花園天皇

花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子。12才で即位。(いみな)は富仁、幼少時から健康に恵まれず、専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努めた。極めて才知があり、歴代天皇の中でもその学識や読書量は並はずれていた。 

しかし、12才から22才までの10年間の在位中にその才能を十分に生かす機会はなかった。実権は父の伏見上皇にあったからだ。

在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となった。時あたかも皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の時代で、帝は殆ど政務に関与せず、ひたすら学芸に精進した。 39才で天台の円観慧鎮僧都について剃髪得度(出家)、法名を遍行と称し花園法皇といわれるようになった。 

貞和4年(1348)花園法皇は52才で薨去。正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としている。花園天皇には、22年間の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」。  

 
後醍醐天皇の御代、ある時伏見上皇に幕府打倒の異心ありとする嫌疑がかけられる。事態は何とか収束するが、その機に乗じて大覚寺統の巻き返しが始まる。

89代後深草天皇に端を発した「持明院統」と「大覚寺統」の対立は、鎌倉幕府・北条体制の介入をみながら数十年に渡って継続していく。陰謀や猜疑心が渦巻き、天皇家は皇位を巡る争いにあけくれた。花園天皇の譲位を受けた後醍醐天皇の時代に至って、遂に天皇家は日本史上はじめて2系統に分かれて争い、世に「南北朝時代」と呼ばれる。