鳥取木鶏研究会 5月例会 安岡正篤「易学」その6 平成20年5月1日
命・数・中
引き続き、命・数・中について解説致します。
第一にその根本的問題としての易というもの、これは古来民間に普及いたしまして、普及するにつれて通俗になり、言いかえれば、真実というものから、次第に浅薄、あるいは歪曲、誤解が生まれ、おそらく最も広く普及し、最も通俗に堕した学問技術の一つということになりました。
そこで易の根本概念、本義というものを正しく適確に把握しておきませんと学問になりません。本当の学問から言いますと、易というものは、これほど天・人の創造教育、クリエーションというものに徹した学問は世界にも類がないのでありまして、それだけにそれが自ずから人々にもわかってもらって、何とかして易を学びたいという要求が盛んになり、これに応じて解説も多く行われたのであります。然し、対象が通俗であるほど真実から遠ざかるというような関係もあり、非常に深遠でありながら通俗的にも魅力のある不思議な思想、学問技芸となり、それだけに一般に解説は難しいものであります。
.命
話の順序として、専門用語の中から第一に「命」というものを挙げておきました。命―いのち、とも読みますが、「いのち」も「めい」の一つで本当の「命―めい」というものは、所謂「命―いのち」を含む天地創造の絶対作用、天地自然人間を通ずる創造、進化、造化などという絶対性をあらわすものであります。だから易は第一に「命―めい」の学問であるということが出来ます。
人間から申しますと、生命の学、処が生命というと、この肉体に象徴される命―いのち、造化の働きというふうに限定されますから、生に?(りっしんべん)をつけまして「性命」という言葉があるわけです。生命でもいいのでありますが、これが心を発現させましたから性命であります。「命―めい」は人間の自由、わがままを許さない必然とか絶対とかいう意味を持っております。人間が好き嫌い、取捨選択というようなものを許さない天地自然、自然と人生を通ずる造化の働き、その絶対性を現すものが「命―めい」であります。
天命
そこで、「命―めい」には人間というものを超越した絶対者、その象徴が天でありますから、天命という言葉概念が出てまいります。
その天命の中に人間の生命というものがあって、複雑極まりない精神というもの、心というものが開けてきたというので「性命」となりまして、天命、生命、性命等、命のつく言葉が色々でき、それらを総括して「命―めい」と申します。
.数
命―めいは、そういう絶対作用、創造進化の作用と云ってもいいのですが、その中に「数―すう」というものがあります。数というとすぐ数―かずと直覚するのですが、数―かずは確かに一つの数―すうではあるが、数―すうの全部をつくすものではありません。
然し数―かずというものは非常に霊妙なものであります。これは余り使いませんが言霊―ことだま、人間の言葉には魂がある。進んで色々の心、神秘な働きがあるのでこれを霊(魂)と言いいます。
.数霊
数―かずも言霊と同様に数魂と云って、思想家、学者の中には言霊に対象して数霊と並べ、非常に神秘化しておりますが、易は言霊であると同時に数霊の学問の不思議な命があり、創造、造化があるからであります。例えば、古代人の誰もが想像もできなかったコンピューターを考えますと、これは数の発展と申しますか達成であります。
処が世間では、命数というと命の数、即ち30才で死んだ、90才まで生きた、といような寿命、その数というふうに考えますが、単なる数ではなく、この数というのは、命、生命の中にある神秘な関係、因果関係をいうものであります。
.十如是
仏典で申しますと、法華経の中にある十如是、百如是、千如是等は数の一つの解説であります。お坊さん
は、この十如是をお葬式等で繰り返し、繰り返し読む。
聞いておりますと、百如是にも千如是にもなるわけで、「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」・・
チーンと鐘を鳴らし、今度は「是相如、相如是―」と繰り返し読んでいきます。これは現象の世界というものを観察、分析、把握したもので、まことによく解説しております。
.数奇
つまり命という絶対造化の働きの中にある因果の関係、相対(待)関係を現すもので、是れ数であります。更に内容に立ち入ると複雑無限の意味があります。その因果の関係、即ち原因、結果、因縁、果報の複雑な関係のうちで滅多にない関係を数奇と言います。
「あの人は数奇な運命にもてあそばれて」とか、数を「す」と読んで数奇、物をつけて物数奇となりますと一寸常識を越した因果の関係です。
.数奇者
それが更に転じて、俗生活の中で垢抜けした、或いは洗練され解脱した、例えばよく普及しております茶道などで、この道を楽しむ人を数奇者などと言います。
数奇というと、どちらかと云えば悪い意味に多く使うようになりましたから、そういう茶人だ、俳人だという人達の場合には、宀―うかんむりをつけて寄、という字を使うようになりました。物数奇、数奇者は皆、転化です。
.神秘な数
数というものは非常に神秘なものであります。そこで易は数の神秘を深く把握解明したものということができます。
コンピューターは本来の意味の数奇の一つでしょう。天文学は殆ど数の学問です。
如是
また我々が直接経験する認識、あるいは感覚というもの、これは易でいう相であります。つまり現実あるいは現象であります。この我々の現実の認識によって把握する相は単なる形態ではなく、その中に意味があり、力があり、創造―クリエーションで、その奥にはもっと深い本質的なものがある、それを相と言い、之を極めて如是相、如是性、如是体とします。
之は単なる物質的存在ではなく、その中に不思議な力というものがあります。つまりエネルギーと言っても宜しい、それが色々の働きをしますので作と言います。即ち如是作であります。これが原因となって、これから色々なものが生まれます。その関係を縁と言います。だから縁という字を「よる」と読むわけであります。
