が生きるのであります。処が、どちらかというと陰は分かりにくく、陽のほうが分かり易い。従って特徴も欠陥も、即ち長短ともに陽の方が認識しやすく、陰の方が認識しにくい。そこで色々の間違いが起こるのであります。例えば、我々の大事な知、知るということを例にとりますと、知という字は陽性のものですから、発動、活動しやすい。そこら危険があってて、どうかすると知はとんでもない誤りに陥るので、知の字に?、やまいだれに入れて「ばか」という字が出来ております。

 そこで人間は、知と情と、情は結びの力ですから、これは陰です。知と情がうまく調和しておるというのが所謂、中でありますが、どちらかと言うと、陰である情の力のこもって厚いのが根本であります。知の方は派生ですから、樹木で言えば枝であり、葉であり、花であります。だから人間は、内に情が厚く、そして頭がよいというのが一番望ましい。知が情に勝つと、よほど気をつけませんと軽薄になり利己的になります。         易と人生哲学

 

美しい日本

 気候風土や日常生活を見てもそうですが、日本は実に山水秀麗であります。非常に変化に富んで美しい、芸術的である、霞がかかって、山の起伏、(なぎさ)水際(みずぎわ)のたたずまいが実にきれいで、なるほど仙人の住む国という風に昔の漢人が考えたのももっともなことで、大陸に比べるといかにも小さな芸術作品のような自然ですね。

また例えば昨夜は月を見ても、いかにも(えん)(げつ)、煙のかかったような月が妙に美しかったが、月も太陽も日本では芸術的に美しい。実に繊細で美しい。              三国志と人間学

 

運命  大体、運命というと皆が宿命的に考える。何と考えてもどうにもならない必然的な作用、これが運命であるという宿命論。運命観の中の宿命観に囚われたり、空しく堕しておる者が非常に多いのであります。それでは運命ではありません。

 運は動くという文字であり、めぐるという文字でありますから、宿命観では運命にならない。運命はどこまでも自ら立てていく、自然の法則に従って自ら造っていく、つまり立命でなければなりません。

 運命観を宿命観に陥らせないで、よく運命の中に含まれておる思想的、実践的な意義、即ちこれが義命でありますが、この義命を明らかにして、常に自分が主体的となって運命を打開していく。これが本当の立命というもので、運命観というものは、宿命観を脱して、義命をあきらかにし、常に新しく立命していく、これが本当の意義であります。

 それが案外理解されず、とかく運命観は宿命観になってしまい、運命、運命といいながら、本当の運命をわからない人が多いのであります。そういう「運命を立命」にする一番典型的な原理・原則が易学でありますかせ、易学を修めるということは、要するに人間が、自分の運命を知って、常に新しく立命していく、言い換えれば改命していく、自分の運命を創造、クリエートしていく。自然の造化に対していうならば、レクリエートしていく。人間がこれを継承して維新開発していく、これが本当の易学であります。 易と人生哲学