日本人は大きな曲がり角に弱い
猪瀬直樹 作家
内閣がころころ変わる。冷戦崩壊後の20年間で、小泉内閣の5年半を除けば首相の平均寿命は1年半でしかない。
然し、今に始まったことだろうか。
少し沈鬱な気持ちになるのだが、平民宰相と呼ばれた原敬が東京駅頭で暗殺された大正10年(1921年)11月から日米開戦に追込まれた昭和16年(1941年)10月の東條英機首相誕生まで、内閣の平均寿命もまた1年余なのである。
日露戦争までは「坂の上の雲」を追いかけていればよかった。戦後も復興から高度経済成長へと目標が分りやすかった。何よりも明治時代は創業者の時代だった。政治家も企業家もフロンティアを目指していた。軍事大国として「五大強国」などと持て囃され頃に国際社会の権謀術数に巻き込まれていったのだ。
戦後も同様である。小国としてゼロからスタートした。思いかげずに「経済大国」になるのだが、冷戦が終ればアメリカ頼りでなく自分で生きていかなければならないが国家戦略の作り方が分らない。
首相がころころ変わっていても、日本という国が続いていると錯覚できるのは天皇が外国の賓客を迎え、官僚機構が連続性を担保しているからである。
然し、官僚機構は「昨日」の世界を生きている。既得権益は「明日」を作るわけではない。
では民間企業はどうか。創業者でない経営者はサラリーマン化している。やはり90年代以降は霞ヶ関の事務次官や局長と同じで順番に社長になったりしていては「民僚」と呼ばれても仕方ないのではないか。
結局、日本人は大きな曲がり角に弱い。
国家を運営するという構想力に向いていないのかも知れないが、それを言ってしまえばおしまいである。
司馬遼太郎さんが昭和史を振り返って嘆いたのは、軍事知識について作家も国民も余りに無知だったこと。
今で言えば、官僚機構や行政のシステムである。
日露戦争後、「亡るね」と夏目漱石が「三四郎」の中で予言したが、それで済むのかな、傍観者ばかりでよいのかなと僕は思っている。