縁と因縁・因果
この作用が縁によって色々のことを起す因、即ち元になり果を結ぶ、そこで因縁と、因果という言葉が出来るのであります。処が民衆に普及するにつれて、この因果というものが悪い意味に使われるようになって「あいつは因果な奴だ」とか「何の因果で」とかよく言いますが、これは本然ではありません。
因果というのは、原因から縁によって果を生ずるということでありますから、好いも悪いもない自然の事実であります。処がそういう自然のものである因果という言葉が、悪い意味に使われるようになったということは、人間の考えたり行ったりすることが、いかに多く真理から大道を外れるかとい事実を物語っております。
縁起
因縁という言葉は大体本来の意味に使われておるようですが、面白いのは、専ら悪い意味に使われております「因果」という語です。この果から又その反作用を生じます。これを報と言います。果報がこれであります。これは専ら好い意味に慣用します。
人間の言葉、文句というものは、このように一寸常識ではわからぬもので、兎に角人間世界のことは因縁というものから色んな果報が生まれてくる。そこですべては因縁から起こるというので縁起という言葉があるわけであります。これは縁起が好いとか悪いとか普通に使っております。
相待つ
処が、こういう相、性、体、力、作、因、縁、果、報、その本も末も、突き詰めると「本末究竟等」であります。
この等は、ひとしいと言う文字で相対するものが相待つ、つまり相対(待)であった、この本と末とは循環するものであります。
中する
さて人間を含む造化の世界というものは進歩向上してやまない。現実は万物の相対(待)する世界であると同時に、総合統一されて限りなく変化していく、あるいは進歩向上と観察することもできる限りない造化が進行してゆく、それが「中」であります。
中するということは、現実の矛盾を統一して更に新しくクリエートしていく働きを言います。だから非常に総合的、統一的、進歩的な作用であります。だから中と言うものは、そういうジンテーゼSYNTHESEです。
偉大なる「中の世界」
矛盾を統一し、相対(待)的なものを限りなきクリエーションに展開していく、これが中であります。そこでこの万物の世界というものは「偉大なる中の世界」ということができます。その事を説いた書物が「中庸」という書物であります。
この庸の字は、つねという字で不変の法則を表しますから色々に用います。また庸には用いるという意味があって、イーにんべんを付けますと傭うという意味となって、色々と文字が変化しますが、その根本はやはり中であります。
解説
十如是とは、諸法実相とも言う。法華経方便品に説かれている「因果律」である。天台宗「教学」の究極とまで言われる「一念三千」を形成する発端で重要な教理である。
如是とは、「かくの如し、そのようである、と言う意味」
相(形相)、性(本質)、体(形体)、力(能力)、作(作用)、因(直接的な原因)、縁(条件、間接的な関係)、果(因に対する結果)、報(報い、縁に対する間接的な結果)、本末究竟等相(相から報に至るまでの九つの事柄が究極的に、無差別平等であること)を言い、
諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この十の事柄において知られる事を言うのである。
分かりやすく言えば、この世の総てのものが具わっている十の種類の存在の仕方、方法を言う。
安岡正篤先生の言葉 「慈悲」
慈悲を縮めていうなら悲、そこでその至極のものが大悲観音・悲母観音でありまして、母の母たる至極の感情は、子を悲しむことであります。そこで愛という字をかなしむと読むのであります。愛は悲しい。楽しい愛というのはまだ愛の究極ではなく、本当の愛は悲しい。ですから愛の化身である母は常に悲しむものであります。
子供が病気をしたと言って悲しむのは当たり前ですが、子供が出世をした時でも、母は「あんなことになってどんな苦労をするだろうか」と悲しむ。
人が喜んでいる時に母は悲しむ。
これが本当の慈悲であります。だから慈愛より慈悲の方が深刻な言葉、本質的な言葉であります。
徳永圀典
子曰、質勝文則野。文勝質則史。
文質彬彬、然後君子。論語、雍也第六
孔子の話、「中味は充実しているが外見を気にかけない人は、どこか野暮ったい、田舎くさい。
逆に、中味は放ったらかしで外見ばかり気にしている人は、どこか頼りなく、薄っぺら。
中味も外見も両方磨いてこそ、本当のジェントルマンといえるんだね」と。
ジェントルマンなどという言葉は、最近あまり聞かれなくなりましたが、外見ばかり気にして中味を顧みない、軽薄な時代思潮のせいでしょうか。
ジェントルマンとは、礼儀正しく名誉を重んじる男性のことですから、日本で云えば「武士道」、イギリスで云えば「騎士道」に通じます。
私達が人と接触して、「この人は気品があるな?」と感じる場合、どのような所に目を付けているかと云うと、殆ど意識せずに三つ位の物差しで見ている。
その一は「応対辞令」のしっかりした人か?
その二は「出処進退」のきれいな人か?
その三は「反省改過」の真摯な人か?
その中でも、初対面で分かってしまうのが「応対辞令」(応対接遇の際の言葉づかいや態度)ですから、ここがしっかりしていないと、どんなに中味が立派でも「こりゃダメだ!」となって、疎んじられるか侮られるかしてしまう。つまり、大変に損をしてしまう。
為政第二(026章)で孔子の人物鑑識法を紹介致しましたが、その冒頭に「其の以(な)す所を視(み)」とあるように、まず言葉づかいや態度を見るというのが定石なんですね。
ですから、文質彬彬・外見も中味も、バランスよく調和していることは重要である。
徳永圀典